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昭和末年の別れ

 かつて大須観音の裏手には旭遊郭という色街があった。

 観音寺と遊郭の組み合わせで発展したという意味では、浅草寺と吉原の関係と同様である。しかし吉原が現代の色街として生き残っているのに対して、旭遊郭はかなり昔に中村という場所に移転している。

 移転したのが大正十二年だから、今から百年も前のことだ。

 しかし路地に入ると水商売の店がいっぱい並んでいて、そういうイカガワシイ雰囲気はおれの子供時代にも根強く残っていた。

 そんな土地柄もあって大須のガキは早熟だった。セックスの概念についても、かなり早い段階から把握していたように思う。

 把握はしていたけど、そういうことは大人になってからの話で、子供には関係ないものと思っていた。

 しかし同級生がブラジャーなんかを着け始めると、いやでも意識せざるを得ない。さらに自分の身にも、所かまわず息子が元気になってしまう珍現象がおこり始める。まさに、


「いつか来るとは知っていたが、今日来るとは思わなかった」

 というやつだ。


 ついこの間まで一緒に着替えてもなんとも思わなかった女子が、急に性的な存在に変化してしまう。これは奇妙な感覚だった。

 かなりルックスの劣る女子でも、何かの拍子でパンツが見えてしまったりすると、たちまち息子が暴走してしまう。

 そんな気はまったくないのに、息子が言うことを聞かないのだ。

 ああ、この年で親子の断絶を経験するとは思わなかった。頻発する不良息子の暴走を世間から隠し通すのはかなり大変だった。


 ただ、何事にも例外はあるもんで、梅ちゃんにだけは性的興味をまったく覚えなかった。

 彼女は当時、学校でもっとも発育のいい女子だったはずだ。初潮もブラジャーも同級生でいちばん早かったんじゃないかと思う。

 思春期に突入し始めた少年が四六時中彼女と一緒にいて、ふと妙な気持ちになったとしてもまったく不思議ではない。

 ところが、ふだんは言うことを聞かない暴走族の不良息子も、彼女の前では借りてきた猫のようにおとなしかった。

 いや、そういえば一度だけ、性的興味とはちょっと違うけど梅ちゃんに対して妙な気持ちになったことがある。

 われながら血迷ったとしか思えない、小四の夏の記憶である。


       〇


 おれの両親は大須のアーケードで洋服屋を経営していた。

 その洋服屋はけっこう繁盛してたようで、小金をためた両親は、小売りから足を洗って婦人服の製造卸し業に進出することにした。

 そこで大須の店を売り払って、となりの区の住宅街に作業場兼住居を新築した。昭和63年、つまり昭和最後の夏のことである。

 あれは、おれが引っ越す直前のことだったが、いきなり梅ちゃんが仁王さまを倒すと宣言したことがある。


 おれはその頃、気の重い毎日を過ごしていた。

 引越しが決まってからというもの、梅ちゃんの機嫌がムチャクチャ悪くなって手がつけられなかったからだ。

 その日も電話で大須公園に呼び出されたとき、また引越しのことを責められるのかと思ってゲンナリした。

 大須公園は万松寺通りから一本入った裏通りにあった。中州みたいに、道の真ん中をふさぐようにして作られている菱形の公園である。公園といっても、でっかい噴水がドンと置かれているだけで他には何もない。

