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   *


 ……部屋が明るかった。

「おかえりなさーい!」

 元気いっぱいの声が、正義の耳に飛び込んでくる。

 リビングに足を踏み入れかけて、思わず二の足を踏んでしまう。

 いつもと違い、その空間は光に満たされていた。見慣れた、真っ暗な闇がない。

 ……明かりの点いた部屋。

 ……掛けられた「おかえりなさい」の言葉。

 きっと、世間では当たり前のことなんだろう。けれど、正義にとって、それはほとんど経験をしたことがない非日常だった。

 慣れない状況に、自分が何をすべきなのか、行動に迷ってしまった。

「どうしたの、正義さん?」

 リビングの入口で固まっている正義に、麻理亜が首を傾げる。

「ああ……ただいま」

 忘れかけていた、もう何年も正義の日常会話には存在しなかった言葉を、なんとか思い出す。

 戸惑いつつも、それを吐き出した。

 ただいま……。久し振りに自分の口から零れたその響きに、少し照れ臭さを感じた。

 ただ「ただいま」と言うだけなのに……。

 自分はよほど「当たり前」を苦手としているようだ。正義はそれを実感した。

「ほら、トマトジュース」

 コンビニの袋をテーブルに置く。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 麻理亜はさっそく1本のペットボトルを取り出し、底がほんのり赤く染まったグラスに注いだ。

 そして、たちまち1杯目を飲み干してしまう。相変わらずの良い飲みっぷりだった。

「ねえ、正義さん。どこ行ってたの? 大学って今は休みだよね。まさか、何時間もずっとコンビニに居たわけじゃないよね……」

 2杯目をグラスに注ぎながら、麻理亜が言う。

「あっ! ああ、そうか!」

 何か思いついたらしい。

 ペットボトルをテーブルに置くと、麻理亜はニコニコと正義を見た。

「デートでしょう?」

 ──デートだ、デート!

 麻理亜がはしゃぎ繰り返す。

「ねっ、そうでしょう? 正義さんくらいカッコ良かったら、恋人くらいいるよね」

「違うよ」

 正義は否定した。

「デートなんかじゃないよ。バイトだよ、アルバイト。CD屋のね」

「へっ……バイト……?」

 マンション持ちの正義がバイトをしているなんて、思いも寄らなかったのだろう。

 麻理亜がどこか間の抜けた顔をさらした。

「どうして、バイトなんか……?」

 まあ、当然の疑問と言えるだろうか。

 CD屋のバイト代は、ひと月の一部屋分の家賃収入の半分どころか、4分の1にもならない。

 マンションのオーナーである正義が、CD屋でアルバイトをする理由……。それはもちろん、金銭を求めてのことではない。

「笑顔の練習のためだよ」

 言いながら、正義は麻理亜の隣に腰を下ろした。

 正義の回答に、麻理亜は眉をひそめる。

「……笑顔の練習って、なに? それって冗談?」

「いいや、冗談なんかじゃないよ。別に君をからかっているわけでもないよ」

 正義はソファーの背もたれに身体を預け、天井を見上げた。

「昔、付き合ってた……というか、強引に付き合わされてた、っていう方が正確なのかな。まあ、とにかく昔のカノジョに言われたんだよ。『高梨くんって、笑わない人だよね』って」


「彼女は僕の同級生でね。高校2年の時に告白されたんだ。僕は〝ごめんなさい〟したんだけどね……彼女はなかなか諦めてくれなくて。もし他に好きな人がいないのなら、とりあえず私と付き合って、って……。彼女は、お試し期間の付き合い、とか言ってたかな。

