第27話 白い十字架の審判
詩音が突如、剣を高く振り上げた。
その刃は真っ直ぐに熊谷の頭上を狙っていた。
考えるより先に、身体が動いた。
「下がれ、熊谷!」
俺が叫んだ瞬間、右手が自然と前に伸びた。
あの剣撃を、素手で止めようとしていた。
その瞬間、腕に衝撃が走る。
冷たい感覚が血管を逆流し、まるで封印が解かれたような錯覚。
刃は一直線に振り下ろされる。
俺の右手を、骨ごと断ち切る角度で、ためらいもなく。
灼けつくような痛みが腕を襲う。
だが俺は退かない。むしろ、一歩、前へ。
——そのとき、確かに聞こえた。
それはAIの声ではなかった。
脳内に直接響く、馴染み深くもどこか異質なコードネーム。
(CODE)──「制御不能の破壊欲」
心臓が一気に締め付けられる。
血と胃酸が喉をせり上がり、俺は掠れた声で問いかけた。
「……この審判を……受け入れられないのか?」
詩音の瞳が、ピクリと震えた。
その一瞬、剣が俺の眼前で止まる。
心臓がドクンと鳴った。何かが、臨界を超えた。
空気が、音もなく断ち切られるような感覚。
次の瞬間、冷たく機械的なAIの声が響く。
〈告解代価確認。罪装の生成を開始します。〉
白い鎖が、地面から、壁から、空気中から――
まるで生き物のように出現し、詩音の手首、足首、腰を絡め取っていく。
「……罪装……?」
俺はその光景を見つめながら、喉を裂くような声で呟いた。
金属の引き裂くような音が鳴り続ける。
詩音はなおも抗おうとするが、動きは止められた。
巨大な剣が彼女の手から砕け、光の塵となって消える。
彼女の目は焦点を失い、まるで力尽きたようにぐったりとする。
鎖がさらに絡みつき、詩音の身体を宙に引き上げる。
金属音が空間を支配する中、鎖が空中で交差し、
やがて、彼女を固定する――巨大な、十字架を形成した。
それは目が眩むほど白く、聖なるもののようでありながら、恐ろしいほど冷たい。
傷口から血が滴り落ち、床に細かな模様を描いていく。
だが彼女は、もう動かない。
詩音は頭を垂れ、乱れた白髪が顔を隠している。
鎖に絡まれた指が微かに痙攣し、息が混濁した嘶きへと変わる。
まるで、死の間際の獣の呻きだった。
俺は身体を起こそうとするが、全身が重くて動かない。
右腕は焼けるように痛み、まるで自分のものではないようだった。
床には赤黒い液体が広がり、誰の血かも判別できない。
(俺の? それとも……)
視界が滲み、白い十字架が焼き付くように網膜に刻まれる。
(……これが、俺の「審判」か)
(彼女を、罪人として晒すための――)
それでも、俺は見届けようとした。
最後まで、彼女の姿を。
重たいまぶたが閉じようとしたとき、目の前に光る革靴が止まった。
「……ハァ……」
俺は息を荒げながら、視線を上げる。
ピントがようやく合う。
八雲が、十字架の下に立っていた。
背中を俺に向けたまま、片手の指を軽く上げて、まるで舞台の役者がフィナーレを告げるかのように、指を鳴らした。
「パチン」
大スクリーンに映っていた詩音の映像が、一瞬でブラックアウト。
AIの赤い監視カメラも、次々と消灯していく。
観客席に流れていた狂気のコメントも、まるで血管を断ち切られたかのように、突然止まった。
……完全な沈黙。
それが、何よりも恐ろしい。
八雲がゆっくりと振り返る。
白い十字架を背に、両手を広げ、まるで主役に拍手を送る演出家のように微笑む。
「――やはり、お前にしかできないと思っていたよ」
首をかしげ、その目に妖しい光を宿す。
「白だなんて……面白いね。
君の心のどこかで、彼女を“無垢”だと感じていたんじゃないか?」
(……また訳の分からないことを)
俺は喉が裂けそうになりながら、八雲を睨みつけた。
「八雲ッ!」
重い足音と共に、熊谷が駆け寄ってくる。
血まみれの手で八雲の胸倉を掴み、声を震わせて怒鳴る。
「このクソ野郎……!」
(ダメだ……感化官には手を出しちゃ……)
「やめろ……っ……」
俺の声は、まるで破れた布切れのようにかすれている。
哀れにさえ聞こえる。
それでも、熊谷は聞こえたようだった。
拳を上げたまま、八雲の前で止まる。
震える指、歯を食いしばったまま、殴ることはできなかった。
八雲が目の端で俺を一瞥する。
(……ダメだ、もう限界……)
こめかみの血管がドクドクと波打ち、視界が大きく揺れる。
そのとき、AIの冷たい合成音が響いた。
〈西園寺 透、告解手続きの継続を要請します〉
八雲の口元が歪む。まるで悪魔が耳元で囁くように。
「――言えよ」
俺は唇を噛み、血の味が口内に広がる。
白い鎖に縛られた彼女を見つめる。
あの白い光が、その顔を照らしている。
彼女はまだ息をしている。
まだ、諦めていない。
「……君の罪は……」
声が震え、喉の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……ここに、封じられている」
胸の奥で血のようなものが逆流する。
俺は、最後の一言を、吐き出すように告げた。
「――これが、俺の審判だ」
空気が引き裂かれるような沈黙。
次の瞬間、AIの声が静かに響く。
〈告解認証完了。罪装、解除。罪人・枷堂詩音、拘束移送を開始します〉
鎖がゆっくりと緩み、十字架の白い光が次第に淡くなる。
詩音の身体は、機械のアームに抱えられ、ゆっくりと地に降ろされた。
俺が最後に見たのは、彼女の震える睫毛、そして、血と涙が交差したその顔だった。
力が、一滴ずつ身体から抜けていく。
俺は、糸が切れた人形のように、石の床に倒れ込んだ。




