05
【3】
目覚めた時。窓の外はまだ闇が支配する世界だった。
サイドテーブルの置時計を見る。
まだ5時にもなっていなかった。時計の針がその時刻を指し示すまでには、あと十数分の余裕があった。
……静かだった。
鳥たちの鳴き声も聞こえない。雀や烏たちも、まだお休み中のようだ。
正義はベッドから身体を起こした。
部屋を出て、リビングへと向かう。
テレビの画面に砂嵐が発生していた。
テーブルの上、ペットボトルの中には、赤い液体はほとんど残っていなかった。
麻理亜はよく眠っていた。猫のように丸まって、ソファーですやすやと寝息を立てている。
……邪気のない、あどけない寝顔。
それを眺めていたら、なにか穏やかなものが心に生まれた。
不思議と心が満たされていく。
少女の寝顔の安らかさが、正義にも移っていた。なんだろう、心が少し軽くなったような気がした。
よく言われるように、子供の寝顔には本当に天使の魔法が宿っているのかもしれない。
あたたかな、やさしげな何かが、自分の中で広がっていく。静かに、ゆっくりと……。
なぜだろう……なんとなく、懐かしさを感じた。
「おい、麻理亜」
呼びかけてみるけど、麻理亜は目を覚まさなかった。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
言ってから、正義は疑問に思う。
吸血鬼も風邪なんて引くんだろうか?
身体を揺すってみても、彼女が起きだす気配はなかった。
……だめだな、これは。
麻理亜を起こすことを諦める。
「……仕方ないな」
ため息まじりに呟いて、正義は麻理亜をソファーから抱え上げた。
思っていたよりも、その華奢な身体は少しだけ重かった。
お姫さま抱っこというやつで、正義は麻理亜を自室のベッドへと運ぶ。
さっきまで自分が眠っていたベッドに彼女を寝かせると、布団を掛けてやり、雨戸をしっかりと閉めた。
これで大丈夫だろう。この部屋に太陽の光が射し込むことはない。
「……おやすみ」
どこか遠慮気味にそう言うと、正義は静かに部屋をあとにした。
*
これで何度目だろう。
「ありがとうございました」
虚しい笑顔を作る。
大嘘な言葉。まったく感謝の気持ちなんてものはない。なのに……。
……アリガトウゴザイマシタ。
正義はマニュアル通りの言葉を繰り返す。
……マタドウゾ。
まるで呪文のような。またどうぞ……唱えているうちに、お客に呪いを掛けているような気分になってくる。
「またどうぞ」
心のこもらない空っぽの言葉。そして、ただ顔の筋肉を弛緩させただけの、すっかり上手くなった作り物の愛想笑い。
ホンモノなんて、これっぽっちもない。
……空っぽだった。
そこには、1パーセントの思いさえない。
週4日、午後2時から6時まで、駅前のCDショップで正義は機械化する。
心もなく、ただ決められた仕事をこなすだけの機械。それなのに……店長はニコニコとしながら言う。
〝高梨くんは格好いいからね。結構キミ目当ての女の子のお客さんも多いんだよ〟
──女の子たちによると、キミの笑顔は「クールでとってもステキ!」なんだってさ。
いったい、店長は何を言っているんだろう。
なんとも馬鹿げたことを言うものだ。
自分の笑顔のどこが、素敵だというのだろう。
機械の微笑、空っぽの愛想笑い。ただの顔の筋肉の弛緩動作。そんなもの、そんな空虚な笑顔のどこに魅力があるというのか?
店長曰くの「キミのファン」とやらが、どれくらいいるのかは分からない。けれど、その女の子たちは見る目がないと思う。
自分の笑顔が素敵だなんて、その目は絶対に節穴だ。
目の前にやってきた制服姿の女子高生が、レジカウンターに2枚のCDを置いた。
「いらっしゃいませ」
……また愛想笑い。そして、置かれたCDを手に取る。
どうやら、この娘もらしい。正義の笑顔に、少女の顔が仄かに赤く染まった。
ちらり、腕時計を見る。時計の針は、5時27分を指していた。
6時まで、あと残り30分ちょっと。
その間にあと何回、愛想笑いを繰り返すことになるのだろう。
なんだか少し、気分が滅入ってきた。
はぁ……。正義は、心の中でこっそりとため息を吐いた。
「いらっしゃいませ!」
自動ドアが開くと同時に耳に飛び込んできた声は、通りの良い男性の高音ボイスだった。
レジカウンターの向こうにいたのは、スポーツ刈りの青年だった。店内に、昨夜の「夏子さん」の姿はなかった。
買い物カゴ片手に、正義はレジの前を通り過ぎる。
脇目も振らず、ドリンクコーナーへと向かう。
それは、しっかりそこにあった。
1本、2本、3本、4本。連続で、トマトジュースの真っ赤なペットボトルをカゴに放り込む。
そして、5本目を手にとって……一瞬迷ったけれど、それもそのままカゴに入れる。
くすり、微かに笑い声が聞こえた。
くすくす……。おかしさ8割に、嘲笑が2割といったところだろうか。自分の無機質な笑いとは違う。声のある、感情のある笑いだった。
声のした方を見ると、商品整理中の女性店員が口に手を当てていた。
店に入ってくるなり、速攻でトマトジュースばかりカゴに放り込む男。
……まあ、確かに変な客かもしれない。おかしみを誘う要素もありそうだ。
女性店員と目が合う。
すると、彼女はばつが悪そうに視線を逸らし、あたふたと弁当などを並べ始めた。
……笑われてしまった。
けれど。だからといって、別に腹が立ったりはしなかった。
ただ少しだけ、羨ましかった。
あんな風に素直に笑える人が、正義にはとても羨ましく思えたのだった……。