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  【5】


 寒風まじりの冷たい外気に触れ、少しだけ気分が落ち着いた。

 しかし、それはほんの数秒のことだった。

 すぐに心の痛みが復活する。

 吐き出す温かな白い息の代わりに、肺の中身は夜の冷たい空気で満たされていく。

 マンションへ向けて機械的に足を動かしながら、正義は頭の中から夏子さん親子のことを追い出そうとしていた。

 けれど、追い出そうとすればするほど、さっきの二人の様子を思い浮かべてしまう。

 ……自分にはなかったモノ。

 それを夏子さんたちは持っていた……。

 ……ダメだ。

 心が警鐘を鳴らす。

 ──考えてはダメだ!

 これ以上、何も思うな!

 止めろ止めろ止めろ!

 ──止めてくれ!

 自分の心のどこかで、切羽詰まった声が上がっている。

 それに従いたかった。いや、従うよう、正義は必死に努力していた。

 でも、考えたくないのに……。どうしても、ブレーキが利かない。

 止めろ止めろ、やめろ……。

 やめてくれ…………。

 やがて、ひとつのキーワードが思い浮かぶ。

 ヤメ、ロ……。

 その瞬間、警鐘が止んだ。

 正義は抵抗することを諦めた。

 そして……答えらしきものを見つけた。


   *


 赤黒かった闇が、真っ黒な闇に変わった。

 嘘か本当か。目を閉じた時、目の前の闇に混じる赤は瞼を流れる血液の色だ、と昔誰かが言っていた。

 その血の色が、闇から消えた。

 黒一色の闇が正義を包み込んでいる。

 ゆっくりと瞼を開けると、自分を見下ろす麻理亜の顔があった。

「麻理亜……」

 正義は、ぼんやりと呟くように言った。

 なぜか、麻理亜の表情には心配げな色が浮かんでいる。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 麻理亜が訊いてくる。

「今日って、バイトの日だったよね?」

「……休んだ」

 正義は素っ気なく答えた。

 ちらり、DVDレコーダーに目をやると、デジタルの数字は7時過ぎを表示していた。

「風邪でも引いたの? 大丈夫?」

 ああ……なるほど、そんな風に思ったわけだ。それで心配そうなのか。

「違う、そうじゃないよ」

 身体を起こし、麻理亜のためにソファーのスペースを空けてやる。

「……行きたくなかったんだ。ただ、それだけのことだよ」

「…………」

 正義の答えに対し、麻理亜は言葉を継がなかった。

 何も言わず、探るような視線を向けてくる。

 正義の方もただ黙ったまま……。ぼんやりと天井を見上げていた。

「どうしちゃったの? 何かあったの、お兄ちゃん?」

 しばらくして、遠慮がちな麻理亜の声が耳に届いた。

 視線だけを麻理亜の方に向けると、彼女はどこか泣きだしそうな顔をしていた。

「どうして?」

 正義は訊き返す。

「どうして、そんなことを訊くんだい?」

「だって、変なんだもの」

「……変? 変って、僕がかい?」

「そうだよ。昨日からなんだか言葉少なだし、雰囲気もかなり暗いよ。それに、お兄ちゃんの顔、ものすごく疲れったって感じの顔になってる。目だって……どこか、死んだ魚の目みたいだし……」

 ……死んだ魚の目。

 白く濁った魚の目、正義はそれを頭の中に思い浮かべる。

 死んだ魚の目とは……それはまた、ひどい言われようだな。

 でも、そうか……なるほど、自分は今、そんな目をしているのか……。

「それから……目」

 また、目か?

