09
【5】
寒風まじりの冷たい外気に触れ、少しだけ気分が落ち着いた。
しかし、それはほんの数秒のことだった。
すぐに心の痛みが復活する。
吐き出す温かな白い息の代わりに、肺の中身は夜の冷たい空気で満たされていく。
マンションへ向けて機械的に足を動かしながら、正義は頭の中から夏子さん親子のことを追い出そうとしていた。
けれど、追い出そうとすればするほど、さっきの二人の様子を思い浮かべてしまう。
……自分にはなかったモノ。
それを夏子さんたちは持っていた……。
……ダメだ。
心が警鐘を鳴らす。
──考えてはダメだ!
これ以上、何も思うな!
止めろ止めろ止めろ!
──止めてくれ!
自分の心のどこかで、切羽詰まった声が上がっている。
それに従いたかった。いや、従うよう、正義は必死に努力していた。
でも、考えたくないのに……。どうしても、ブレーキが利かない。
止めろ止めろ、やめろ……。
やめてくれ…………。
やがて、ひとつのキーワードが思い浮かぶ。
ヤメ、ロ……。
その瞬間、警鐘が止んだ。
正義は抵抗することを諦めた。
そして……答えらしきものを見つけた。
*
赤黒かった闇が、真っ黒な闇に変わった。
嘘か本当か。目を閉じた時、目の前の闇に混じる赤は瞼を流れる血液の色だ、と昔誰かが言っていた。
その血の色が、闇から消えた。
黒一色の闇が正義を包み込んでいる。
ゆっくりと瞼を開けると、自分を見下ろす麻理亜の顔があった。
「麻理亜……」
正義は、ぼんやりと呟くように言った。
なぜか、麻理亜の表情には心配げな色が浮かんでいる。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
麻理亜が訊いてくる。
「今日って、バイトの日だったよね?」
「……休んだ」
正義は素っ気なく答えた。
ちらり、DVDレコーダーに目をやると、デジタルの数字は7時過ぎを表示していた。
「風邪でも引いたの? 大丈夫?」
ああ……なるほど、そんな風に思ったわけだ。それで心配そうなのか。
「違う、そうじゃないよ」
身体を起こし、麻理亜のためにソファーのスペースを空けてやる。
「……行きたくなかったんだ。ただ、それだけのことだよ」
「…………」
正義の答えに対し、麻理亜は言葉を継がなかった。
何も言わず、探るような視線を向けてくる。
正義の方もただ黙ったまま……。ぼんやりと天井を見上げていた。
「どうしちゃったの? 何かあったの、お兄ちゃん?」
しばらくして、遠慮がちな麻理亜の声が耳に届いた。
視線だけを麻理亜の方に向けると、彼女はどこか泣きだしそうな顔をしていた。
「どうして?」
正義は訊き返す。
「どうして、そんなことを訊くんだい?」
「だって、変なんだもの」
「……変? 変って、僕がかい?」
「そうだよ。昨日からなんだか言葉少なだし、雰囲気もかなり暗いよ。それに、お兄ちゃんの顔、ものすごく疲れったって感じの顔になってる。目だって……どこか、死んだ魚の目みたいだし……」
……死んだ魚の目。
白く濁った魚の目、正義はそれを頭の中に思い浮かべる。
死んだ魚の目とは……それはまた、ひどい言われようだな。
でも、そうか……なるほど、自分は今、そんな目をしているのか……。
「それから……目」
また、目か?