 ところが公園に来てみると、梅ちゃんは非常に上機嫌だった。めずらしく取り巻きがおらず、おれたちは二人きりで噴水のへりに座った。

 聞けば久しぶりに刺客を返り討ちにしたという。

 刺客とは彼女のうわさを聞きつけて挑戦してくる他校のケンカ自慢のことだ。ちなみに大須小学校の内部から発生する挑戦者は謀反人と呼んでいた。

 その日のお相手は、ちかごろ隣の栄小学校に転校してきた大阪の不良だそうだ。

 いまや梅ちゃんの悪名は区内全域にくまなくとどろき渡っていたので、そういう無謀な挑戦を仕掛けてくるのは、何も知らない転校生以外はありえない。


「そいつがまた下品な関西弁を使っとってね、往生こいたわ」

「凄えがや。梅ちゃんに勝てるのは仁王さまぐらいのもんだな」

 おれは久しぶりの上機嫌におもわず油断して、ついそんな軽口をたたいてしまった。


「あんた何言っとんの?」

 梅ちゃんはさっきまでの上機嫌がうそのように、サッと顔を曇らせた。しまった、これでは彼女が仁王さまより弱いみたいだ。


「い、いや、あの……仁王さまは二人おるで……いくら梅ちゃんでも二人がかりはヤバいんじゃない……かな?」


 梅ちゃんは獲物をねらう狼の目つきでおれをにらみながら、おもむろに指をポキポキ鳴らし始めた。これはマズい。非常にマズい。


「いいいいい一対一なら大丈夫だて! いくら仁王さまでも一対一なら負けやせんて! ぜぜぜぜぜ絶対だて!」


 われながら情けないほどシドロモドロになってしまった。これはもうしょうがない。梅ちゃんににらまれたら、誰だってこうなるのだ。

 おれはビンタの二、三発は覚悟した。だが意外なことに彼女は急にため息をついてうつむいてしまった。


「あんたはヤッパリあたしのことそんな風に思っとった?」

「えっ?」

「ひどいと思ったことないの? あたしと仁王さまを比べるなんて。だってレディに対して失礼だがね」

「えっ? えっ?」


 一瞬なにを言ってるのかわからなかった。正直な話、梅ちゃんとレディという言葉がどうしてもつながらなかったのだ。

 しかし彼女はおれの困惑をよそに、さらに理解不能な言葉をまくしたてた。


「あたしのこと腕力だけのゴリラ女と思っとるわけ? 女らしさのかけらもない筋肉バカと思っとるわけ? 仁王さまと戦って喜んでる子と思っとるわけ? そんなわけないがね」


 そんなわけないといわれても困る。

 大須の住人に梅ちゃんのイメージを聞いてみるといい。九十パーセントの住人がゴリラ女と答えるだろう。残りの十パーセントは筋肉バカと答える。

 どうも彼女は最近おかしい。おれの知ってる梅ちゃんは、まさに仁王さまと戦って喜んでるような子だったはずだ。おれはもうすっかり混乱してしまった。


「うん、いや、なんと言うか、その、いわるひとつの……」

「でも仕方ないわね。あんたは強い子が好きなんだで」

「うん、おれは強い子が……えっ? そうなの?」

「だって幼稚園のとき言っとったがね、仁王さまが好きだって。強いからって」

「ああ、そんなこと言ったっけ」

「それであたしはがんばって、無理して戦っとったんだからね」

「えっ、趣味で戦っとったんじゃないの?」

「そんな趣味があらすか。あんたの理想的な女になるためだがね」


 おれは度肝を抜かれた。これはほとんど愛の告白ではないか。いや、薄々は感じていたけど、こういう形で告白されるとは思わなかった。

 いままで少しでもいい雰囲気になりかけると、おれは秘術を尽くして話題をそらし続けていた。うーむ、最後の最後で油断してしまったようだ。

 おそらく決死の思いだったのだろう。よくみると梅ちゃんは顔を真っ赤にさせて、目には涙がジンワリとたまっていた。

 彼女の涙を見たのはこれが初めてだった。しかし梅ちゃんには悪いけど、


(鬼の目にも涙だがや)

 といった間抜けな感想しか浮かばなかった。


 人間、自分のキャパシティを超えた出来事に直面するとフリーズしてしまう。おれは口を半開きにしまま、何も言えずに立ち尽くしていた。

 しばらくすると梅ちゃんは涙をぬぐい、晴れ晴れとした表情を見せた。なにやら自分の中で決着がついたらしい。

 そして吹っ切れたような声で、またもやとんでもないことを抜かしやがった。


「まあいいわ。あんたと別れる前に、最後にとっておきの物を見せたるわ」

「はあ」

「あんたのために仁王さまと戦ったる」

「はっ?」

「あんたが心置きなく引っ越せるように仁王さまと戦うって言っとるんだが。あたしもそれであんたへの想いを断ち切るわ。まあ、こんな女がいたってこと、忘れんといて」


 そういうと、梅ちゃんはサッと背をむけて走り去った。おれの頭はクエスチョン・マークで一杯になった。

 彼女と仁王さまが戦うと、どうしておれが心置きなく引越せるんだ? おれの引越しと仁王さまと何の関係があるんだ?

