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精霊の口づけ



 ミシェルが、結界に手を伸ばせば、一瞬だけ拒否するように揺らいだ後に、結界の一部に穴が開く。

 申し訳ないので、入り込んだ後、聖女の力で塞いでおく。


「――――それにしても、すごい毒。この間とは、比較にならない」


 少し吸っただけで、胸が痛くなりそうな濃度の毒を感じながら、ミシェルは中へと入っていく。

 今のミシェルは、精霊であるカルラが構築した結界の中に入るため、精霊の力を無効化する腕輪を身につけている。


(その代償は、私の恩恵の消失)


 ミシェルの恩恵は、毒無効。

 その力があったときには、この甘い毒の香りに、わずかな酩酊感を感じるだけで、ミシェルの体に異常が起こることはなかった。


「――――こんなの」


 多分死んでしまうだろうと、ミシェルは浅く呼吸を繰り返す。

 その時、怒った顔をした水色の髪の精霊が目の前を塞ぐ。


「カルラさん……」

「お帰り下さい。ミシェル様……。この先に行かせるわけにはいきません」

「ごめんなさい。そういうわけにも、いかないの。シグル様の命のほうが、私には大事なの」

「これ以上進んだら、あなたの命のほうが先に潰えます。その腕輪……」


 ミシェルは、キュッと唇を引き結ぶと、カルラの制止を振り切って、前に進む。

 部屋の奥で、寝台に眠るシグルは、血の気が失せているように見えた。


「――――シグル様」


 ミシェルは、涙をぬぐうこともなく、シグルに縋り付いた。

 こんなに近づいたら、聖女の力を使っても、数年生きるのがやっとに違いない。


 シグルの母が、聖女でありながら病弱だったように。

 その時の毒とは、比較にならないほどの影響だ。


「…………シグル様? 起きたら、きっと私のことを怒るのでしょうね?」

「ミシェル様」

「カルラさんは、生きている人間には触れないけれど、私の命が潰えたなら、シグル様の見えないところに連れて行ってくれます?」

「そんなこと!」


 ミシェルは、にこりとほほ笑むと、シグルの額に口を付ける。


「好きですよ? 私、シグル様には生きていて欲しい……。残酷ですよね」


 シグルが、たった一人でこの場所で生きてきた時間を思えば、ミシェルの願いは間違っているのかもしれない。それでも、生きて欲しいとそれだけを願う。


「――――そばに、いさせて」


 シグルの中に、ミシェルの魔力が満ちていく。

 一度失ってしまったその力を、愛する人のために使うことに躊躇いなどなかった。


(これで……。きっとシグル様は、大丈夫)


 聖女の力をすべて注ぎ込んだミシェルには、本当に毒に抗う力はもうない。

 コポリとこぼれた血液をぬぐって、ミシェルは腕輪を遠くに投げ捨てる。


「――――ごめんなさい。自力で出ていけたら、良かったんですけど」

「ミシェル様は、大馬鹿ですね……」

「ゴホ……。そ、かもですね」


 倒れこんだミシェルを、鋭い瞳でカルラは見つめる。


「起きなさい。それでいいのですか」


 もう一度、カルラはシグルに触れた。

 せっかく、ミシェルに助けられた命だが、きっとシグルはそれを望まない。

 精霊は、呼び出した人間の望まないことなどできはしない。


「それ以前に、自分が嫌なんです。きっと……」


 二人には幸せになってほしいのだと、カルラは思う。

 それは、あまりに人間的な考えだ。

 精霊は、個に固執など、しはしない。


「仕方ないですね」


 カルラの体が、作り変えられていく。

 精霊が、精霊王になったように。

 だが、カルラは恋に落ちたわけではないし、いまだに主は、健在だ。


「――――さて、どうなることやら」


 ドサリと音を立てて体が崩れ落ちる。

 重さがなかったはずの体は、確かに重力の影響を受けるようになる。


「これが重さというものですか」


 目を瞑ったカルラと、瞳を開いたシグル。

 ふらりと起き上がったシグルは、逆に体重なんてないように軽やかに立ち上がった。


「ミシェル……。許さない」


 もう、シグルは人間とは言い切れないのかもしれない。

 精霊の力を半分以上受け継いだ者を人間と呼ぶことは出来ないのかもしれない。


 その存在に、精霊王は恩恵を与えはしない。

 否。どんなにのぞんでも、もう恩恵を与えることが出来ない。


 かつて、精霊が愛した人間に、もうそれ以上の力を与えることが出来なくなったように。

 だとしても、半分以上精霊の力を受け継いでしまったなら、もう恩恵程度の力は、誤差の範囲なのだろう。


「――――ミシェル。起きて?」


 ガリッと噛み締めた唇から血がしたたり落ちる。

 精霊の力は、血液の中に流れているから。


 シグルは、ミシェルの口元に唇を寄せた。


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