夜の魔物。
22:22。時計は夜と夜中という境界のない言葉のあやによる差異の中を過ぎようとしている。僕は毎晩毎晩何かに惹きつけられているように22:22に携帯を開く。まるで正確に歯車を組み合わせた時計仕掛けのように、毎日のことである。部屋の空気がこもっていることに気づき僕は少し窓を開けた。途端に冬と春の匂いがスクラムを組んで争うように部屋に入り込んでくる。3月の3日目。ひな祭り。だからといって特に夜の景色が変わることもない。向こうにある大通りから大型車が長い移動に疲れてやる気なく走っている音が聞こえてくる。その自動車一つ一つに1人以上の人間が乗っていることを連想すると、それらの音がまるで人間の息のように聞こえてくるのだ。彼らはどこに向かっているのだろう。どこからやってきたのだろう。そんな質問が頭の中に浮かびあがってはぼやけていく。頭の中に浮かんでくる疑問は流れ星のように一瞬光を放っては消えていく。それを見落とさないように、多くのことを考えている。だからきっと疲れているんだと思う。とりあえず納得したところで、不意に外に出たいという欲求が湧いてきた。僕はジャージの上に厚めのパーカーを羽織って街灯が整列している中に割り込んでいった。
僕はなんとなく本能が指図するままに辺りを歩いてみた。昼にみるのとは大きく変わり、夜になると周りのものが恐怖を伴って見える。まるで日頃は温厚な人間が大切なものを失い生きている価値を見失ってるような感じだ。公園のベンチには誰もいないはずなのになぜか人影が見える気がした。ブランコは揺れているように感じ、砂場からは砂が崩れる音が聞こえたように思えた。自分の頭の中で多くのことは処理され映像となり、音声となるのだが、夜はその機能をおかしくする働きがあるらしい。僕は夜の魔物の存在を肌で感じながら、農道の方へと向かっていった。
農道には街灯が全くない。人気もない。聞こえるのは水の音と僕の足音だけであった。しばらく無心で歩みを進めていると不思議な感覚に見舞われた。まるで周りの空気が自分の肌に吸い付き、空気と僕の関係が逆転し、僕が空気をきってるのではなく、空気が僕を支配しているような感じがした。それは支配下に置かれるという状況ではあったが、それほど苦なものではなく、むしろ縛られた自由が僕に快感を与えた。するとそんな僕の気配を察知したのだろうか。空気は僕を支配することをやめ、僕を空気の一部として扱うようになった。僕はそのとき一週間ほど前に抱いた女のことを思い出した。彼女とは全く話も合わず、肉体的な相性も決していいとは言えなかったが、まるで僕を包み込むようなものを持っていた。それは温もりの類ではなく、もっと言葉では説明できない、まるで母のお腹の中にいるとはこういうことだろうと想像するようなものであった。命が繋がり一体となるといった感じだろうか。彼女とはその後連絡すらとっていない。空気と一体となった僕は無心に歩き続けた。目の前に道があることすら確認できなかったが、ただ街灯のない暗闇の中を歩き続ける。このことは僕に快楽を与えた。何かが僕という存在を示し、受け入れてくれている。それが何なのかは全くわからないのだが。僕は考えることをここで止めて、ただひたすら歩き続けた。
どれくらい歩き続けただろうか。ふと気づくと家の目の前にいた。携帯をズボンのポケットから取り出す。電源ボタンを押し時間を確認しようとするが、携帯画面は真っ暗のままであった。そういえば充電がほとんど無かったような気がした。確かそんな気がした。自分が歩いてきたと思う方向を見てみた。街灯はなく、数十メートル先は何も見えない。振り返るとそちらも何も見えない。左右を見ても何も見えない。そう。見えない気がした。実際は何か見えているのかもしれない。夜の魔物は僕の目から光を奪ったのだろうか。僕は闇の中に自らを溶け込ましていた。溶け込んでいるような気がしていた。