「……目を合わせてくれない」

 麻理亜はぽつりと言った。

「…………」

「お兄ちゃん、昨日から全然……あたしの目を見てくれないよね。あたしとまともに目が合うのを避けてる……」

 そう言う声はどこか哀しげで、それでいて怒っている風でもあった。

 どうやら、麻理亜が一番言いたかったのは、そのことらしい。

「どうして、お兄ちゃん? なんで、あたしと目を合わせてくれないの?」

 確かに、麻理亜の言う通り……正義は彼女と目を合わせることを避けていた。

 現に今も、正義の二つの瞳は、麻理亜の瞳から逃げていた。

「ねえ、答えてよ。どうしてなの、お兄ちゃん?」

「なあ、麻理亜……君はいつまで、ここにいるつもりなんだい?」

 麻理亜の問いに答える代わりに、彼女の強い眼差しを避けたまま、正義は逆に質問をぶつけた。

「えっ……」

 麻理亜が沈黙する。

 沈黙した彼女に、正義は続けた。

「明日までかい? それともあと一週間、二週間? ひと月、半年、一年……」

「やっぱり、お兄ちゃん……あたしに出ていって欲しいんだ……」

「違う!」

 強めの語調で、正義は否定した。

「……そうじゃない。そうじゃなくて……逆だよ、麻理亜……。出ていって欲しいんじゃなくて……。僕は、君に……出ていって欲しくないんだよ」

 ──いつまでも、君に……ここに居て欲しいんだよ。

 言って、正義は麻理亜の目を見つめた。

 麻理亜は驚いているようだった。

「でも、麻理亜……君はいつかここを出ていくんだろ?」

 まるで拗ねた子供のようだ。自分の声がそんな風に聞こえた。

 正義は麻理亜から視線を逸らした。

 そんな正義の様子に、ややあって、麻理亜は困惑げに口を開く。

「ねえ、ホントにどうしちゃったの? ホントに変だよ、お兄ちゃん?」

 ……麻理亜の言う通り。正義は本当におかしくなっていた。

 明日で、麻理亜がここに来てから十日になる。

 自分以外の他人が一緒にいる生活にも、ほんの少しだけ慣れ始めていた。

 おかえり、ただいま……それにも初めほどの戸惑いを覚えなくなっていた。ただ、いつも麻理亜の「おかえりなさい」の方が先なところが、まだまだ正義の不慣れ具合をしっかりと物語ってはいたけれど……。

 そんな中で、正義は気づいてしまった。

 白いコートを胸に、出ていくと言った麻理亜。あの時覚えた奇妙な感覚、正体不明の焦り……。その正体に、正義は気づいてしまった。

 なぜ、あの時、あんな風に心が騒めいてしまったのか。

 それは、当たり前すぎるくらいに簡単なことだった。

 ……麻理亜が出ていくと言ったからだ。

〝あたし、出ていくから……〟

 彼女のあの言葉が、正義を焦らせたのだ。

 ……怖かった。また独りに……。

 それが……怖かったのだ。

 ……独りは嫌だ。まるで幼子のような、子供染みた感情。

 ただ……それだけのことだった。

 あの時はまだ、それに気づいていなかった。けれど、今は……違う。

 心の底にあったものは、浮かび上がってきてしまっている。

 ……正義は自覚してしまった。

 そして、心が揺らぎ始めた。

 自分がバイトを続けている理由。それは笑顔の練習なんかじゃないのかもしれない。

 確かに、初めはそうだった。笑わない人、鉄仮面と言われたことがショックで始めたことだった。

 だけど、今は……。笑顔の練習なんて……そんなもの、ただの口実なんじゃないだろうか。

 本当は、ただ淋しかっただけで……。

 独りきりの部屋ばしょに、ずっといるのが嫌だったから……。

 ……孤独から逃れるために。

 誰でもいいから、人との関わりを持っていたくて……。ただ人恋しかったから、バイトを続けていたのかもしれない。

 無機質な笑顔を繰り返しながら、自分はいったい、何を求めていたんだろう……。

 僕が求めていたものは、いったい……。

 自らの求めさえも見えず、心が惑う。

 正義は、自分の中で、何かが崩壊していくのを感じ始めていた……。



 ソファーから腰を上げ、麻理亜が立ち上がった。

「……お兄ちゃん」

 沈黙する正義に、静かに呼びかける。

「そんなに、あたしと離れたくない?」

 問われ、正義は麻理亜を見る。

 自分を見下ろす二つの瞳は、初めて目にする、今までにない真剣さを宿していた。

 いつもの温かみはない。冷たさを湛えた鋭い眼差しが、正義を真っすぐに捕らえている。

「どうなの、お兄ちゃん?」

 麻理亜がもう一度問う。

「答えて」

 その一言に、催眠術にでも掛ってしまったかのように、ろくに考えもせず、正義は「ああ」と頷いてしまう。

 けれど、それは正義の偽らざる気持ちだった。だから、その答えに嘘はなかった。

「そう……」

 小さく息を吐くと、麻理亜は瞼を閉じた。

 自分を見つめる瞳の呪縛から、一時解き放たれる。

「だったら……一つだけ方法があるよ」

 目を閉じたまま、麻理亜は言った。

「あたしとお兄ちゃんが、いつまでも一緒にいられる素敵な方法……」

 ……いつまでも一緒にいられる。

 それが、正義の心にひどく魅力的に響く。

「それって……どんな?」

 正義は訊いた。

「すごく簡単なことだよ」

 言って、麻理は瞼を開く。

「あたしに、血を吸わせてくれればいいんだよ」

「へっ……」

 ……血を吸わせてくれ、って。

 それって……。

「僕にも……吸血鬼になれってことかい? 君の仲間になれ、と……」

「そうだよ」

 麻理亜は事もなげに頷いた。

「そうすれば……楽になれるよ。苦しいんでしょう、お兄ちゃん? とっても辛いんだよね? あたしには、正義さんが何をそんなに悩んでいるのか分からないけど……苦しいんだよね? だったら、吸血になればいいよ。きっと楽になれるから」

「…………」

 ……苦しいんでしょう?

