第18話 演じるのは、俺自身だ
深夜だった。
寮には三十人が詰め込まれ、二段ベッドが家畜小屋みたいに並んでいる。
空気はカビた袋の中みたいに重く、汗と煙草の匂いがこびりついていた。
廊下から漏れる白い光が、乱れたシーツと床を斜めに照らす。
呼吸音が重なり、時々うなされる声やベッドのきしみが混じるたび、ここが牢獄だと思い知らされる。
下段のベッドに横たわる。
包帯は血でほとんど真っ赤。
身体にはまださっきの疲労が残っているのに、胸の中は――空っぽだった。
間宮が、俺のベッド脇に腰を下ろしていた。
肘を膝にかけ、いつもの煙草をくわえたまま。
目線だけがこちらを突き刺す。冷たい探針みたいに。
「……なんだ、その顔。」
声はやけに低い。温度ゼロの囁き。
「……ちょっと、ぼーっとしてただけだ。」
息を整えながら、上段のベッド板を見上げる。
喉に何かがつかえているみたいで、言葉が重い。
彼女の指先が、包帯の端をそっと撫でる。まるで傷口を探るような、冷たい感触。
一瞬止まり、ぐっと力を込めた。
「……痛い?」
彼女の唇が微かに歪む。嘲笑か、それとも別の何かか。
「……当たり前だろ。」
歯を食いしばって、やっと吐き出した。
(……何を求めてんだよ。懇願の声か? それとも、俺が痛がる顔か?)
彼女は指を離し、膝に擦りつける。
口元に浮かんだ笑みは、とげを隠そうともしない。
自分を罵ってるみたいにも見えた。
煙草に火を点け、吐き出した煙が一瞬で彼女の顔を隠す。
あの平坦な目だけが、まだ俺を見ていた。死体でも眺めるみたいに。
寮は静まり返り、寝息とベッドの軋みだけが続く。
(……橘 美櫻に告白された時と同じだ。)
(“答え”なんてわかってる。けど、それは俺の本音じゃない。求められてる台本だ。)
――天井をにらむ。
肩の痛み、口の中に広がる鉄の味。
それでも、視線は動かさない。
煙の匂いが薄れた頃、間宮は舌打ちをひとつ。
「……チッ。」
乱暴に立ち上がる。金属のきしむ音が耳に刺さった。
そして、何も言わず上段へ。
柵を蹴るガンッという音が、最後の繋がりを断ち切ったみたいだった。
――バネの音が、数回震えて消える。
身体を起こす。
包帯の下で血が滲む。さっき押しつけられた熱が、まだ皮膚に残ってる。
でも――この胸の空白は、埋まらない。
(結局、同じだろ。)
(便利な肉体。安心の交換条件。)
(どれだけ汚れてても、演じるしかない。それが――俺のSHOWだ。)
ぼんやりしていたその時。
聞きたくもない声が、耳元に落ちた。
八雲。
あの、切符も買わずに特等席で笑う観客みたいな声。
「いやあ、いい“寮内シアター”だったな。」
「観客、拍手喝采だぜ? 子羊ちゃんたち。」
間宮の舌打ちが、上段から落ちてくる。
「……死ね、変態。」
ガタ、と寝返り。もう声は返ってこない。
胸が詰まる。息を吸うのも痛い。
なのに、八雲は――肩を叩いて笑う。
「さ、立てよ。」
「……休ませろよ。ここ、舞台じゃねえんだぞ。」
「舞台だろ? どこだと思ってんだ、お前。」
――吐き気がするほど当然みたいに言いやがる。
殴ってやりたい。でも、やらない。
歯を食いしばり、服を着る。
包帯が引っ張られて、肩が焼けるみたいに痛い。
ちら、と上段を見る。
暗闇の中、何も見えない。ただ、バネが一度、軋んだ気がした。
そのまま、八雲に従って廊下へ。
冷たい影が、獄舎みたいな通路に伸びる。
八雲に連れられ、寮を出る。
AIカメラが、蛇みたいなノイズを吐いた。
ディスプレイには、すぐコメントが踊る。
【おい誰か出たw】
【どこ行く? 告解か?w】
チラ、と一瞥するだけで、黙って歩く。
八雲も何も言わない。
――数時間前、血を垂らしながらあのショーを終えたばかりだってのに。
今さら、何の用だよ。
夜の街路は、不自然なほど静かだ。
壁際を抜け、大きく迂回する。
目指すのは――あの塔。
城壁みたいな石の塊。
中央の大聖堂と同じ、無機質な灰色の素材。
中世と現代を無理やり継ぎ合わせたデザイン。
規則性ゼロ。意図なんかない。ただ、「檻」のための装飾。
八雲がゲートに立つ。
電子ロックが低い音を鳴らし、赤い光線が顔をなぞる。
――カチリ。
鍵が外れる。
もう、我慢できなかった。
「……どこへ連れてく気だ。」
彼は振り返り、笑う。
あの、底が見えない笑顔で。
「懺悔の道だよ。逃げんなよ、子羊ちゃん。」
(……まただ。何も言わず、何でも知ってるフリして――神様気取りかよ。)
石の螺旋階段。
狭くて、滑って、終わりが見えない。
どれくらい登ったか、数える気も失せたころ――
扉。古びた木の扉を押し開けると、夜風が頬を切った。
「……ッ。」
思わず肩をすくめる。
でも、そのまま足を進める。
視界が開ける。
細長い城壁の頂。
下は――街。
「罪咎コミュニティ」は山の上に築かれている。
ここから見下ろす街は、模型みたいに小さい。
光が溢れてる。必死に、この檻の影を照らそうとするみたいに。
無意識に、手を石壁にかける。
冷たい。ざらつく。
目線は――越境したその向こう。
俺がかつて、暮らしていた場所。
(……戻れねえんだろうな。)
背後から、八雲の声。
「ほら、気に入っただろ。……落ちるなよ?」
「……黙れ。」
吐き捨てるように言って、再び街を見下ろす。
ガラスの塔みたいなビルが二、三本。
あの辺りに、俺の家が――。
……外の空気だ。
AIの眼も、あのクソみたいな天幕もない。
代わりに吹きつける、強烈な冷風。
肺の奥まで凍るような冷たさ。
八雲が隣に立つ。
夜景を見ながら、口角をゆるめる。
「やっぱ、お前は芝居がうまいよ。」
「……黙れって言ったろ。」
彼は笑うだけ。
ポケットから一束の紙を取り出し、俺に差し出した。
――その瞬間、強風が吹き抜ける。
バサッ――。
紙が宙に舞った。
何枚かは、夜空に吸い込まれるように消えた。
「……ッ!」
手を伸ばすが、遅い。
舌打ちしながら、八雲を見る。
「……おい、ふざけんな。これでいいのかよ?」
彼は――笑っていた。
狂ったみたいな、歪んだ笑みで。
風が一瞬、止む。
一枚の紙が、俺の足元に落ちた。
そこに印刷されていたのは――名前と写真。
――橘 美櫻。
(……そういうことだ。)
八雲の言う「脚本」なんて、最初からなかった。
あるのは――6C班の情報だけ。
(――決めろってことか。俺が、どう演じるかを。)
冷たい風が頬を裂く。
俺は、その紙を握りつぶした。




