百八十ミリのセンチメンタル
もしも植え込みのそばで周囲を警戒しながら立っている女を見かけたら、それは私だ。小さいおじさんのトイレ待ちをしている。
ちゃぶ台の上でおじさんがモジモジしていることに気づいたのが十分ほど前のこと。あんまりジロジロ見られるのも嫌だろうからと気づかないふりをしていたけど、五分ほど続いたので、たまらず「どうしたの」と声をかけた。おじさんはやはり少しモジモジと躊躇っていたが、ややあって「といれ」と消え入りそうな声で答えた。慌てておじさんを引っ掴んで手近にあったミニトートに入れ、アパートを出た。
幸いにも、アパートを出てすぐの場所にほどよく茂った植え込みを見つけた。植え込みの存在に感謝したのは初めてだ。若葉萌ゆる初夏でよかった。
植え込みにそっとおろすなり、おじさんはカサコソと草の中に分け入った。青々とした葉の中、小さな姿はすぐに見えなくなった。
そんなわけで、また猫に襲われたりしないようにと一応周囲に目を配りながら、植え込みのそばに突っ立っているというわけだ。
平和な昼下がり、周囲におじさんの脅威になりそうな存在は見当たらず、手持ち無沙汰ここに極まれりといった感じだ。穏やかな風で木の葉がこすれるサワサワした音の中、ぼんやりしていると眠くなってくる。酒の影響がまだ残っているのかもしれない。
「お待たせしました」
小さな声が聞こえて下を向くと、おじさんが草の影からこっそりと顔を出していた。
「案外早かったね」
周囲に人がいないことを確認し、持っていたミニトートバッグの口を開いておじさんに近づけると、おじさんは自らよじよじとトートバッグに入った。
「帰ろうか」
「うん」
デートの帰りみたいな会話だが、トイレ帰りだ。妙に気まずい。やっぱりお尻は葉っぱで拭いたんだろうかとか、余計なことを考えてしまう自分が憎い。
沈黙のまま家に帰り、おじさんをバッグから出して床に置く。
おじさんも気まずいのだろう。無言で短い廊下を歩き出す。私が靴を脱いでいる間におじさんが進んだ距離は数十センチだ。短い。ひとまたぎで追い抜かすのがかわいそうになって、おじさんのあとをゆっくりと歩く。
「トイレ、どうしようか。今日明日は私が家にいるからいいけど、仕事の日は外に連れて行ってあげられないから、月曜までに解決策を考えないと」
ようやく部屋の入口あたりにたどり着いたおじさんに声をかけると、おじさんは振り向いてこちらを見上げた。
「出かける前に窓を少し開けておいてくれたら、ベランダで……」
「ベランダで……?」
「ベランダで……」
「うーん、ベランダねぇ」
オウム返しに次ぐオウム返しだった。無理もない。たぶん、おじさんも私もほぼ同時に同じ考えに行きついていた。ベランダに残された落し物の、その後の運命についてだ。誰が片付けるんだ、と。
うううーん、と唸りながらおじさんの頭頂部を見る。別に頭頂部に興味があるわけではなく、真上から見下ろすとそこしか見えないのだ。
と、おじさんの体がガクンと揺れた。
毛足の長いラグに足をとられたらしい。この前の冬に買ってそのまま敷きっぱなしだった。気が向いたときにコロコロで掃除はしているが、取り切れていないゴミもいくらかはあるだろう。
「あ、ごめん。ラグ片付けないとね」
そう言いながら、しゃがんでおじさんの方へ手を伸ばした。こちらを見上げるおじさんに、「乗って」と言うと、おじさんは抵抗せず、手の平に座って指につかまった。くすぐったい。
そっと持ち上げ、ちゃぶ台の上に載せてから、私は床に座ってちゃぶ台に肘をついた。おじさんのすぐそばにシミを見つけ、爪でコシコシする。昨日飲んだ酒を少しこぼしてしまったのかもしれない。爪にひっついたカスをティッシュで拭き、ティッシュをゴミ箱へ放ろうとしたら、おじさんに「貸して」と言われた。言われるがままにティッシュボールを渡すと、おじさんは両手で重そうに持って構えた。