「……目を合わせてくれない」
麻理亜はぽつりと言った。
「…………」
「お兄ちゃん、昨日から全然……あたしの目を見てくれないよね。あたしとまともに目が合うのを避けてる……」
そう言う声はどこか哀しげで、それでいて怒っている風でもあった。
どうやら、麻理亜が一番言いたかったのは、そのことらしい。
「どうして、お兄ちゃん? なんで、あたしと目を合わせてくれないの?」
確かに、麻理亜の言う通り……正義は彼女と目を合わせることを避けていた。
現に今も、正義の二つの瞳は、麻理亜の瞳から逃げていた。
「ねえ、答えてよ。どうしてなの、お兄ちゃん?」
「なあ、麻理亜……君はいつまで、ここにいるつもりなんだい?」
麻理亜の問いに答える代わりに、彼女の強い眼差しを避けたまま、正義は逆に質問をぶつけた。
「えっ……」
麻理亜が沈黙する。
沈黙した彼女に、正義は続けた。
「明日までかい? それともあと一週間、二週間? ひと月、半年、一年……」
「やっぱり、お兄ちゃん……あたしに出ていって欲しいんだ……」
「違う!」
強めの語調で、正義は否定した。
「……そうじゃない。そうじゃなくて……逆だよ、麻理亜……。出ていって欲しいんじゃなくて……。僕は、君に……出ていって欲しくないんだよ」
──いつまでも、君に……ここに居て欲しいんだよ。
言って、正義は麻理亜の目を見つめた。
麻理亜は驚いているようだった。
「でも、麻理亜……君はいつかここを出ていくんだろ?」
まるで拗ねた子供のようだ。自分の声がそんな風に聞こえた。
正義は麻理亜から視線を逸らした。
そんな正義の様子に、ややあって、麻理亜は困惑げに口を開く。
「ねえ、ホントにどうしちゃったの? ホントに変だよ、お兄ちゃん?」
……麻理亜の言う通り。正義は本当におかしくなっていた。
明日で、麻理亜がここに来てから十日になる。
自分以外の他人が一緒にいる生活にも、ほんの少しだけ慣れ始めていた。
おかえり、ただいま……それにも初めほどの戸惑いを覚えなくなっていた。ただ、いつも麻理亜の「おかえりなさい」の方が先なところが、まだまだ正義の不慣れ具合をしっかりと物語ってはいたけれど……。
そんな中で、正義は気づいてしまった。
白いコートを胸に、出ていくと言った麻理亜。あの時覚えた奇妙な感覚、正体不明の焦り……。その正体に、正義は気づいてしまった。
なぜ、あの時、あんな風に心が騒めいてしまったのか。
それは、当たり前すぎるくらいに簡単なことだった。
……麻理亜が出ていくと言ったからだ。
〝あたし、出ていくから……〟
彼女のあの言葉が、正義を焦らせたのだ。
……怖かった。また独りに……。
それが……怖かったのだ。
……独りは嫌だ。まるで幼子のような、子供染みた感情。
ただ……それだけのことだった。
あの時はまだ、それに気づいていなかった。けれど、今は……違う。
心の底にあったものは、浮かび上がってきてしまっている。
……正義は自覚してしまった。
そして、心が揺らぎ始めた。
自分がバイトを続けている理由。それは笑顔の練習なんかじゃないのかもしれない。
確かに、初めはそうだった。笑わない人、鉄仮面と言われたことがショックで始めたことだった。
だけど、今は……。笑顔の練習なんて……そんなもの、ただの口実なんじゃないだろうか。
本当は、ただ淋しかっただけで……。
独りきりの部屋に、ずっといるのが嫌だったから……。
……孤独から逃れるために。
誰でもいいから、人との関わりを持っていたくて……。ただ人恋しかったから、バイトを続けていたのかもしれない。
無機質な笑顔を繰り返しながら、自分はいったい、何を求めていたんだろう……。
僕が求めていたものは、いったい……。
自らの求めさえも見えず、心が惑う。
正義は、自分の中で、何かが崩壊していくのを感じ始めていた……。
ソファーから腰を上げ、麻理亜が立ち上がった。
「……お兄ちゃん」
沈黙する正義に、静かに呼びかける。
「そんなに、あたしと離れたくない?」
問われ、正義は麻理亜を見る。
自分を見下ろす二つの瞳は、初めて目にする、今までにない真剣さを宿していた。
いつもの温かみはない。冷たさを湛えた鋭い眼差しが、正義を真っすぐに捕らえている。
「どうなの、お兄ちゃん?」
麻理亜がもう一度問う。
「答えて」
その一言に、催眠術にでも掛ってしまったかのように、ろくに考えもせず、正義は「ああ」と頷いてしまう。
けれど、それは正義の偽らざる気持ちだった。だから、その答えに嘘はなかった。
「そう……」
小さく息を吐くと、麻理亜は瞼を閉じた。
自分を見つめる瞳の呪縛から、一時解き放たれる。
「だったら……一つだけ方法があるよ」
目を閉じたまま、麻理亜は言った。
「あたしとお兄ちゃんが、いつまでも一緒にいられる素敵な方法……」
……いつまでも一緒にいられる。
それが、正義の心にひどく魅力的に響く。
「それって……どんな?」
正義は訊いた。
「すごく簡単なことだよ」
言って、麻理は瞼を開く。
「あたしに、血を吸わせてくれればいいんだよ」
「へっ……」
……血を吸わせてくれ、って。
それって……。
「僕にも……吸血鬼になれってことかい? 君の仲間になれ、と……」
「そうだよ」
麻理亜は事もなげに頷いた。
「そうすれば……楽になれるよ。苦しいんでしょう、お兄ちゃん? とっても辛いんだよね? あたしには、正義さんが何をそんなに悩んでいるのか分からないけど……苦しいんだよね? だったら、吸血になればいいよ。きっと楽になれるから」
「…………」
……苦しいんでしょう?