 ほら、あれだよ。『あなたは私のことをよく知らないでしょう? だから、まずは少しだけ私と付き合ってよ。それで嫌なら振ってくれてもいいから』って感じのやつ」

「それで、その人の押しの強さに負けちゃったんだ?」

「まあね」

 で、結局。お試し期間の付き合いとやらが始まった。

 まあ、人並みにデートと呼ばれるものもしたし、一度だけ彼女の家にも招待された。

「でも、付き合いは、ひと月ちょっとしか続かなかったんだ」

「彼女のこと、振っちゃったの?」

「いいや、それが僕の方が振られたんだ」

「えっ……。だって……」

「そうだよな。交際を申し込んできたのは、彼女の方なのに……なぜか、ね。僕みたいに詰まらない奴は嫌いだ、って言ってね……」

 ……3年前の冬。別れの時、彼女に言われた言葉が脳裏に甦る。

〝高梨くんって、冷たい人だよね。ねえ、知ってた? あなたって、私の前で一度も笑ってくれたことがないんだよ〟

 白い息と一緒に、彼女はどこか責めるように言葉を吐き出した。

〝高梨くんって、ホントに笑わない人だよね〟

 そう言う彼女の顔は、ひどく淋しげだった。

 ……声には諦めの響きが滲んでいた。

「……それから、鉄仮面とも言われたっけ。で、最後に『ごめんなさい、私の我がままに無理矢理付き合わせちゃって。でも、本当は私の方が謝ってほしいくらいよ』って言葉をもらって、それで終わり」

「…………」

 麻理亜は何も言わず、正義の話をじっと黙って聞いていた。

「まあ、少しは腹も立ったよ。なんだよそれ、ふざけるな……ってね。でも、振られたこと自体については、正直あまりどうこう思わなかったんだ。たいしてショックを受けたりもしなかったし……。そういう意味じゃ、彼女の言ってたことも間違いじゃなかった、ってことになるのかな。

 ただね、笑わない人、って言われたのはショックだった。彼女に言われて、僕は気づいたんだ。自分は笑わない、いや笑えない人間なんだってね……」


 ……本当にショックだった。

 ……笑えない。笑うことが、できないなんて……。

 正義はどうしようもなく落ち込んだ。

 いつから、自分は笑えなくなってしまったんだろう。

 自分がいつ笑顔を忘れてしまったのか、思い出そうとした。

 けれど、思い出せなかった。

 それくらい、ずっと昔……。ランドセルを背負っていた頃はもう、自分は笑顔を忘れてしまっていたのかもしれない。

 振られて以来、その冬の間中、正義は深く長い落ち込みの中にいた。そして、そんな中で一つの笑みを取り戻す。

 我知らず……零れていた笑みがあった。

 でも、それは自嘲まじりの苦い笑みだった。それが唯一、正義が取り戻せたものだった……。

「だから、笑うことを……笑顔を取り戻そうと思って、バイトを始めたんだ……」

「それで、笑顔を取り戻せてきているの?」

 麻理亜が訊いてくる。

 彼女の瞳が、心配げに正義を見ている。

「いいや、全然ダメ」

 正義は首を横に振った。

「笑顔といっても、愛想笑いが上手くなるばかりで……全然。ただ虚しい努力、ってやつだけが続いてるよ」

「…………」

 正義の答えに何を思っただろう。

 麻理亜は何も言ってこなかった。

 きっと、あまりの馬鹿さ加減に呆れていることだろう。

 ……笑顔を取り戻すため。笑顔の練習をするためにバイトをしている。そんな馬鹿げたことをしている人間は、自分の他にはいないだろう。

 いろいろとバイトを変えてもみた。けれど、どれもダメだった。あれから3年あまりが経っても、未だ笑顔を取り戻せていない。

 ただ笑う。それだけのことが出来ないなんて……。

「やっぱり、僕は……彼女が言ってたみたいに、冷たい人間なのかもしれないな……」

 自嘲気味に言うと、

「そんなことない!」

 ──そんなことないよ!

