それは宝物のように
たぶんそこにあったのは、慈愛に満ちた聖女の微笑みというものなのだろう。
それ以外に、形容することが難しいと、シグルは思った。
「はじめに、お詫びをさせてもらえませんか?」
「――――詫び?」
「ええ。私、聖女の力はほとんどなくなってしまったのですが、聖女になる前に一つだけ恩恵を持っていたんです」
「ああ、最低誰でも一つは……」
この世界の人間は、精霊王から恩恵を授かる。
その恩恵の内容は、6歳の誕生日に神殿で知ることが出来る。
「毒無効」
「――――え?」
そして、聖女として予言で見いだされるまで、ミシェルの持っていたのは、毒無効の一つだけだった。
「私は、平民です。だから、毒無効なんて何の役にも立たない恩恵だと、周囲には笑われました」
精霊王の愛は平等だ。
だから、恩恵はその人間が、人生で必要になる最も大切なものが与えられる。
それなのに、平民の少女に与えられたのは、毒無効の恩恵。
周囲は困惑した。
「聖女の力がなくなった私に残ったのは、初めから持っていた、自分の毒を無効化する力だけなんです」
シグルの瞳から、涙が流れ続けるのを見つめながら、もう一度ミシェルはシグルのことを抱きしめた。
「ごめんなさい。別に、隠しているつもりではなかったんです。この部屋に入ったときに、毒に満たされていることは気がついていたのに……。シグル様が、私のことを避けている理由、毒が原因なんだって気がつくべきだったのに」
「――――ミシェル」
「ふふ。初めて名前を呼んでくださいましたね?」
「…………ミシェルは死なないのか?」
「…………少なくても毒では、死にませんよ」
シグルは、ミシェルの背中に思わず手をまわした。
抱きしめた感触は、温かくて。
ミシェルの香りは、朝露に濡れた小さな花のように甘い。
「あっ…………」
不意に、ミシェルがシグルを押しのけた。
その胸板に、手を当てたまま、みるみるミシェルの頬が赤く染まっていく。
「…………あ、あの。お風呂」
「え?」
「あの……。着替えてもいないですし。着の身着のまま来てしまったから」
シグルは、真っ赤になっているミシェルをしばし見つめる。
そんなこと、配慮したことはなかったな、とシグルは反省する。
みんな3日も経たずにシグルの前からいなくなってしまうから。
そして、いなくなった人間は、いつの間にか消えてしまうから……。
命の灯が途絶えた体が消えてしまうのは、精霊であるカルラの力なのだ。
だが、カルラの力にも限りがある。生きている人間を、厳重に毒魔法が漏れ出ることのないように結界に守られたこの場所から、出すことはできない。
「カルラ。用意を……。あと、服を」
「お召し物については、用意してありました」
「――――どうして、声をかけてやらなかった」
「のちほどお分かりになると思います」
この後すぐに、ミシェルはバスルームに駆け込んで、シャワーを浴びた。
そして、用意されたドレスを身にまとおうとして、ぴたりとその動きを止める。
つまり、貴族のドレスを自分で完全に着るなんてことは、不可能だったのだ。
「カルラさん……。あの、手伝って」
「申し訳ありません。私は、生きている人間に直接触れることが出来ないのです。盟約のせいで」
「――――もう少し、着やすい服はないですか? 聖女の服でも」
「申し訳ありません。王宮の中で手に入れましたので……。それに、ミシェル様は、第一王子殿下の婚約者でいらっしゃいますので」
(これは……。詰んだ)
仕方なく、ミシェルは、体を拭くための大きなタオルをぐるぐる上半身に巻き付けて、バスルームから出てくる。
「――――うう。ぶしつけな申し出で、申し訳なさすぎるのですが……。いや、いっそ殺してください」
聖女として過ごしていた時には、決して流れなかった涙が、ここに来てからは、よくこぼれてしまう。
ミシェルはこんなに泣き虫ではなかったのにな、と苦笑する。
「……背中を向けて」
「――――シグル様」
つまり、カルラが言いたかったのは、このことか、とシグルはミシェルの近くに寄って、おもむろにその背中の留め具をつかむ。そして、白いうなじに一瞬耳元を赤くした後、背中についた傷跡に気がついた。
それは、明らかに、魔獣が放つ魔法による熱傷や斬撃による切創だった。
「あの、御見苦しいものをお見せして、申し訳ありません」
「最前線で、戦っていたのか」
「――――ええ、魔獣があふれた時には、騎士様たちとともに、現場にいました」
「……そうか」
黙ったまま、金具を止めて傷が隠されていく。
全て隠されると、まるで、大事なものをその場所に収めたように、そっとシグルはその背中を撫でた。
「シグル……様?」
顔をほのかに染めたミシェルが、潤んだ瞳で見上げてくる。
シグルの凍り付いていた心に、熱が生まれた。
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