(……そうだ。苦しい……)

 ……とっても辛いんだよね?

(……その通りだよ。とっても辛いよ……)

 心の中で、正義は麻理亜の問いかけに頷く。

 ……楽になれるよ。

 楽に……なれる……。

 ……楽になれるから。

 麻理亜の言葉が、まるで呪言のように正義の心を揺さぶる。

「ただ、少し不便にはなるけど。昼間、外に出られなくなったり……」

 言いながら、麻理亜はトマトジュースの入ったグラスを手に取った。

「食事だって、この赤い液体以外は、ほとんど受け付けなくなっちゃうし……」

 その言葉に、正義はテーブルに視線をやった。

 テーブルの端の方に、封の破られていないソフトキャンデーが載っている。

 それは、夏子さんがオマケにくれたものだった。けれど、せっかくの厚意も、「悪いけど、食べられないから」と麻理亜が言ったきり、そのまま放っておかれていた。

 正義も、それを口にする気にはなれなくて……。

 ……誰にも触れられず、放置されたままのソフトキャンディー。

 食べ物だというのに、誰からも食べてもらえなくて……。見向きもされず……必要とされていない。

 誰からも……必要とされていない……。

 まるで、自分のようだ……。

 正義は、ソフトキャンディーと自分を重ね合わせていた。

 ただ、そこに在るだけ……。

「……吸血鬼になれば、人としての悩みや苦しみからは解放されるよ」

 麻理亜の言葉は続いていた。

 ……解放。

 その単語が、正義の耳朶を打つ。

 視線を麻理亜に戻す。

「ねっ、悪くないでしょう?」

 ……確かに、悪くないかもしれない。

 麻理亜の言葉が、甘い誘惑となって正義の心の深部に侵入してくる。

「ああ、そうだ……。それから痛くないから」

「……痛くない?」

「うん。もしかしたら、血を吸われるのって痛いと思ってるかもしれないけど、全然そんなことはないからね。却って、血を吸われるのって気持ちいいものだから」

 にっこり微笑みながら、麻理亜が言う。

 無邪気な吸血少女の笑み。そこには何ら陰りはない。晴れ晴れとしている。

 その笑みがまた、正義を闇の世界の住人へと強く誘う。

 吸血鬼になれば……。

 自分もこんな風に……麻理亜のように、笑えるようになるんだろうか……。

 彼女のような笑顔を、手に入れることができるんだろうか……。

 笑顔を取り戻せるのなら……。

(……悪くないかもしれない)

 正義は思う。

 自分が吸血鬼になったところで、誰かが悲しんだりするわけじゃない。

 ……自分には家族がいない。

 親友といえるような人間もいない。

 恋人もいなければ……。護ってやらなきゃいけない……いや、護ってやりたいと思えるほど、大切な人も存在しない。

 ……誰に遠慮することもない。

(僕には……枷になるものがない)

 自分が吸血鬼になることを、邪魔するものが何も見当たらなかった。

 そのことが、さらに正義の心の中に空虚を生み出す。

 これじゃあ……本当に。

 ただそこに在るだけ……の存在じゃないか。

 それを強く実感する。

 とりあえずの、構成要員。居ても居なくても、同じ……。

 ……暗闇の泥沼にはまっていく。

 これ以上、何を考えたって無駄だ。

 考えたって、どんどん闇に沈みこんでいくだけだった。

 ……闇の世界への道しか示されない。

 心は闇へと落ちていく……。

 そんな正義の心の動きを読んだかように、さらなる誘いのタイミングで、麻理亜が口を開く。

「あたしは、正義さんが仲間になってくれたら、嬉しいんだけどな。あたし、お兄ちゃんのことは気に入ってるし……」

 吸血少女の顔には、少し照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。

「それに……」

 麻理亜は言葉を切った。

 正義は黙って続きを待った。

「やっぱり、独りは少し淋しいもの……」


    *


「どうする、正義さん?」

 正義の瞳を真っすぐに見つめ、麻理亜は答えを求めた。


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