第29話 白光の審判、そしてその代償
喉に声を出そうとしても、針のような痛みが血と一緒に詰まっていた。
何かを掴もうと手を伸ばすが、指先に触れたのは冷たい闇だけ。
――目を見開いた。
息が荒く、肺を引き裂かれるかのようだった。
鼻を突くのは消毒液の冷たい匂い。
咳き込む寸前で堪える。
光は白く、無機質で、まるで死人を照らす灯りのようだった。
天井にはヒビが走っていた。
剥がれかけた罪咎コミュニティの医療室の天井。
それが、俺がここにいるという証明だった。
目尻に、温かな濡れた感触。
(……また、あの夢か。)
ゆっくりと上半身を起こす。
指先が無意識に背中へと伸びる。
触れたのは、ざらりとした皮膚。
馴染みすぎて吐き気がする。
(……罪印。)
右手を伸ばす。
手の甲から上腕にかけて一直線に残る痕跡。
手のひらを返しても、同じ場所に赤い線が浮かぶ。
まるで、かつて体が真っ二つにされたかのように。
(……なんだ、これ。)
眉をひそめ、最後の記憶を必死に辿る。
詩音が俺の罪装によって拘束され――
十字架に磔にされたあの光景。
刃物で脳に刻まれたみたいに、その映像が疼きとして甦る。
額を押さえる。
指先に力が入りすぎて、関節が白くなった。
痛みを押し殺すように。
その時。
――コツ、コツ、コツ。
ドアの向こうから、ヒールの音が響く。
リズムは整っていて、どこか無理に平常を装っているような音。
「透、起きたの?」
橘 美櫻の声だった。
顔を上げる。
彼女は白衣のナース服を着たまま、額には新しい絆創膏。
疲れた表情をしているが、それでも何とか平静を装っていた。
一歩近づき、じっと俺の顔を見つめる。
生きてるかどうか、確認するように。
「調子は? どこかまだ痛む?」
喉を動かしてみる。
しゃがれた声が出た。
けど、思ったよりも喋れた。
「……平気だ。」
声は意外と静かだった。
「喉も、もう大丈夫。」
肩に包帯はなかった。
目をやると、うっすら赤い跡が残るだけだった。
「……これはどういうことだ?」
美櫻は肩をすくめ、小さくため息をつく。
皮肉まじりの口調で答えた。
「……今朝、あんたをここに“投げ捨てた”らしいよ。」
俺のボロボロな姿を一瞥し、彼女の声がわずかに柔らかくなる。
「動けるの見て、正直ちょっと安心したわ。」
横を向いて、口元が少し引きつる。
その仕草は、素直な心配を隠そうとしているようだった。
「どうせ、数日寝たきりになるかと思ってた。
『高効率治療』ってやつ、されたらしいけど……
外傷は治っても、副作用がヤバいってさ。
全身から何かを抜かれたみたいに、疲れるって。」
手に持っていた薬のトレイを横のテーブルに置く。
そのまま俺の目を真っ直ぐ見て、ぶっきらぼうな声で言った。
「……でも、今の顔見たら最初と同じくらい酷いね。」
「生き延びたなら、さっさと目ぇ覚ませよ、透。」
言い終えた彼女はすぐに眉をひそめ、視線を逸らす。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
俺はすぐに返事せず、ただ深く冷たい空気を吸い込んで吐いた。
(……生きてるのか。)
(ふざけんな、もうたくさんだ。)
美櫻は椅子に腰を下ろし、膝の上に両手を置き、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……あの夜、正直……怖かった。」
彼女は俺を見ないまま、低く絞り出すようにそう言った。
俺はゆっくりと姿勢を正し、喉を押さえながら尋ねる。
「……詩音と熊谷は?」
声はまだかすれていたが、言葉にはなった。
美櫻は口を噤んだまま、ナース服の裾を指でいじる。
「私もここで目が覚めた。二人の姿は見てない。」
「たぶん、別の治療区に送られたんじゃないかな。」
彼女はようやく顔を上げた。
目元には明らかな疲労の影。
「翌日の朝礼で、あの夜のことは……
『特別番組』って、軽く済まされたよ。」
その言い方に、皮肉が混じる。
「すごいよね。『予想外の演出効果で視聴率爆上がり!』だってさ。」
「死人が何人出たかなんて、誰も気にしちゃいない。」
俺の胸に、何か重たいものが詰まっていく。
(……特別番組、か。)
(ただの娯楽に、されたのか。)
美櫻は横目で俺を見た。
声が急に小さくなり、誰かに聞かれたくないようなトーンに変わる。
「……むしろ、あんたが今、爆バズ中らしいよ。」
「AIの配信、あのまま切られなかった。
審判で詩音を磔にする場面、全部中継された。」
彼女は唇を噛むようにして言った。
「朝礼では、編集版まで流されたよ。
タイトルは……『審判官の活躍』、だってさ。」
「観客のコメント欄、あんたの名前だらけ。
『神回』だの『リピ確定』だの……」
声がどんどん冷たくなっていく。
「……もう、完全に狂ってる。」
「AIも、あんたを『特別執行者』として売り出す気なんじゃない?」
俺は返事せず、シーツの皺をじっと見ていた。
それは波のようでいて、死んだように冷たかった。
数秒の沈黙。
そして、ゆっくりと足を床に降ろす。
冷たい。骨に染みる冷たさだ。
横に置いてあった服を手に取る。
ぎこちない動きで袖を通す。
「……透?」
美櫻の声が、少し慌てた。
身を乗り出し、目がどこか不安げ。
「どこ行くの? もう少し休めば……」
俺はゆっくりとボタンを留めながら答える。
喉にはまだ熱が残っていた。
「……八雲に会いに行く。
――あの日、何が起きたのか。聞いてくる。」
美櫻は言葉を詰まらせたまま、俺を見つめていた。
何か言いたげで、でも何も出てこないような顔。
俺は彼女を一瞥し、扉のほうへと歩き出す。
背後に残ったのは、彼女の言いかけた息と、
消毒液の冷たい匂いだけだった。
それは、感情までも凍らせるような空気だった。




