3.午後
日の当たる温室、鳥かごのような作りの建物の中。
窓から入る風は緩く流れ、どこからか小鳥の鳴き声が届いてくる。暖かな日も相まって、気を抜けばそのまま眠ってしまいそうだ。
色とりどりの花に囲まれる中、ここに居るのは二人だけ。
俺と、目の前に座っている、翠の瞳に金の髪が陽光に煌めく美人が一人。
「それで、私は護衛を頼んだはずですよ。コール」
「ん? そう言うなよ、茶を出したのはお姫さまの方だろ」
「まぁ、……そうですけれどね。でもそれとこれとは別ですっ」
「ハハ」
「もうっ」
護衛の任務に来たのは間違いない。サボってるわけでもない。
我が国の至宝、敬愛なるお姫様からお茶をお出しいただいたのだから断るという選択肢はあり得ない。
そも、飲まなければ飲まないで怒られるんだ。それならいい思いをしてから怒られた方が良い。……うん、飲まないとな。
そんな中、カチャリと小さな音が手元に起こる。
「ふぅ、美味…かった。ごちそうさん」
手には綺麗なティーカップ。
いつも丁寧に置いているつもりだが、音を立てずに置くという行為だけはいつまでたっても上手くならない。
正面でその様子を見ているのは、ほんの少し怒ったように眉根を寄せる少女。
アントランシア公国の至宝であり、救世主であり、未来の人質でもある『レイン・アントランシア』王女その人だった。
彼女は自分のカップを回しながら俺の方に文句の眼差しを向けてくる。
「呼ばずとも勝手にやってくる貴方のせいで随分手馴れてしまいました。給仕の方も自分が淹れる必要はないと思ってしまってます」
「ハハハっ、いいなそれ。主君と部下の距離感が実に良い! くくく…っ」
「他人事だと思って……、原因は貴方にもあるのよコール。普通は貴方の方が淹れようと努力する立場のような気がするのだけれど」
「残念、そういう教育は受けてないんだ。ま、受けてたとしてもすぐほっぽり出してるさ。こういうチマチマしたのは得意じゃない。しかしあれだね、この茶でも飲めないとなると寂しくなるね」
「えぇ、……そうね」
ほんの少し力を入れれば割れてしまいそうな、薄さを極めた陶のティーカップ。琥珀色の液体は底をつき、白い器は穏やかな時間が終わったことを伝えてくる。
「んんー、そこまで落ち込むもんか? むしろ、手間が減っていいくらいだろ」
「それは、そうですが……。手になじんだ動きというか、習慣はそうそう消え去らないものなの」
「なるほどね」
「そ、その…、とても…不本意……。そうっ、とても不本意ながらにコールとは幼馴染だから! 私としても仕事も訓練もサボってばかり、そんな貴方を放っておくのは上に立つ者としてよろしくないというか、何といえばいいか……」
「ふっ…、自信持てよ、そのまま言い切れって。何も間違ったことは言ってない」
「で、ですが……。騎士の皆さんも多く配属が変わると聞いてる…。コールだって、辞めてしまうんでしょ?」
「多分な。それに、俺みたいな団長のコネで入ったような奴は切られて当然だよ。これまでの人間関係一掃しといたほうが新体制になった後に楽だろうしな。従順そうなのを手元に置いておくべきだ」
「残念ね、本当に……。………ふゃ!? な、何をっ、う…うぅぅ」
「ははっ、それくらいの反応の方が好感持てるぜ」
なんか勝手に一人で落ち込んでたから眉間を指でもみほぐしてやる。想像してた通りカッチカチだったし、何の抵抗か分らんが力を籠めてきた。
「ほれほれ、抵抗するってならもっと気張れよ。そんなんじゃ小指でほぐしきれるぞ」
「むむぅぅぅ……っ。コール、これってもしかしたら不敬罪なんじゃないかしら?」
「ははは、まさかもまさかだ。城の中で数少ない、同世代間のちょっとしたスキンシップだろー? 考えすぎだってば」
「そ、そうなの…。それならっ、もう大丈夫だから、一旦、手を離し、ちょ、一旦やめ、ふにゃっ、コールっ、この、ホントに一回ヤメ、も、もぉぉ…!」
しばし、為すが儘にされていたが、額をこねくり回し続ける腕を掴もうと、小さな手が交差する。だが、既にその場からは標的は逃亡、前を見るとさっきまで彼女で遊んでいた彼の手はティーカップを手にしている。
空中で交差されたままの手の行き場はなく、ただただ変なポーズをとるお姫様という図が完成した。