「お、いいフォーム」
「バスケ部だったんだ」
おじさんの手を離れたティッシュは、空気抵抗を受けてゴミ箱の手前に落ちた。
「残念」
おじさんは目に見えてしょんぼりしている。
まぁ元気出して、と言おうとしたら、窓の外でカァ、とカラスの鳴く声がした。びくん、とおじさんが体を震わせる。
「あ、カラス、怖い?」
「この大きさになるまでは怖くなかったが、二日前に地獄を見た」
たしかにおじさんサイズでカラスに遭遇となると、わたしがプテラノドンに遭遇するのと同じくらいの怖さはありそうだ。
「……地獄の中身は聞かないでおくね」
「そうしてくれ」
丸めたティッシュが重く、カラスが怖い。その事実が受け入れ難いのか、おじさんは傷ついたような顔をしている。
「そう考えると、一人でベランダに出るのはやめた方がいいね。三階とはいえ、窓を開けておくのは防犯上もよろしくはないし」
「たしかに」
二人そろって、うううーん、と唸る。
「トイレかぁ。完全に盲点だったなぁ。ほかに必要なのって、食事と……あ、あと風呂と……まぁ風呂はどうにでもなりそうだから……寝床くらい? 他に何かある?」
そう問いながらおじさんを見つめた。おじさんは思案気に宙を見つめていたので、代わりにハンカチのうさぎと目が合った。
――あるな。
自分で尋ねといてなんだけど、ありまくるな。
服だ。
いくら小さいとはいえ、一応四十二歳の男性だ。銭湯で湯上がりにフルーツ牛乳を飲んでいるおじいちゃんみたいな恰好でずっと過ごさせるわけにはいかない。服の入手は急務だ。
小さな服、というところで、ピンときた。
「あ、人形用のは? 服もだし、家具とかも」
おじさんの顔が少し明るくなった。
「サイズはどうだろう」
「ちょうどいいんじゃないかな。待ってね、一般的な人形の大きさは……」
すぐにスマホで調べてみると、わたしが小さい頃に遊んでいた人形は二十二センチだったことがわかった。おじさんも見た感じ同じくらいの大きさだ。
「ちょっと失礼」
座ったまま手を伸ばして本棚の上のペン立てに無造作に突き刺さっていた三十センチ定規を抜きとり、おじさんにそっとあてる。おじさんはちゃんとその場に立って、ピンと背筋を伸ばしてくれた。
「えーっと、十八センチだね」
「十八.一センチじゃないか?」
「うん? いや、ぴったり十八センチだよ」
「……そうか」
「どうしたの? 一ミリにこだわる理由が?」
「……ちょうど十分の一かなと」
「何が?」
「百八十一センチだった。身長が」
「ああ、元が?」
「うん」
「結構大きいんだね」
「いまは百八十ミリか……」
ちょっと感傷的な十八センチメートルが可哀想になって、「ほら」と元気づける。
「人形用品でいい感じのものがないか、調べてみようよ。ええと、服はたぶんたくさん種類があるから、あとでゆっくり選ぼう。とりあえず今夜必要なもの……ベッドから行こうか」
スマホをちゃぶ台の上におき、また一緒に覗き込む。おじさんが画面に覆いかぶさるように覗き込むので、ちょっと見づらい。
指でおじさんを弾き飛ばさないように気をつけながら検索結果の画像一覧を上から下までスクロールして眺めた。おじさんは熱心にひとつひとつ見つめていたが、しばらくスクロールしたところでフゥと寂し気な息を吐いた。わたしも同じ気分だった。
――ダメだこりゃ。
まず画面に占めるピンクの割合が大きすぎる。そしてデザインも派手だ。さすがにロココ調の天蓋付きプラスチックベッドにおじさんを寝かせるのは忍びない。そして見た感じ、造りも脆そうだ。人形よりもおじさんの方が確実に重いので、強度が心配だ。
