拗れた
だから、何度も言っただろ。
と、幼い頃からの友人かつ護衛騎士の紳士的な男が、レインハルトに向かって言った。
比較的小さな声であるのは、前を歩く彼女に聞かれないようにだろう。
レインハルトたちは、結局山を越えて街へおり、装備を用意次第ひとまず国境を越えることにした。
追手がかかったとしても、昨日の今日ですぐに体制を整えきれるとは思えない。その間に国境を越えてしまえば、大規模な捜査網をひかれてもその手を逃れられるし、安易に軍を動かすことも、兵を差し向けることもできないからだ。
兵が国境を越えれば、国家間での戦争へ発展する可能性がある。
いわば内乱状態ともいえる現在、それを悟らせないよう、出来る限り他国との関わりは避けたいはずだ。
もし、ロイラハルトが他国と手をくんでいたらその限りではないが、それでは完全に国を売っている。王位継承を求めているならば悪手といえるだろう。
国を売った時点で逆賊。どうあっても、正義は自分にあるなどとは言えないし、なんとしてもその企ては阻止しなければならない。
どちらにせよ、他国であっても公に行動することはできないため、息を潜めての逃避行に変わりないが、国内よりはまだ良いだろう、ということだ。
その間に情報収集を進めて、対策を考える。
完全に後手に回ってしまったのは、王家として、王太子として、ただただ恥じ入るしかない。
ーー俺は、何も、知らなかった。
草をかきわけながら、しっかりと前を見据えて歩く、目の前の少女。
今朝までは少し気怠そうにしていたが、食事をとった(それも、彼女の巾着袋から出てきた非常食だが)のち、「体力が回復したので、ちょっと魔力出してきますね」となんてことないように言って一人森の奥に消えた。
昨夜、寝ている彼女がそれとなくずっと、レインハルトの吸収した魔力を放出しているのには気付いていた。あれだけの魔力だ、きっと獣避けなんてかけなくても、一匹も寄ってこなかったに違いない。
それでも、おそらく大きな影響を与えないように加減していた。寝ながらでも魔力の制御がブレない手並に、つい慄いてしまったほどだ。
それだけでは到底放出しきれなかった分を、どういった手法でか、彼女は身体から放ってきたらしい。しばらくして姿を現したときには、もういつもの彼女のように、凛とした姿勢で真っ直ぐと歩いていた。
魔力制御装置と思しき腕輪が一つ増えていたので、残りは体内に残して抑えているのかもしれない。
彼女の身体に散々負担をかけた。
無力どころか、彼女に害をなしてばかりの自分に、苦い気持ちが湧き上がった。
*
ーー赤い。
はじめて彼女を見たとき、そう思った。
豊かに波立つその髪は、陽に透けてキラキラと赤く、鮮烈な印象を与えた。
それでいて、こちらを見つめる瞳は金色に輝き、強い意志を感じさせる。
これは本当に人間なのか。
天使か悪魔か精霊か、とにかく何か、得体の知れないものなんじゃないのか。思ったのは、本能で、自分に御せるような代物ではないと感じ取ったからなのかもしれない。
「本日は、お招きいただき誠にありがとうございます」
優美な礼で挨拶の口上をはじめた彼女は、恐ろしいほどに美しく。
背筋を這い上がるゾワっとした感触に、気がつけば「俺はお前を招いてなどいない!」と叫んでいた。
周りの大人たちが息を飲み、ーーしまった!と失態を悟るも、
「……それは、大変失礼致しました」
わずか十歳だとは思えない貼り付けたような微笑みを浮かべて、彼女はただ、レインハルトの言葉を受け流した。
……ショックだった。
ひどいことを言ってしまった、と後悔するよりも先に、それが彼女に対して何の影響も与えなかったことに失望していた。