「おっ、なんか光線でも出そうだな」
「出せるならいくらでもぶつけたい気分よ、もうっ…」
「拗ねるなって。ま、こういう面倒な奴を相手にしてきた自分に自信を持てってことで。デカい国に嫁ぐんだから今よりももっといい暮らしできるだろ。一言声を掛ければなんでもござれだ。…ってことは俺との会話経験あっても意味無いな、気に入らないならクビにすればいい」
「そんなことしませんっ。元気づけたいのかふざけてるだけなのか、いまだに判別できません」
腕を組み、顔はプイっと明後日の方向へ。いかんいかん、ちょっとやりすぎたかもだ。ここは機嫌を取った方がいいな。
「そりゃあもちろん———」
「……もちろん?」
頬を小さくふくらまし、片目だけ開けてこっちに目をやる彼女の表情は、小さな子供に見えなくもない。
……まるで、何かを期待する言葉があるかのような。
(これ以上は、ダメだな———)
茶を飲み終わった時には終わったと分かっていたつもりだったけれど、ああ確かに習慣と言うものは恐ろしい。
だから、かける言葉は決まっている。
「………はっ、そりゃあもちろん後者だろ。レイン……、姫さんで遊べるのももう最後になるからな、どうせサヨナラならやるだけやってみておいてもいいって思った」
「もぅ…、本当、勝手なんだから……。……ふふ、でも貴方らしいと言えば、そうかもしれない」
口に手を当て、くすくすと笑う彼女は本当に楽しそうで、祖国から旅立つ花嫁の悲しみは伝わってこない。
「ふふふ…、ふふ。…はぁ、本当に、貴方らしい———」
だったってのに、一通り笑い終わるとその顔には寂しさの影が戻り、微笑みはどこか歪なものとなっていた。
「で、でもまだ調印式まで一週間あるし、それまでの間なら———」
「いや、今日で終わりだ」
なぁレイン、つかの間の日常で忘れちまったのか? アンタと俺はもう、こうやって会うことはできなくなるんだぜ?
「え…、ええ…そう、よね。でもそれだって———」
「俺も、…レインも、覚悟を決める時が来たってことだよ。でも、まぁ、明日までなら大丈夫だって余裕こいてたのは俺も同じだ。……お茶、美味かったよ。もう、他の奴が淹れたのは飲めないな」
「え? それって———」
困惑するレインをよそに立ち上がると、背を向けて周囲を警戒する素振りを見せる。
あぁ本当に、日が落ちるだけの短い間だけでも、時間があったのなら。この身と心に隠したモノも明け渡すことが出来たのだろうか———
「予定は明日だったが、早くついたらしい。……すぐに来るぞ」
「……っ、そう、ですか。分かりました。コール・ハンニバル、これまでの貴方の貢献と優しさに、感謝を」
「…はい、それ以上のお言葉はありません。……姫様」
これまで見せていた友としての情は覆い隠し、互いに二度と外すことのない仮面をかぶる。
これで最後だってわかっていたならお茶ももう少し味わっていたが、仕方ないな。
最後に交わす言葉はそれだけ、他に何を言おうにもその時間は足りない。なぜなら、温室と屋敷を繋ぐ通路を歩く人の姿が見えたから。
そして、彼は迷うことなくここへ到達する。
「こんにちは、お初にお目にかかりますレイン様。婚約者であるとはいえ、なんの事前連絡も無く、お伝えしていた予定よりも早く着いてしまい申し訳ありません。
ですがこれも、レイン様に会いたいという気持ちが急いてしまってのこと。どうか、お許しをいただけないでしょうか」
俺には目もくれず、姫の前にひざまずく男は全身から品性と言うものを醸し出していた。
年は俺たちと同じくらいか。
白銀の髪、灰色の瞳は揺らぐ儚さを漂わせ、その所作は指の先まで隙が無い。筋金入りの貴族であり、王族だ。
つまるところはこの男、姫を連れ去る誘拐犯、隣国の由緒正しい王子様。
『ロード・アイナ・ケイナリア』 ケイナリア連合王国の次期王様。
一挙手一投足、口にする言葉からすら、幼い頃から王として君臨するための教育を受けてきたと分かる。
そしてそれは、彼だけではない。先ほどまで友人同然に話していた彼女もまた素質を持つ者なのだ。
「お顔を上げて下さい。私が貴方様を許す許さないなどと…、そのようなことは言えませんわ。ケイナリア連合国、その未来の王たる貴方様に膝をつかせるなどそれこそ許されることではありません。ですからどうか、立ち上がり下さい」
