第28話 刻まれた印
視界は、水の膜を隔てたように揺れていた。
耳に最初に届いたのは、小さな音。
包丁がまな板を叩く音と、IHコンロのピッピという加熱音。
──キッチンだ。
懐かしすぎて、逆に現実味がなかった。
ドアを押し開けると、中は柔らかな光に包まれていた。
罪咎コミュニティのあの冷たい白とはまるで違う、暖かな灯り。
母はキッチンの前に立ち、古びたエプロンを締めていた。
髪はざっくりとクリップでまとめられ、うなじの線が細く浮かんでいる。
コンロには鍋が置かれ、中から漂う香り──
それは、普通のスープの匂いだった。
あの、粘ついた栄養剤ではない。
「おかえり、透。」
母は振り返らず、ただ静かにそう言った。
その声には、責めも感情もなかった。
けれど、それがずっと聞けなかった声だった。
「うん、ただいま。」
あの頃の俺は、声が明るかった。
なんのためらいもなく答えていた。
母は鍋をゆっくりとかき混ぜ、木のスプーンが鍋の縁を打つ音が響く。
振り返った彼女は、少し疲れた顔をしていたが、笑顔は窓辺に差し込む陽だまりのようだった。
「ご飯、もうすぐできるよ。カバン置いて、手洗ってきて。」
「はーい。」
夢の中の俺は、それだけで嬉しそうに笑っていた。
悩みなんて一つもない顔。
「罪」なんて言葉を、これっぽっちも知らない表情。
母がふと、何気ない調子で聞いてきた。
「学校、どうだった?」
「うん、今日もまぁまぁ。みんな、文化祭の準備始めてたよ。」
「文化祭かぁ……いいね。」
彼女は笑った。
その時、目尻のしわが少し深くなった。
「……ずっと、こうならいいのにね。」
小さな声で、そう呟いた。
夢の中の俺は、その意味を理解できなかった。
ただ、ぽかんと頷いていた。
「ん? なに?」
「なんでもないよ。早く手洗って、お味噌汁飲んで。」
「……はーい。」
──
俺は、母のその笑顔をじっと見つめていた。
穏やかで、何の変哲もない笑顔。
その光景が、だんだんと歪んでいく。
まるでガラスが割れるように砕けて、闇に沈んでいった。
あの頃の自分。
声は明るく、まっすぐで。
笑顔には、何の裏もなかった。
今の俺は……
(……まるで、別人だ。)
(遠すぎる。知らない誰かみたいだ。)
──そして、あの夜の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
玄関を叩く、急なノック音。
白衣を着た人々が家に上がり込んでくる。
表情は穏やかで、冷たい。
教会の人間だった。
彼らは、黒い十字が印刷された書類を持ち、
静かに、俺の両親に宣言した。
「感化のためです。」
「すでに、彼の罪は確認されています。」
俺には意味がわからなかった。
ただ、父がうつむき、母が背を向けていた。
「待って、どんな罪って……?」
俺は説明しようとした。
弁解しようとした。
でも、誰も俺を見なかった。
白衣の男たちが俺の腕を掴み、玄関の外へ引きずり出す。
「やめて、助けて……! ママ!」
母は振り返らなかった。
けれど、その手がエプロンをぎゅっと握りしめたのを、俺は見ていた。
「これは、君のためなんだ。」
男の一人が、優しげに言った。
「中で、ちゃんと生きていくんだよ。」
(……一体、何が起きたんだ?)
(俺が犯した罪って、なんだ?)
──
次に連れて行かれたのは、山の上の、薄暗い施設だった。
窓はなく、あるのは金属のドアと灰白色の壁。
彼らは「登録手続き」と呼んでいた。
ドアが閉まるその瞬間、俺はようやく気づいた。
――閉じ込められたのだと。
天井のライトは眩しく、まるで裸にされているようだった。
消毒液の匂いが鼻を刺す。
壁はつるつるとして反射し、まるで医療室か、儀式の部屋のようだった。
「服を脱いで。」
背後にいた、半透明のフェイスシールドをつけた執事が冷たく言った。
俺は振り返ったが、その顔は見えなかった。
動けなかった。
頭の中には、最後に見た両親の背中だけがぐるぐる回っていた。
玄関に立ったまま、何も言わず、俺を一瞥もしなかった。
「……なにもしてない……」
震える声が、口から漏れた。
執事は返事もせず、壁のスイッチを押した。
冷たい機械音が鳴り、壁が滑るように開く。
その奥に並んでいたのは、消毒台と、銀色の器具。
全身が冷え、指先がかじかんでいた。
やがて、俺はゆっくりと――
外套を、シャツを、ズボンを脱いだ。
冷たい床の上に立つ俺は、まるで重さを量られるだけの殻だった。
彼らは俺の身体を検査し始めた。
動きは冷たく、素早く、機械的。
まるで、家畜を選別するかのように。
俺はただ、震えを堪えた。
視線の先に、自分を置かないようにした。
最後に、執事が細い金属棒を取り出し、
それを加熱装置に差し込んだ。
先端が赤く焼けていく。
焦げた油のような匂いが漂う。
「第47条に基づき、罪印を確定します。」
それが何か聞く暇もなかった。
二人が俺の肩を押さえつけ、冷たい床に押し付けた。
焼けた金属が、俺の背中に触れる――
世界が静まり返った。
叫びも、音もなかった。
ただ、皮膚が焼けるジリジリという音だけが響いていた。
痛みではなかった。
何かが「失われていく」音だった。
その印は、俺のためのものじゃない。
それを見る人間のためのものだ。
壁の監視カメラが赤く点滅し、それを記録していた。
まるで『浄化』の開幕式のように。
それは、こう告げていた。
――「この者、罪あり」と。