「うーん、ナシかぁ。あ、でも見て、ほら。このドールハウス、トイレもついてるよ! このトイレなら、サイズがちょうどいいような気が」
解決策を見つけた気になったが、おじさんの表情は晴れない。
「たしかに形はトイレだが……水洗トイレではないんじゃないか」
「あ……たしかに」
お人形用はあくまでもおもちゃ。そこで小さいおじさんが生活することを想定しているわけではないので、水洗機能などなくて当然だ。どんなに精巧なトイレの形をしていようが、要はおマル。ベランダと同じく、「その後どうするの」問題が生じる。ベランダの方がまだマシに思えるくらいだ。
「人形用はダメかぁ」
「実用的ではなさそうだな」
「ですねぇ」
がっかり。
大きい人と小さい人はそろって肩を落とし、ため息をつく。
「……水洗トイレって作れるのかな」
「作るつもりか」
「それも選択肢のひとつかなと思って。こう見えても結構手先は器用なんだよ。古代ローマ式の水洗トイレなら、何とか……」
「それでも、上下水につなぐ必要はあるぞ」
「……無理ですなぁ」
沈黙が痛い。カラスの声と、外を走る車の音と、犬の遠吠えと、上の階の住人のドスンドスンと。普段は耳を素通りしていく音が、全部飛び込んでくる。
「ねぇ、水洗トイレができる前ってさ」
「……汲み取り式だな」
「つまり、」
「汲み取る作業が必要だ」
「誰がやんのって話ですよねぇ」
お互いに相当メンタルに負荷のかかる環境になってしまう。それはよくない。
「……ここで暮らすのは難しいのかもしれないな」
センチメンタルおじさんが弱音を吐き始めた。
「いや、そんな、トイレひとつで」
「由々しき事態だろう」
「そりゃそうだけど」
答えが見つからず、ちゃぶ台につっぷした。そして顔だけを横に向ける。おじさんがすぐ近くにいる。
「……ここを出るしかないか」
「えー、そうなる? もうちょっと考えてみようよ」
間延びした声を出したら、すぐそばでおじさんが顔をそむけた。
「トイレのときだけ外に出るとなると、君は待つだろう」
「何を?」
「俺の帰りを」
「まぁ、そうだろうねぇ」
「鳥にさらわれたり、猫にかじられたりすれば、君はきっと責任を感じる」
「そうかもねぇ」
「だから中途半端はよくない」
ああ、と思った。おじさんの言わんとしていることがわかった。
「つまり、今ここで出て行けば、その後おじさんが鳥にさらわれようが、猫にかじられようが私は責任を感じずに済むから、ってことね」
「そうだ」
「うーん、それはもう無理だと思う」
おじさんが振り向いた。
「『それ』って?」
「今おじさんが出て行っても、やっぱり私は責任を感じると思うよ」
「そうか?」
「そうだよ。酔っ払って勝手に連れて来ちゃったわけですし」
「そうか……」
子どもの頃に捨て猫を見つけたときだって、動物病院に連れて行き、飼ってくれる人が見つかるまではちゃんとお世話をした。拾った以上、責任がある。
「あ」
猫、と言えば。
思いつくことがあった。
「わかった!」
「何が?」
「解決策見つけた!」
「どんな?」
「ちょっと買い物行ってくる。楽しみにしてて」
立ち上がり、ミニトートに長財布をつっこんだ。パーカーにスウェット。まぁこの格好で外に出ても許されるだろう。
「嫌な予感がする」
「大丈夫、これは名案だと思う」
「嫌な予感が増した」
「期待してて」
不安げなおじさんを家に残し、一路ホームセンターへと向かった。幸いにも歩いて三十分ほどのところにそれなりに大規模なのがある。目的地はペット用品のコーナーだ。
さきほど猫から連想したのは、猫のトイレに敷き詰める砂――通称猫砂――だった。給水、凝固、脱臭してくれるスグレモノだ。