気品を含み、凛とした言葉からはさっきまでの柔らかさは感じない。
いや、言葉も喋り方からも優雅さも柔らかさもは失われていない。ただ、暖かくはないというだけ。
「ふふっ、お優しいのですねレイン様は。分かりました、貴女のような美しい人からの願いでは断ることすら罪となる。まず、気を遣わせたことを謝るべきでした。申し訳ありません」
「その様なこと…、ですがお優しい方なのですね。貴方のような人であれば、この国を…、お渡ししても良いのでしょう」
「ありがとう、まだ未熟な私を信じ切るにはまだまだ時間が掛かるでしょう。ですが、安心してください。必ず、より良い未来を導いて見せます」
「…はい、信じています。……そういえば、此処にはお一人で来られたのですか? 国を背負う御身体です。護衛の騎士などは……」
確かに、ロードはここに向かってきた時から一人だった。連合の長となる人間としては、いささか危機管理がおろそかなのではないか。
「あぁ、そうでした。レイン様にはちゃんとお伝えしておいた方が良いですね。いざという時驚かれてしまっては申し訳がない」
だが、彼は微笑みを崩すことなく手を上げると、城と温室を繋ぐドアを指し示す。
「私の騎士でしたらそちらにおりますよ。ただ、人とのかかわりを持つことを是としない者です。そこにあるだけの影と思っていただければよろしい。ご安心下さい、腕は立ちます。忠誠心も」
指し示した先、影と表現した通り、その男は立っていた。
「——————」
此方が視線を向けても言葉はない、そもそも顔すら見ることができない。
(アイツ、いつからいたんだ、言われるまで気づけなかった。確かに、…強いな)
重苦しい軍服を纏ってはいるが、頭にはフードを被り、さらに獣を模した仮面をかぶっている。分かるのは背丈とたたずまいだけ。
「名も、皆からはそのままシャドウと呼ばれてはいますが、本名ではありません。ですから本当に、そこにいるだけのものだと思っていただければ結構。彼が一人いればアントランシアの騎士全てに勝るでしょう」
きっと言葉に嘘はない。王子様は本当にそう思っているし、シャドウと呼ばれた男の実力も高いことは見て取れる。
だが、あそこまで自信満々なのは気にくわない。
「一人で全員を、か」
口をついたのは子供のような悪態だ。別に口にまで出すつもりは無かったが、ついつい出てしまった。
そして、その言葉に反応したのは王子様ではなくレインの方だ。
「やめなさいハンニバル、無礼ですよ。我が騎士が失礼を……、そういったことならば、安心です。貴方様のお体に何かあれば一大事。……ですが、我が騎士達を愚弄する言葉は控えていただきたい」
「それは申し訳ありません。かねてより事実から目を逸らすことは悪だと、教育されてきたものですから。ゆえに、先ほどの言葉にも嘘はない。気を害してしまったことはいくらでも頭を下げますが、彼の実力だけは揺るがない。それだけは、分かっておいてください」
「……分かりました。こちらこそ、出過ぎた真似をしました」
「いえ、祖国への誇りを失わない姿はお美しい。ますます、貴女に興味が湧きましたよ。もしお時間があるのならば、お茶でもご一緒したいのですが、どうでしょうか?」
レインへごく自然に伸ばされた手は淑女へ対する慈愛と、自身の提案を断られることなど微塵も考えてはいない自信に満ち溢れている。
この手を取ることを拒む人間はまずいない。男の俺から見ても思わず取ってしまいそうになるほど、その姿は堂々としたものだった。
「ええ、貴方様の誘いを断る女性などおりません。それはもちろん、私も含めて」
「あぁ、良かった。もしかしたら断られるのではないかと不安だったのです」
「…まさか、そのようなことは」
「ふふ、冗談ですよ。困り顔もまた、お美しい」
「……ご冗談が、お上手なのですね。それではこちらへ、侍女に茶の用意をさせます」
「ありがとう、ではご案内をよろしくお願いいたします」
「ええ、ですがその前に一つだけよろしいでしょうか…」
「もちろんです。では扉の前で待たせていただきますよ」
城内の庭園にでも向かうのか。王子様はレインの用事が終わるまでと、扉の前へ移動する。用事って一体何だ?
