トゥインクルメロン、三百歳。
目が覚めた。頭が痛い。気持ち悪い。
ぐるんぐるんする視界と戦いながら、呻き声を上げた。
――なんか、ヤバイ夢を見た気がする。
目を閉じ、また開ける。
散らかったワンルームの部屋には異常は見当たらない。
そっか、夢か。
「……よかった」
枕に突っ伏して、フハァと深く息を吐いた。酒くさい。どうやらシャワーも浴びずに寝たらしく、肌がベタついて気持ち悪い。
体を起こすのがしんどかったので、ベッドのふちからぬるりと滑り出て床に降りた。そして大きく伸びをすると、余計に目が回った。うヒィ、ベッドの上のぬいぐるみが歪んで見える。
「起きたか」
背後で低い声がした。
一瞬動きをとめ、息を深く吸った。そして素早く振り向くと、ちゃぶ台の上に小さなおじさん。
二日酔いの体はさきほどの素早い動きに耐えられなかったらしく、ぐわん、と視界が揺れ、よろけてベッドに突っ込んだ。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
布団に顔を押し付けたまま、背後から聞こえてくる声に返事をした。
「昨日しこたま飲んでたからな」
「いや……ていうか、ていうかだよ!?」
顔を上げ、振り向いた。
いる。やはり。
「そのくだり、ゆうべ百回はやったぞ」
おじさんは、ややくたびれた顔で言った。
「……『そのくだり』って?」
「『やっぱり、いる』って。酒取って来て戻って来たときとか、トイレ行って戻って来たときとかに。まさか一夜明けても続くとは」
「……ぜんぜん覚えてないんですが」
「みたいだな」
ぼふ、とまたベッドに顔を伏せる。布団はしばらく干してない。だから、ちょっと湿っぽい自分の匂いがする。
カーテンから漏れてくる光を見るに、今日はたぶんいい天気だ。だから布団を干そう。
この状況からして相当優先順位の低いことを考えながら、息を深く吸い込んだ。
「……で、おじさん、誰なの」
「そのくだりもやり直すのか」
ゆっくりと顔を上げ、振り向く。ちゃぶ台、その向こうに小さなテレビ、服を入れている透明の引き出し、カラーボックスに詰め込んだ本。昨日と何一つ変わらない、一人暮らしの狭い部屋が見える。
「どこまで覚えてる?」
「拾って、部屋に入ったところ」
「拾ったんじゃない。突然ひっつかんだんだろ」
「だって……頭がおかしくなったかと思って」
言い訳になってるのかなってないのか微妙な、いやたぶんなっていない「だって」だったけど、意外にもおじさんは頷いてくれた。
「まぁ、気持ちはわからなくはない」
「そりゃどうも」
「つまり、相当序盤までしか覚えてないんだな」
「序盤……?」
ちゃぶ台の上に座っているおじさんの、昨日の姿と唯一ちがうのは、チラシの代わりに私のタオルハンカチを巻いているところだ。ご丁寧に、腰を紐で結んである。
「『きっと飲みすぎたんだ、そうに違いない。迎え酒で相殺』とか言いながら、冷蔵庫から缶ビールを出してきて飲んでた」
「うそ……」
おじさんは黙って横に腕を伸ばした。指さしているらしい。小さな指が示す方向を見ると、ゴミ箱の周りに空き缶が散乱している。とっておきの、大事なときに一本ずつ飲むはずのプレモルが、全部空いている。
「そのあと、職場のウザいお局の話を三時間くらいしてたな」
「うそだ……」
「そのお局の名前も教えてくれたぞ。渦原さんって」
「うそでしょ……」
「もう二年彼氏がいないって話も聞いたし、」
「うそだと言って……」
「鼻の中にできたニキビが痛いって話も」
「イヤァァァアアアア」
私は何を話しとるんだ、何を。
「そんなところだ」
うさぎ柄のタオルハンカチを巻いたおじさんは、ちょっとドヤ顔をしていた。
「あとは基本的なプロフィールくらいか。石田里香、二十六歳、大崎勤務のOL」
ただでさえ二日酔いで具合が悪いというのに、部屋には小さいおじさんがいて、しかもおじさんは私のことを色々と知っている。情報源は酔っ払った私。ベッドのふちに引っ掛かったまま動く気力を失って、頭だけをベッドに載せた姿勢で尋ねた。