随分、勝手なことだと思う。
もし、自分の言葉を受けて彼女が泣いてくれていたら、せめて傷ついた表情を浮かべてくれていたら、全力で詫びたあとにその手を引いて庭園にでも誘い、薔薇の花を渡すことすらできただろう。彼女も一人の少女にすぎないんだと、安心して。
ーー彼女は俺を見ていないんだ。俺の言葉は……届かない。
そう、思い込んだ。
その上、表面上だけでもどうにか自分を大きく見せたくて、義務のようにーーいや、紛れもなく義務としてーー定期的に催される婚約者とのお茶会では、愚にもつかない自慢話ばかり繰り返した。
俺はこんなにすごいんだぞ、偉いんだぞ、いずれは国王となる選ばれし人間なんだぞ。
そんなレインハルトの虚勢は、やはり彼女にとって何の意味もなく。
回数を重ねれば重ねるだけ、彼女の瞳が興味を失っていくのがわかった。
当時から才女として名高かった彼女に、見下されるのではないかという怯えも、きっとあった。
彼女に会う度苦しくて、苦しくて苦しくて。自分を写してくれない瞳を、見ていられなくて。
無愛想だ、愛嬌がない、可愛げがない女だと、そのうちに彼女を詰るようになった。
本当は、ただ、普通に笑った顔をーー見てみたかっただけなのに。
学園に入学する頃には、すでにもうどうしようもないほど拗れていた。
勉学と執務の忙しさを理由に、一緒にお茶を飲むこともせず、学園で過ごす彼女に挨拶すらしなかった。
成績表の一番上に彼女の名前を、ダンスの合同授業で彼女の姿を、生徒会室の窓から見える裏庭で、本を読む彼女の横顔を、見つけてはいたのに。
見つけてしまうのはなぜなのか、考えたくもなかった。
「レインハルト様!おはようございます!」
「おはよう、リリア。いつも元気だな、そんな調子だとまたコケるぞ」
だから、だろう。
レインハルトは、学園で出会った一人の少女に、心惹かれた。
「まぁ!ひどいです、レインハルト様!私そんなにお転婆じゃないです!立派なレディなんですよ?」
「ほーう?立派なレディねぇ。頭に花びら乗っけて、か?」
「えっ………あ!」
自分の言葉に一喜一憂し、コロコロと表情を変える。よくも悪くも、貴族令嬢らしからぬ態度は、他の者からすれば礼儀知らず甚だしいものだろうが、レインハルトにとっては心地良いものだったのだ。
王子としての自分ではなく、一人の人間として、彼女は好意を持ってくれている。
ーーそんな幻想を、抱いてしまうくらいには。
その、甘い罠のようなぬるま湯に、レインハルトは我知らずずぶずぶと嵌っていった。目の端で婚約者の姿を捉え、その度苛々とする気持ちを押し殺して。
そして。
最初にその報告を受けたのは、宰相子息のベインからだった。
「リリアが、嫌がらせを受けているそうです」
「……なに?」
あからさまに嫌悪の感情を浮かべながらーー「殿下の婚約者、アーリア・カトライズ公爵令嬢から、ですよ」と。
「ーーーーーーえ?」
アーリアが?嫌がらせ?リリアに、嫉妬……?
俺の寵愛が彼女にあるから?いや、アーリアは俺のことなど好いてはいない。では、
ーー正妃の座を、奪われるかもしれないから、か?
「………ははっ」
ああ、なんということだ、なんということなんだ。この感情の高まりを、どう喩えたらいい。どう表現すればいい。
リリアとともにいる時間が増え、アーリアが時折こちらを見ていることには気がついていた。それでもその顔には何の感情も見えず、文句一つ言ってこなかった。
だが、あの女も、所詮ただの俗物的な人間にすぎなかったのだ。欠点ひとつないような、後ろめたいことなどなに一つないようなあの顔の下で、醜い思いを抱えていたに違いない。
嫉妬、嫉妬だと。あのアーリアが!