(……そうだ。苦しい……)
……とっても辛いんだよね?
(……その通りだよ。とっても辛いよ……)
心の中で、正義は麻理亜の問いかけに頷く。
……楽になれるよ。
楽に……なれる……。
……楽になれるから。
麻理亜の言葉が、まるで呪言のように正義の心を揺さぶる。
「ただ、少し不便にはなるけど。昼間、外に出られなくなったり……」
言いながら、麻理亜はトマトジュースの入ったグラスを手に取った。
「食事だって、この赤い液体以外は、ほとんど受け付けなくなっちゃうし……」
その言葉に、正義はテーブルに視線をやった。
テーブルの端の方に、封の破られていないソフトキャンデーが載っている。
それは、夏子さんがオマケにくれたものだった。けれど、せっかくの厚意も、「悪いけど、食べられないから」と麻理亜が言ったきり、そのまま放っておかれていた。
正義も、それを口にする気にはなれなくて……。
……誰にも触れられず、放置されたままのソフトキャンディー。
食べ物だというのに、誰からも食べてもらえなくて……。見向きもされず……必要とされていない。
誰からも……必要とされていない……。
まるで、自分のようだ……。
正義は、ソフトキャンディーと自分を重ね合わせていた。
ただ、そこに在るだけ……。
「……吸血鬼になれば、人としての悩みや苦しみからは解放されるよ」
麻理亜の言葉は続いていた。
……解放。
その単語が、正義の耳朶を打つ。
視線を麻理亜に戻す。
「ねっ、悪くないでしょう?」
……確かに、悪くないかもしれない。
麻理亜の言葉が、甘い誘惑となって正義の心の深部に侵入してくる。
「ああ、そうだ……。それから痛くないから」
「……痛くない?」
「うん。もしかしたら、血を吸われるのって痛いと思ってるかもしれないけど、全然そんなことはないからね。却って、血を吸われるのって気持ちいいものだから」
にっこり微笑みながら、麻理亜が言う。
無邪気な吸血少女の笑み。そこには何ら陰りはない。晴れ晴れとしている。
その笑みがまた、正義を闇の世界の住人へと強く誘う。
吸血鬼になれば……。
自分もこんな風に……麻理亜のように、笑えるようになるんだろうか……。
彼女のような笑顔を、手に入れることができるんだろうか……。
笑顔を取り戻せるのなら……。
(……悪くないかもしれない)
正義は思う。
自分が吸血鬼になったところで、誰かが悲しんだりするわけじゃない。
……自分には家族がいない。
親友といえるような人間もいない。
恋人もいなければ……。護ってやらなきゃいけない……いや、護ってやりたいと思えるほど、大切な人も存在しない。
……誰に遠慮することもない。
(僕には……枷になるものがない)
自分が吸血鬼になることを、邪魔するものが何も見当たらなかった。
そのことが、さらに正義の心の中に空虚を生み出す。
これじゃあ……本当に。
ただそこに在るだけ……の存在じゃないか。
それを強く実感する。
とりあえずの、構成要員。居ても居なくても、同じ……。
……暗闇の泥沼にはまっていく。
これ以上、何を考えたって無駄だ。
考えたって、どんどん闇に沈みこんでいくだけだった。
……闇の世界への道しか示されない。
心は闇へと落ちていく……。
そんな正義の心の動きを読んだかように、さらなる誘いのタイミングで、麻理亜が口を開く。
「あたしは、正義さんが仲間になってくれたら、嬉しいんだけどな。あたし、お兄ちゃんのことは気に入ってるし……」
吸血少女の顔には、少し照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。
「それに……」
麻理亜は言葉を切った。
正義は黙って続きを待った。
「やっぱり、独りは少し淋しいもの……」
*
「どうする、正義さん?」
正義の瞳を真っすぐに見つめ、麻理亜は答えを求めた。