「おじさんは……誰ですか」
「昨日話したが」
「覚えてないって言ってんじゃん」
「偉そうだな」
「おじさんも結構えらそうだよ」
「そうかな」
「そうだよ。で?」
「緒方優斗、四十二歳」
名前も年齢も口調もあまりにも普通で、聞いているこっちがおかしくなりそうだ。「トゥインクルメロン、三百歳」みたいなプロフィールだったら、ちょっとは納得できるのに。
「普通だね……」
「普通だよ」
「そのサイズはどうしたの」
「三日前までは普通のサイズだった。大手町で働いてた」
大手町。
目の前に突き付けられているあからさまな非日常と、大手町というド日常がうまく混ざり合わなくて、頭がぐしゃぐしゃになる。
「それで……なんでそのサイズに」
「しこたま酒を呑んで、起きたらこうなってた」
「そんなことあるゥ?」
力が抜けすぎて語尾が伸びた。
「知らん。初めてだ」
「……でしょうねぇ」
しばらくおじさんと見つめ合った。
どこからどう見ても、普通のおじさんだ。すれ違っても振り返らない、どこにでもいる、普通の。ただ、サイズが小さいってだけで。
「……シャワー浴びて来る」
「どうぞ」
ふらふらと洗面所に入り、ドアを閉めた。そして鏡に映った自分を見る。
いつもよりだいぶ疲れた顔をしている。でも、普通だ。いつも通りだ。何もおかしいところはない。しわくちゃのスカートをずり下げて、これまたしわくちゃのカットソーを脱ぎ、インナーを脱ぎ、寝ているときに苦しくて自分で外しでもしたのか背中のホックだけ外れて肩にぶら下がっていたブラジャーを取り、パンツごとストッキングを引き抜く。
仕分けるのがめんどくさくって、全部いっしょくたに大判の洗濯ネットに突っ込んで洗濯機に入れた。ほどよく洗濯物が溜まっていたので、その場で裸のまま洗濯機を回す。
ぶおん、と音を立てて洗濯機が回り出したのを確認してから風呂場に入った。小さなユニットバスだ。湯船のある家がいい、とわざわざ条件をつけて家を探したくせに、ほとんど使っていない。一人のためにお湯を張る水道代はバカにならないし、浴槽を洗うのも面倒だからだ。
いつもより熱めのシャワーをひたすら頭から浴び、息苦しくなったところでやめた。スッキリしたくて、頭を二回、体を三回、顔なんか四回洗ってから風呂場を出た。
丁寧に体を拭き、部屋着を着て、髪を乾かして、歯を磨いてから部屋に戻る。
ソッ。
「いるよ」
部屋を覗き、「いる」、とこちらが言う前に、おじさんが言った。
「残念ながら、まだいるよ」
相変わらずちゃぶ台の上に座って、おじさんが言った。
「……なんか、ごめん」
「いや、別にかまわまないが」
シャワーを浴びて少しスッキリしたけど、やはりまだ昨日の酒が残っている。
廊下のキッチンに向かい、シンクの中に残っていたマグカップをちゃちゃっと洗って水を注いだ。蛇口に取り付けるタイプの簡易浄水器は、半年くらい前に交換期限を過ぎている。だから水はおいしくない。
思いのほか喉が渇いていたようで、一杯では足らずに汲み足して飲んだ。視界にぼんやりと入り込んだ台所用洗剤の容器を見ながら、「たぶんおじさんと同じくらいのサイズだな」なんて思った。
「あ……」
マグカップを持ったまま部屋に戻り、おじさんを見る。
「おじさんも、喉とか渇くの?」
おじさんはこくんとうなずいた。
「飲む?」
こくん。
「どうしよう、コップが」
ちょうどよい大きさの容器がない。普通の大きさのマグカップで差し出したら、おじさんが溺死しかねない。部屋のあちこちをざっと見渡し、ようやく見つけたのはリップスティックのキャップだった。
「ちょっと待ってね」
台所で丁寧に洗い、水を入れて差し出す。
「こんなんでごめん」
「いや、ありがたい。いただきます」
おじさんはぐびぐびと水を飲んだ。
「うまい」
「嘘でしょ。浄水器の使用期限切れてるよ」
「実は喉がかなり渇いてた」
「そうなんだ。ごめんね、気付かなくて」
「いや、ありがとう」
重い頭を押さえながらベッドのふちに腰掛け、おじさんを見る。不思議なことに、少し慣れてきたのか、おじさんの姿に抱く違和感が薄れてくる。