そう考える俺の前へ持ってきたのは一つの鉢植え、一輪の蒼い花。
「コ——、こほんっ。…ハンニバル、この花を庭園へ移しておいてください。中の土はある程度固まっているので、鉢植えをから外した土の塊ごと穴へ入れてくれれば大丈夫。この子は大事に育てた子だから、慎重にお願いね」
「ああ……分かっ、りました———」
鉢植えを受け取ると、レインはそのまま温室を出て行く。
近くに居ても邪魔になる。温室から出て行く二人と距離を取りながら付いて行くと出入り口のドアのところに佇むシャドウとすれ違った。
「心の準備だけはしておけ。この国は、潰える」
「……なに?」
振り返った時には、すでに姿はない。
「アイツ……」
声は小さく、仮面のせいでくぐもっていてはっきりと聞き取れたわけじゃない。だが、耳に届いた内容は聞き捨てならないものだった。
「この国が潰えるだァ? ……ったく、ろくなこと考えてねえのは分かってたが何しでかすつもりだよ」
そしてなぜ、俺に対してそのようなことを言うのか。
(武力制圧するための口実に俺を巻き込もうってか? …下手に動けば結局戦争か)
アントランシアが先に手を出せば、向こうは大義名分を持って武力制圧が可能だ。形としては和平条約締結の寸前に牙をむいた形になるのだからそれも当然。
そうなれば俺たちに勝機はなく、ただ蹂躙されるだけ。
(なんにせよ、団長殿に話は通しておいた方が良いな。…調印式まで一週間、それまでレインに手を出すことはしないはず……)
向こうにもメンツと言うものはある。例え圧倒的軍事力を持っていようが、それは変わらない。
「はぁ……、何とも暗雲が立ち込めてるな。……お姫さまは無事だろうが」
誇れるものはたった一つ。
取り柄のないような小国を取り込もうとする奴らの狙いは大体わかっている。
腰に差した剣の柄、そこに埋め込まれた結晶に目をやると指先で軽くなでる。
(“鎧”を手に入れたいなら買えって話だ。…ま、それが無理だから裏から手を回してるんだけどさ。……コレだから金持ちは嫌になる)
誇れるものはたった一つ。
だが、“その力”を持っていたからこそ小国であるはずのアントランシアはこれまで続いてこれたのだ。
「まだ、粘れるうちは粘るかな。あのさわやかイケメンは気に入らん」
あのレインがお固い言葉で話す姿はどうにも気持ちが悪いし気分も悪い。どうせ苦しみながらの嫁入りだ。なら、せめて後顧の憂いは潰しておきたい。
……二度と生まれ故郷には帰れずとも、平穏が続いていたなら彼女への手向けくらいにはなる。
「…とはいえ、だ。あちらさんに動きがない分には調べもできん。様子見するには時間がない。…動くしか、ないか」
結局、結論はコレだ。
あのシャドウとかいう獣面野郎。俺に何をさせたいのか分かったもんじゃないが、姫さんの為になるなら少しくらい足搔いてやるさ。
「さて、置いてかれたな。一人にしとくのはマズい」
まずは護衛の仕事をちゃんとやる所からだな。数日もしない内にケイナリアの連中も雪崩れ込んでくる。
彼らからアントランシアがどう思われてるか知らないが、人ごみにつぶさせるわけにもいかないし、調印式前に手を出させるつもりは毛頭ない。
気になることはあるがそれは後、今はただ怪しまれないことが肝要だ。
「庭園か、あっちにはあんまりいった事無いな」
振り返り、誰も居なくなった小さなテーブルを見つめる。空のカップは何も語らず、楽しかった時間が終わったことだけを示している。
「………はっ、情けないねどうにも」
昔から、どうにもならないことを振り返ってばかりだ。
「お前も、持ち主に似るってとこかな」
剣に埋め込まれた結晶は仄暗く輝いている。
ほんの少しだけ見つめて一呼吸、やるべきことは決まっているんだ。やってやらなきゃ男が廃る。