恍惚とした。
ついに自分の行いが、彼女に影響をもたらした。長年の悲願を達成したような充実感で、その嫌がらせが事実か否かなどはもうどうでもよかった。
事実だ、事実なんだ、事実であってほしかったのだ。
二年間、甘い蜜ばかり吸い続けたレインハルトは、物事を自分の望むように捉えるだけの、ただの愚か者へ成り下がっていた。
だから、度々泣きついてくるリリアの言葉を、全て鵜呑みにした。
レインハルトが、望んで、鵜呑みにしていたのだ。
「……あまりにも婚約者を蔑ろにしすぎじゃないのか?」
「あのリリアという少女、俺は何か怪しいと思うんだが…」
「本当にあのカトライズ様が、そんなことをすると思うのか?」
衆目の中にいるときは、決して護衛騎士としての立場を崩さない友人が、二人になった時を見計らって苦言を呈するようになっても、レインハルトはその言葉を拒んだ。
「なにを言っているんだ、シン。あの女も、所詮その程度の底の浅い人間だったということだ。欲をかくあまり、他人を害するような、くだらない女。正妃の座惜しさに嫌がらせをしている、それ以外なにがあるというんだ?」
「……本気でそう思っているのか?俺には、あのリリアという少女の方がよっぽど恐ろしく見えるぞ。気づいてるだろ?ベインも、ハロルドも、ティムも、今やすっかり彼女に夢中だ」
「………それは、しょうがないだろう、リリアは魅力的な女性だ」
周囲の男たちが、皆リリアを恋い慕いはじめたことには気付いていた。とはいえ彼女は、自分を一番慕っていて、男たちが勝手に傅いているだけだ。リリアに罪はない。
「俺には………俺には正直、彼女のなにがそんなに魅力的なのかわからないよ。周りの男が自分を好きになるように、……言い方は悪いが、そう、……仕向けているようにしか見えない」
「仕向ける、だと?はっ、バカなことを言うな」
リリアがそんなことをするはずがない。
アーリアとは比べ物にならないくらい、優しく、明るく、そばにいるだけで自然と周りが笑顔になるような、素敵な女性なんだ。名ばかりの婚約者などどうでもいい。まともに笑いすらしない、あんな冷たい女。
……そうだ、俺にはリリアさえいればいいんだ。リリアがいれば、俺は煩わしい感情を抱くこともなく、幸福でいられる。笑顔を向けてもらえる。将来国王となったとき、あの女がそばにいて、ずっと息苦しい思いをするよりも、リリアのような可憐な女性に支えてほしい。それにきっとリリアなら、リリアならきっと
ーーー俺のことを受け入れてくれる。
火照り切った頭は、すでに正常な判断を失っていた。
リリアを正妃に迎えよう。
婚約破棄を突きつけたら、あの女はどんな顔をするだろう。これまで一度も崩したことのない表情を、歪めたりするのだろうか。
正妃という立場に執着してか、王妃教育だけは熱心に受けているとのことだから、悔しくてたまらないに違いない。
ついでにこれまでの嫌がらせの数々についても、とっくに知っているんだと問い詰めてやろう!うまいもので、確たる証拠こそ掴めないようにしているみたいだが、そんな女は国母として相応しくないと断じてやるだけでもいい。罪を認めなかったとしても、婚約破棄に関しては決して否とは言わせない。
「…うっ……ひっく……もう、やだ……レインハルト様……私、つらいです……どうして身分が低いというだけで、こんな目に合わなきゃいけないんでしょう……」
リリアが、階段から突き落とされたと泣いている。
最低だ、最低な女だ。
こんなのもう殺人未遂だ。ついにそこまで堕ちたか。
「……大丈夫だ、リリア。俺が守る。あいつとの婚約は、破棄してやる」
「……でも…そんな……そんなの、あのアーリア様が認めるはずありません…!」
「いいや、認めさせてやる」
そうは言っても、アーリアとの婚約は王命だ。どうしたものかと思案しているとき、「たくさんの人に認めてもらえたら、納得してもらえるとか……あはは、そんな単純なものじゃないですよね、ごめんなさい」と、笑うリリアの幼い言葉を受けて、ーーそういえば、俺の十八歳の誕生日を祝う式典が、もう三日後に迫っているなと、気がついた。
レインハルト視点、続きます。