「なんかさぁ」
「なんだ」
「普通だね」
「なにが」
「普通のサイズだったのに、そのサイズになっちゃったんでしょ。動揺しないの」
「したさ。パニックになったし、泣き叫んだ。そういうのはもう一通り終えたんだ」
「……そっか」
「それに、昨夜からの君の錯乱ぶりを見てたら、気持ちが落ち着いた」
「……どういう意味よ」
「自分より混乱している人間が目の前にいると、どういうわけか落ち着いてくる」
「……それは何となくわかるかも」
フウ、と息をついた。
「君も落ち着いたか」
「……というか、疲れてパニクる元気がないのかも」
「そうだろうな。昨日から感情が忙しそうだった」
毎日深夜まで働いて、ようやく迎えた金曜日に理不尽な理由で先輩社員から怒られ、むしゃくしゃした気持ちのまま社内の飲み会に駆り出され、エライ人に酒を注ぎ、盛り上げ要因として三次会のカラオケまでキッチリ付き合ってから帰途についた。その帰途の最後の最後で、ヤバイものに出会った。少しばかり感情が忙しくなっても許してほしい。
「『頭がおかしくなったかもしれない』って泣き出したり、『むしろ幸運の小人さんなのでは』って笑いだしたり、先輩にめちゃくちゃに腹を立てたりしてた」
「……お恥ずかしい限りです……いつもあんな感じなわけでは……」
「そう願うよ。毎晩あれだと体に悪そうだからな」
「……あのさ」
「なんだ」
「いや、なんでもない」
気を抜くと、「現実?」とか「いや、マジ?」とか「え、嘘でしょ」とか言っちゃいそうになる。でもそのくだりは昨夜さんざん繰り返したとのことなので、これ以上言われてもおじさんも困るだけだろう。
「わたし、なんで家に連れて来たんだろう……」
あのまま道に置き去りにしておけば、「夢だった」で済んだ話なのに。そうしたら酒の肴に「小さいおじさん見たことあるよ」なんて言って、「ウソー」とか言われて、「酔ってたからじゃないのォ?」なんて言われて、自分でも本当か嘘かわかんないまんま生きて行けたのに。
「俺の方が聞きたい」
「……そうだよね」
「でも助かった」
「……え?」
おじさんはその場でしゃがみ、手に持っていたリップクリームのキャップを台の上に置きながら言った。
「あのままだったら、たぶんもうもたなかった」
「どういうこと?」
「人に踏まれるか、ネコにかじられるか……餓死するか」
「あ……」
「君は酔っ払ってたけど、危害は加えられそうになかった。つまみの魚肉ソーセージとチータラも分けてくれた。数日ぶりの食事だったし、おかげで少し眠れた。ありがとう」
なんかお礼を言われた。酔ったまま拾って来て、(覚えてないけど)かなりクダを巻いたらしいのに。
「いや、そんな、お礼を言われるようなことは」
「本当に助かったんだ。命の恩人だよ」
おじさんは真剣な顔をしていた。
「……そっか。じゃあ、なんか、よかった。うん」
命の恩人。そんなことを言われたの、生まれて初めてだ。
「そうだ、それに、これもくれた」
おじさんは自分の体を包んでいるハンカチタオルをつまんで見せた。
「『チラシじゃ心許ないでしょう』とか言って」
「ハンカチも心許ないけどね」
「着心地はだいぶマシだよ。気分もな」
「……ていうか、冷静に、その下、裸なの」
「そうだ」
「服はどうしたの」
「体だけ縮んだから、服は大きすぎて。置いて来るしかなかった」
「じゃあどこかにおじさんの抜け殻が落ちてるってこと?」
「そういうことになる」
「財布とかも? それってヤバいんじゃ」
「貴重品はもう全部盗られてる」
「どうしてわかるの?」
「盗まれるところを見たから」
「縮んだあと?」
「そう。デカい服の中で目が覚めて、布の中でもがいてやっと抜け出して、自分の置かれた状況をようやく把握し始めたかどうかってときに、巨大な人が近寄って来て服を漁って、財布とスマホを持って走り去って行った」
その状況を想像してみようと思ったけど、またパニックを起こしそうだったのでやめておいた。おじさんの視点からすればさぞかし恐ろしい図だったのだろう、ということだけは想像しなくてもわかった。