 一時間考えてもわからなかったので、あきらめて家に帰った。


 その日から梅ちゃんは、毎晩、丑三つ時になると家を抜け出して大須観音に通うようになった。例の噂を信じて、仁王が動き出すのをじっと待っていた。

 当然おれも立会人としてつき合わされるハメになった。夏休みに入ってたから良かったものの、冬だったり学校があったりしたら地獄だったな。

 連日、梅ちゃんは仁王門の前に座り込んで、二つの像を交互ににらんだ。その目は真剣そのもので、まるで勝負にいどむ剣豪のようだった。

 おれも固唾を飲んで見守った。しかし二人とも小学生なので集中力は続かず、いつのまにかダベり始めるのだった。


「あんたは幼稚園の頃から仁王さまが好きだったね」

 あるとき、梅ちゃんはしみじみとした表情で、そう切り出した。


「そうだっけ?」

「いっつもこの門の前で仁王さまを眺めとったがね。あたしが余所へ行こうって言っても、テコでも動かんかったわ」

「よう覚えとるなあ」


 しかし言われてみればたしかに仁王さまを飽きずに眺めていたような気がする。それには理由があった。

 俺は四歳の頃、重い病気にかかった。母親はお百度参りじゃないけど毎日ここにきて回復を祈っていたそうだ。

 そしてある日、病室で看病していた母はベッドのわきで、ついうとうとした。そのときに不思議な夢を見た。

 仁王さまが苦しんでいるおれの頭をなでて、


「いい子じゃ、いい子じゃ」

 と言っているのだ。


 ハッとして目覚めた母は、ニコニコしながらこちらを見るおれに気付いた。もうおれはすっかり回復していた。

 退院したとき母親は、仁王さまが病気を退治してくれたのだ、と言った。


「だからおれはお袋の話を信じてよ、感謝のお参りをしとったんだわ。おかげで体は丈夫に育ったがや」

「丈夫て……そのわりに、よう休んどるがね」


 確かにおれは四年生になってもよく学校を休んだ。それはちょっとでも微熱があると大げさに騒ぎ立てて、なるべく休もうとするせいだ。

 なぜなら梅ちゃんと顔を合わせたくないから。しかしそんなことは面と向かっていえないので、おれは笑ってごまかした。


「あんたが仁王さまを好きだって言ったときね、悔しくてしょうがなかったわ。こいつには絶対負けとれんって思った」

「え……」

「そのときからあたしの戦いが始まったんだて、強くなるための」

「………」

「あんたに強いって言われるのが楽しみだったわ、またひとつ仁王さまに近づいた気がして」


 おれはジワジワと事の重大さを認識しはじめた。どうやら梅ちゃんは、幼稚園時代のおれの不用意な一言がきっかけで怪物化の道を歩み始めたらしい。

 仁王が好きだといったばかりに、彼女は仁王に嫉妬し、仁王のように強くなることを望んだのだ。おれ自身はそんなことすっかり忘れていたというのに。

 そういえば、おれは何かというと梅ちゃんの強さをほめ称えていた。もちろん彼女の機嫌を損ねないようにと思ってのことだった。

 ところが彼女にとっては、おれがほめるから頑張ったという認識なのだ。

 おれは自分でも知らないうちに恐るべき怪物を育てていた。これは非常に恐ろしいことだ。フランケンシュタイン博士の苦悩である。


 とにかくそんな感じでおれたちは毎晩、夜明かしをした。

 梅ちゃんにとって、恋のライバル(?)である仁王との決着は、おれが引っ越す前に必ずつけなくてはならない最重要事項なのだ。書いてて馬鹿らしくなるが事実なのだ。

 しかし当たり前の話だが、いつまでたっても仁王が動き出す気配はない。ひたすらむなしく時を過ごし、とうとう引越しの前日になってしまった。

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