プロローグ
二十五時五分。最寄り駅につき、改札を抜けた。
街灯は煌々としているけど、さすがにこの時刻ともなると人はまばらだ。昼間は駅前の広場でクルックポロッポしている鳩もどこぞで眠りについているのか、一羽も見当たらない。
ハトよりも忙しく働いているヒト、それが私。
フヒ、と一人笑いながら階段を降り、ふぅ、と細く息を吐いた。頬が火照っている。お酒を飲んだせいだ。まぶたもやたらと重い。そんなにたくさん飲んだつもりはないけど、結構酔っているかもしれない。
乾杯のビール、梅酒、焼酎、熱燗……エライ人の音頭に合わせて飲んだので、味なんかひとつもわからなかった。
ふぅ、とまた熱い息が出る。
――んー、これは。二日酔いになるかも。参ったなぁ、金曜でよかった。
酔っ払った頭でそんなことを思いながら、足はひとりでに家を目指す。街路樹の枝をすり抜けた月明かりの網目模様を踏み踏みする。ふみふみ。きれい。
のったり、ふらふらと自宅アパートのすぐ近くの歩道橋の下を歩いていたら、視界の端っこにふわふわとしたものを捉えた。
――あ、ネコ。
まだ子猫と大人の中間くらいだろうか。体は小さく、尻尾がぽわぽわだ。何か面白いものを見つけたらしく、おそるおそるといった様子で、開いた前足を使ってチョン、チョン、とつついては少し下がるのを繰り返している。
――かぁいいなぁ。
よしあのふわふわを撫でてやろう、とゆっくりと近づき、少し離れたところでしゃがみ込んだ。
「にゃーん」
そう声を掛け、そっと手を差し出す。
寄って来てくれるかな、という期待は一瞬で打ち砕かれた。
猫はこちらを振り向くなりビクリと体をこわばらせ、サッと暗闇に走り去って行った。あまりにもすばやい拒絶に「あ、待って」と声を上げる暇もなかった。まぁ、上げたところで待ってくれるわけじゃないから、いいんだけども。
「ありゃあ、ざんねん」
そんなに一目散に逃げんでもいいのに、とがっかりだ。
しゃがんだ姿勢から立ち上がろうとしたら、ズ、と肩のカバンがずり下がる。その重さに引きずられてよろけ、地面に手をついた。そのときだった。
――ん?
何かが動いたような気がした。
――んん?
さっき猫がいた場所だ。チラシの塊みたいなものがカサカサと動いている。風で転がっているのかと思ったけど、何となく動きに違和感があった。
さして興味があるわけでもなかったけど、少し気になってチラシに近づいた。チラシのふちを親指とひとさし指でつまみ、持ち上げようとする。が、持ち上がらない。妙に重い。
――ネズミかな。
そういえばちょうどこの辺りで一度ドブネズミらしきチョコマカしたやつを見かけたことがあった。田舎でもなく、かといって大都会でもなく、人口はそれなりにいて、自然もかすかに残っているこの辺りは、彼らには住みやすいのかもしれない。
別にドブネズミを見たいわけでもなかったんだけど、このまま引き下がるのも癪で、ちょっと意地になりながらチラシをぐいと引っ張った。
力の均衡が崩れて、チラシがこちらにぐんと引き寄せられる。そしてチラシの影から姿を現したのは――
「…………え?」
え、しか言葉がでなかった。
チラシの端から覗くのは、肌色の顔だった。黒く短い毛が頭の辺りに生えている。これはネズミじゃない、ヒトだ。人の顔だ。ただ、それが恐ろしく小さい。人形? いやでも、動いている。
――え?
脳がバグッた。
ネズミサイズの人が、チラシを必死に引っ張っている。
「え?」
それ以外の語彙を全部うしなって、「え」だけを繰り返した。ぎゃあ、とか、キモイ、とか、他にも言えそうな言葉はあったのに。
驚いてチラシから手を離したら、肌色はチラシを掴んで体に巻き付け、そそくさと物陰に逃げて行こうとする。
待って。
え?
ちょっと。
え?
いや、そんな。
え?
結局、五十音の四番目しか出て来ない。
二十回目くらいの「え」を言ったときに、歩道橋の上から足音が聞こえて来た。階段を下りる固い音だ。
そのとき、自分が何を考えたのかはよくわからなかった。ただ、とっさにそのチラシと肌色を左手で掬い上げ、お腹の辺りでそっと押さえて走り出した。
酔っ払ってヤバイ幻覚を見ているという事実を隠蔽しようとしたのかもしれない。
走って三十秒くらいの自宅アパートにたどり着き、ダッシュで階段を上った。ヤバイものを持ち歩いているような気分だった。いや、気分ではなく、間違いなくヤバイものを持ち歩いているのだ。ガチャ、ブン、バタン、ガチャン、ドアを閉めて鍵をかけた。そしてようやく息をついた。
急に走ったせいで余計に酔いが回ったのか、頭が揺れる。
よろ、と壁に寄り掛かりながら、肩で電灯のスイッチを押した。
パチン、と部屋が明るくなる。
そしてようやく、左手をお腹から外し、目の前につき出した。手の上には薄汚れたチラシ。そして、ヒト。電気のおかげで明るい分、外で見たよりもはっきりとその姿が見えた。おじさんだ。無精髭みたいなツブツブが生えているし、ちょっと日に焼けてたりもする。
「ちょっと待って……」
ずるずるずる、壁を肩でこすりながら、そのままへたりと座り込んだ。両手は前に差し出したままだ。
これって、妄想? 妄想なの?
妄想であってほしいような気がするけど、自分がこれほど鮮明な妄想をするという事実を受け容れたくもない。
「どうしよう」
誰にとなく、そう言った。
「……どうしよう」
途方に暮れた私の前で、手乗りサイズのオジサンも、途方に暮れたような顔でチラシにくるまっていた。