途中、売り場のワンニャン達に気を取られたりしながら小一時間あれこれと吟味した結果、猫砂よりも粒の細かいハムスター用に決めた。
ほかにも使えそうなものは無いかとウロウロし、水を入れておく給水ボトルや、餌用の小さな容器をゲットした。いつまでもリップクリームのキャップじゃ忍びないし、こっちもリップを持ち歩けなくて困ってしまう。
おじさんにもプライバシーが必要だろうからとケージも見てみたが、金網のケージにおじさんが入っているところを想像すると檻にしか見えなくなったのでやめておいた。
***********
「ただいまー」
それなりの量になった荷物を両手に抱えてドアを開けると、待ちかねていたのか、おじさんがすぐそこに立っていた。
右手にぶら下げたビニール袋と、左手に抱えた段ボール箱を心配そうに見上げてくる。
「何を買ったんだ」
「まぁまぁ、少しお待ちを」
周囲をウロウロするおじさんをよそに、部屋の隅に段ボールを設置し、側面におじさんが通れるサイズの穴を開け、中におがくずを敷き詰めた。そして給水ボトルを取り付け、トイレを設置すれば、とりあえずおじさんの部屋が完成だ。
「もっといいケースが見つかるまで、しばらく段ボールでご勘弁を」
「ありがとう」
「こちらがトイレになります。用を足し終わったら、固まった砂をこのビニールに入れてください。生ゴミと一緒に捨てるから」
眉間に深い刻んで、おじさんはうなずいた。
「ありがとう」
「で、これがお水ね。このボールを押し込むと水が出てくる仕組みで。頻繁に綺麗な水に取り換えるようにするから」
またしてもうなずく。
「この……床のおがくずは……必要なのか」
「通気性がいいようにと思って」
「その……ちょっと、ペット感があるな」
「まぁ、ハムスター用品だからね」
おじさんの目に猜疑心が宿る。コイツもしかして、楽しんでいるんじゃないかと。別に茶化すつもりはなかったけど、楽しくなかったといえば嘘になる。その証拠に――
「ベッドも見つけたよ」
じゃああーん、とビニールから取り出したそれを見て、おじさんの眉間のシワはいっそう深くなった。
「貝……?」
「うん、モルモット用の。ふかふかしてるから、人形のよりも寝心地はいいと思う」
二枚貝を半分くらい開いたような形で、中に取り外し可能なクッションがついている。サイズはちょうどよいし、適度なプライバシーが保たれるし、クッションは洗えるとのことだから汗をかいても安心だ。アレルギーの原因になる物質もなるべく使っていないとの触れ込みだった。
そう説明したものの、おじさんの反応はイマイチだ。
「ほかの……デザインはなかったのか」
「なかった」
「……本当に?」
「うん」
「もっとシンプルな箱型のものとかは」
「ナカッタ」
「昔は色々とあったがなぁ」
「…ナカッタデス」
しばらく踏ん張ったけど、マリアナ海溝みたいなシワを見て、誤魔化すのは無理だと悟った。
「実はあった、ごめん」
「なぜこのデザインを」
「ボッティチェリの絵が……頭をよぎってしまいまして……」
大きな貝殻の上に裸の女性が立っている「ヴィーナスの誕生」は画家ボッティチェリ作の、あまりにも有名な絵だ。近所のファミレスの壁にも採用されているその絵を思い出してしまったら、買わずにはいられなかった。
おじさんは機嫌を損ねたらしく、しかめっ面で「ともかく、ありがとう」とだけ言うと、ぷいと顔をそむけてしまった。
――ちょっと悪いことしたかな。
「あ、トイレに今だけサービスのひまわりの種ついてたけど、食べ――」
「食べない!!」
おじさんはぷりぷりしながらおがくずに潜り込んでいった。
その姿がなんかかわいくて、フヒ、と笑ってしまった。