その存在と喪失が心を破壊する
***
快適な空間。
清貧を心がけるべき聖女の寝所は、殺風景で、すきま風が吹き込んでくるほどだった。
第二王子の婚約者であれば、当然遇されるべきすべてが、「聖女だから」という理由で与えられなかった。
「ふかふかぁ!」
急に訪れた来客。
この部屋には、一人分のベッドしか置かれていない。
だから、ミシェルが眠るのは、ソファーだ。
「……申し訳ありません。明日の夜には、ベッドを用意しておきましょう」
「え? 十分すぎるわ。贅沢は敵よ」
「――――王族の婚約者だった人間の言葉とは、思えませんね」
さも、おかしいとでもいうようにカルラが水色の髪を揺らした。
けれど、それは事実なのだ。聖女には贅沢は必要ないと、戦場でも騎士たちと同じ待遇だった。
それでも、体を壊すこともなかったミシェルにとって、ここはまるで天国だ。
「ありがとう」
「礼なら、我が主に」
「――――そうね。心を開いてもらえたらうれしいわ」
夜が訪れても、この部屋は魔法の力で明るい。
その魔力の源は、この部屋の主人、つまりシグルによるものだ。
(……とても、きれいで、悲しい波長の魔力)
そして、美しい魔力に、ミシェルは惹かれて止まない。
第二王子に対しては感じたことのない気持ちを、抱き始めているのかもしれないと、ミシェルは思う。
「明かりを消してもいいでしょうか……?」
「――――好きにするといい」
その声は、耳の奥に響いて消えないくらい、甘い響きをしているようにミシェルには感じた。
そこには、たしかにミシェルに対しての気遣いが感じられる。
急に押しかけて来た婚約者なんて、邪魔に違いないのに、そこには邪険にするような響きはない。
むしろ、悲しみと、申し訳なさが込められているようにすらミシェルには思えた。
(どうして……? こちらを見てもくれないのに、私に対する負の感情を感じるわけではない)
十年もの月日、聖女として過ごしてきたミシェルは、人の感情に聡い。
あまりに、楽天的な思考と、人を疑うことのない聖女らしさのせいで、陰謀渦巻く貴族社会の荒波を乗り越えることは出来なかったけれど。
そして真夜中、椅子に座ったまま過ごしていたシグルが、ほんのひと時ミシェルのそばに立つ。
「規則正しい寝息だな……。ずいぶん、影響が少ない。だが、それもあと数日か」
なぜ、近くに来てしまったのかと罪の意識にさいなまれながら、シグルはミシェルから足早に離れると、ベッドに腰を下ろした。
ほんの少しだけだ、ほんの少し、懐かしい髪色のせいで感傷的になってしまっただけだ。
シグルの黒い瞳は、暗闇に溶け込むようだ。
その瞳が、長い指に覆われる。
ミシェルは知らないが、ミシェルが聖女として過ごしてきた十年と同じ年月、シグルはここにいた。
それは、王国に秘匿されたかつての事件のせいでもあり、シグルの望みでもあった。
「もう、全てを破壊してしまおうか……。ここを出て」
「我が主の望みのままに」
おそらくそれは、現実になってしまうのだろうとシグルは思う。
ミシェルの存在と喪失が、最後に残されたシグルの王国を愛する心と理性を破壊してしまうに違いない。
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