 麻理亜が正義の方へ身体を乗り出してきた。

「正義さんは冷たくなんてないよ。お兄ちゃんは優しい人だよ」

「麻理亜……」

「だって、あたしのこと……得体の知れない見ず知らずのあたしを、ここに置いてくれてるし。それに……」

 麻理亜は、テーブルの上のペットボトルを取り上げた。

「こうやって、ジュースだって買ってきてくれてるじゃない。こんなこと、普通、冷たい人にはできないよ。だから、正義さんは優しい人だよ、絶対!」

「別にそれくらいのこと……」

「それくらいのことじゃないよ! 自分のこと、そんなに卑下しちゃダメだよ」

 やけにムキになって、麻理亜は言い募る。

 でも、子供らしいというべきか。言っていることの根拠は弱かった。

「いい? 正義さんは絶対に優しい人だよ。あたしが保証してあげる! 少なくとも、あたしは正義さんのこと、優しい人だと思ってるから。それとも、あたしみたいな子供の保証じゃ、ダメ?」

 慰めてくれているんだろうか。それとも、100パーセント本気の言葉なのか。

 麻理亜は「優しい人」を繰り返す。

 たぶん……それは、素直な子供の言葉で。本気でそう思ってくれているんだろう。

 しかし、それを受け取る方の正義に、その素直さはなかった。

 ……信じられなかった。

 正義の耳には、ただの慰めとしか聞こえなかった。麻理亜の言葉は心にまで届かない……。

「鉄仮面に……吸血鬼の保証か……」

 などと、詰まらないことを呟いてしまう。

「だから、そんなこと言っちゃダメだって、言ってるでしょう!」

 麻理亜が怒ったように正義を睨む。

 その表情で、彼女がどれくらい本気で自分のことを心配してくれているのか、それが正義にも分かった。

「だいたい、正義さんのことを鉄仮面だなんて言った人には、見る目がなかったのよ。お兄ちゃんは鉄仮面なんかじゃないんだから。それに、『私の方が謝ってほしい』なんて変だよ。もしかしたら、その人って、友達と賭けでもしてたんじゃないの。正義さんをその気にさせたら、いくら……みたいな。でも、失敗して掛けに負けちゃったから……」

「おい、麻理亜!」

 いったい何を言い出すのか。

 おかしな方向に逸れだした話に、正義は麻理亜の言葉を遮り、背もたれから身体を起こした。

「そんなこと言うもんじゃない!」

 思わず、叱りつけるように言ってしまった。

 実際、叱る意味もあった。けれど、本音は、麻理亜の口から他人を貶すような言葉を聞きたくなかったのだ。人のことを悪く言う彼女の姿なんて見たくなかった。

 それに……。正義は今もはっきりと覚えてる。別れ際に彼女が見せた、哀しげな微笑と涙を……。

 ……彼女は傷ついていた。

 そして、彼女を傷つけたのは……。

 だから。

「調子に乗るな!」

 きつい言葉を、麻理亜にぶつけてしまった。

「……ごめんなさい」

 麻理亜がしゅんと項垂れる。夏場の萎れた花のように、元気を失くしてしまった。

 そんな彼女の様子に、正義は狼狽える。

 怒鳴ってしまったことをすぐに悔やむ。

「あ、こ、こっちこそ……ごめん。怒鳴ったりして、悪かったよ」

 せっかく、自分のことを心配してくれたっていうのに……。

 ……僕は馬鹿だ。

「あの、麻理亜……」

 呼びかけたけれど、麻理亜は俯いたまま顔を上げない。もしかして、泣いていたりするんだろうか……。

「……ありがとな」

 麻理亜の頭を撫でてやり、正義はぼそりと言った。

 バイトでお客に向かって言う「ありがとうございます」よりも雑な言葉。

 でも、ありがとな……その言葉にはちゃんと気持ちがこもっていた。

 ……新鮮な驚きだった。自分にも、心のこもった「ありがとう」が言えるなんて。

 その感謝の気持ちが、麻理亜にもちゃんと伝わったのかもしれない。

 彼女が顔を上げた。

「ありがとう、麻理亜」

 と、正義はもう一度、今度は彼女の目を見てきちんと口にした。

 一瞬遅れで、麻理亜が破顔する。

 その微笑みは、何か癒されるもののある、無邪気な天使の微笑だった。

 だけど。正義の方は……。

 麻理亜の微笑みに、上手く微笑みを返してやることができなかった……。


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