「よく見つからなかったね」
「よかったよ、あいつに見つかってたらどうなってたか」
「道端に服一式と所持品一式が落ちてたら、普通通報するもんねぇ」
通報せずにスマホと財布を持って走り去るような人に見つかったら、たしかにおじさんの身は危なかったかもしれない。
「そうだな」
「無事でよかったね」
そんなコメントしか思いつかず、月並みだとわかっていながらそう言った。おじさんはうなずいた。
おじさんの神妙な顔とは対照的に、ハンカチのウサギはにっこりしている。
「これからどうするの?」
「わからん」
「元に戻る方法は?」
「わからん」
「だよねぇ。調べてみる?」
そういえばスマホは、ときょろきょろしていたら、おじさんがまた腕を伸ばした。
「スマホならあそこに転がってる」
「あ、ほんとだ。どうも」
床に落ちていたそれを拾いあげると、電池の残りは二十八パーセントだった。
充電コードに繋ぎながら、思いついた単語を打ち込む。
「ちいさいおじさん、スペース、なってしまった、スペース、戻り方、と」
検索ワードランキング最下位に違いない組み合わせに目をチカチカさせながら、検索結果が現れるのを待つ。
小さいおじさん、というキーワードには、それなりにたくさんのページがヒットした。
そういえばそんな都市伝説があったな、とおぼろげな記憶をたどる。子どもの頃に芸能人がテレビで話していた気がする。神社に宿るスピリチュアルな小人の話。これはまさに、ではないか。いまのところ目の前のおじさんにスピリチュアルな要素はないけど。
いくつかのサイトを斜め読みしたが、目撃情報ばかりで、肝心の「なってしまった」とか「戻り方」とか、その手の情報は見当たらない。
画面を凝視していたら、おじさんが少し背伸びをするような仕草をした。
「あ、見たい?」
そりゃそうか、と思う。
自分の命運がかかってるわけですし。
おじさんにも見えるように、スマホをちゃぶ台の上に置いた。充電コードの長さがすこし足りず、ちゃぶ台の端っこにかろうじて載ったそれに、おじさんはかじりつくように見入った。
おじさんからすると文字が大きすぎて読むのに時間がかかるようで、わたしのペースで読んでいると「待ってくれ」とばかりに身を乗りだしてくる。
「あ、いいよ、好きに検索して」
スマホから手を離して立ち上がり、伸びをする。目眩は少しマシになったようだ。
それから、手のひらで懸命にスマホを操作する背中をじっと見た。その背中にもにっこりウサギ柄。
もうちょっとマシなハンカチもあったような気がするけど、なぜあのチョイス、とあれこれ考えていたら、視線の先で小さな肩がしょんぼりと落ち込んだ。
「……情報、無さそう?」
「なさそうだ」
「そっか」
可哀想だ。なんか、すごく。
「家族とかは? 連絡したり」
「いない」
「友だちとか」
「この状況で連絡できるような友だちはいない」
可哀想だ。かなり。
「うちに、住む?」
小さな――文字通りものすごく小さな――背中を見ていたら、思わずそう声をかけていた。おしさんがスマホから目を離し、こちらを振り向いた。
「……いいのか?」
「うん、まぁ。食費も大してかかんないだろうし、特に不都合はないかなって。家の外で猫に食べられたおじさんの残骸を見つけるのとか、嫌だし。ここならまぁ安全かなって」
「……君に警戒心はないのか」
「あるけど」
「見知らぬ人間を住ませるなんて」
「当たり前だけど、普通サイズならこんな提案しないよ」
たとえこのおじさんが凶悪な人だったとしても、確実に力で勝てると思えばさして怖くはない。それに、凶悪な人ではなさそうだし。
「君にメリットは?」
「は?」
「メリットはあるのか」
「そもそも、メリットなんて要る?」
お互いに「へ?」って顔をしながら、しばらく見つめ合った。
小さな顔には、ちゃんとホクロとかもある。当たり前か。
「……お世話になります」
ぺこり。
小さな頭がこちらに向かって下がる。
斯くして二十六歳OLは、小さなおじさんと同居生活を始めることになった。