「はぁ……、行くか」
振り返ってばかりはよろしくないから、脚を進めて前へ前へ。
緩やかに沈む未来だとしても、残せるものはあるはずと、崩れそうな心を信じて———。
「………、ぁ———」
「——、は———ぇ——…っ…」
言われた通りに花を植えたら何もすることがない。風に乗って聞こえてくるのは欠片に満たない言葉だけ。
二人きりで話をしたいという提案を断るすべはない。ほんの少しの情報を集めようにも聞き取れないのだからどうにもならない。
(とはいっても、ここで変な話をするはずも無し。退屈な仕事だよ、ホントさ)
二人と距離を取った柱の前で周囲から怪しい奴が来ないか見張るだけと来ている。あくびを漏らすほどじゃないが、気は抜けてくる。
「………ぉ、———てきな——————」
「まさ———。……、———で……」
(ダメだな、聞こえん)
誰もいない庭園、馬鹿みたいに静かな中でさえ聞き取れないんだ。無為に過ぎ去っていく時間がもどかしい。
そして、予想通りにつまらないだけの時間は流れて日が傾きだしたころ。王子様が立ち上がった。
「それでは、今日はこれで一度お暇を。そろそろ宿に向かわなければ」
「え、出て行かれるのですか? 当然、城内にお泊りになられるのかと……」
「それは明日からです。今日は僕の独断で来てしまいましたから、突然押し掛けた上にご迷惑はおかけできません。それに、遠くない未来に僕が収めることとなる国でもある。民の様子を見ておきたいのです」
「で、ですが貴方様にそのような場所で寝泊まりを指せるわけには、それに悪漢にでも襲われでもしたら……」
「ふふっ、お優しいのですねレイン様は。ですがご安心を、幼い頃から公務で諸国を回っていた時から野宿なども経験しております。悪漢が来てもシャドウがいる。彼の力を持てば僕に指一本……いえ、塵一つ届かせることは無い」
「……そう、ですか。そう、おっしゃられるなら私からは何も言えません……。ですがお気をつけてください。万全を期してもなにが起こるかは分かりませんから…」
「はい、そのつもりです。ありがとう、貴女のような人と夫婦になれることを誇りに思う。その言葉は嘘や誇張ではない、真実の憂いを感じられる。僕に対して一切の打算なく心配してくれる人はそういませんでしたから…」
それまで常に輝きを纏っていたかのような青年に、ほんの一瞬だけ陰が落ちる。それは未来ある王の血族だからこその悩みか。
だが、それも一瞬だけ。瞬きの後にはさっきまでの彼が立っている。
「おっと、変なことを口走ってしまいました。では、また明日。その時は僕の方もキチンともてなされるつもりですからご心配なく」
「え、ええ、もちろんです。王子にご満足いただけるかどうかは分かりませんが、精一杯務めさせていただきます」
「そう、かしこまらなくても良いのですが……。はは、それもこれからというところでしょうか。…では、またお会いできる瞬間を楽しみにしております」
うやうやしく跪くと、手の甲へ唇を落とすと彼は去っていった。姿は見えないが、きっと獣面もどこかから付いて行っているのだろう。
完全に姿が見えなくなった後、椅子に座り込んだレインの元へと歩み寄る。
「悪い奴じゃなさそうでよかったじゃないか。一緒の奴は気味悪いが」
「………」
「しかし、あれほどの自信だ。俺も護衛から外れてもいいかもしれないな。いや、形としてはいるんだろうが」
「……ごめんなさい」
返ってきたのは何処へ向けられたものかも分からない懺悔の言葉。そしてそれは、彼女にすら分からないんだろう。
「…分かった。何かあれば呼べ、すぐ来る」
「………うん」
だから、今は一人にしておいてやるべきだ。
俺に、彼女の背負うものの重さを分かち合うことはできないから。