表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/17

04


   *


 気のせいか、見慣れた天井がいつもとどこか違って見えた。

 自室のベッドの上。着替えもせずに、正義はごろりと寝転がっている。

 ドアの向こうから、微かに何かの音楽が聞こえてくる。きっと、麻理亜がテレビでも見ているのだろう。夜行性(?)の吸血鬼嬢は、リビングでまだグラスを傾けている。

『お休みなさーい!』

 自室に向かう正義に、麻理亜はそう言ってにっこりと笑った。

〝──おやすみなさい〟

 そんなことを言われたのは、一体どれくらい振りだろう。考えてみたけれど、分からなかった。思い出すには、それはもう遠すぎる記憶だったようだ。

 正義の父親が裁判中に倒れ、そのまま息を引き取ったのは、去年の夏のことだった。

 過労死……。その言葉が虚しく響く。

 働き過ぎ。いや、働き好きとでも言った方がいいか。正義の父親は、いつも本当に忙しそうにしていた。

 会話のない日どころか、父親と顔を合わすことさえもない。そんな日々がひと月以上続くことも珍しくなかった。

 いつでも、依頼人が第一の人だった。父親にとっての最優先は、依頼人の弁護で。家族のことは二の次どころか、十の次か二十の次か、何の次に来るのか分からないくらい、いつも放っておかれていた。

 正義のことなんて、まるで存在していないかのように……。いや、父親の意識の中では、本当に息子なんて存在していなかったんじゃないだろうか。半ば本気で、正義はそう思っていた。

 休日に父親とどこかに出掛けた記憶なんて、これっぽっちもない。

 そして、もう一人……。放っておかれたのは、正義だけではなかった。

 結果……。息子のランドセル姿を見ることもなく、正義の小学校入学を目前に、母親は家を出て行ってしまった。

 ……正義を独り残して。

 彼が6歳の時。両親は離婚した。

 あの人は、僕のことをどんな風に思っていたんだろう。

 父親が死んでから、時々、正義はそんなこと考えてしまう。

 父親が生きている時は、思いもしなかったのに……。なぜだろう、今は不思議と考えてしまう。

 逆に、正義の方はどうだったのかと訊かれれば、弁護士としての父親をそれなりに尊敬する気持ちもあった、とは思う。けれど、それ以上のことは答えられない。答えようがなかった。

 何かを答えられるほど、自分と父親の間には接触がなかった。好きだったのか、嫌いだったのか、それすら分からない。

 ただ、正義は家が好きではなかった。

 それだけは、はっきりと言える。

 両親のいない家。妙に生活感のない、静かな広い家。あそこは、どこか外界とは切り離された異空間のようだった。

 ゴキブリさえも棲まないような家──。

 だから、処分した。広い庭付きの一戸建て、19年間を過ごしてきた家を、正義は何の躊躇もなく売り払ってしまった。相続税対策の名目で。

 そして、父親の持ち物の一つだった、このマンションへ移った……。



「きゃはははっ!」

 隣のリビングで笑いが弾けた。

 その元気な声で、正義の暗い思考は破られた。

 何がそんなにおかしいのか。麻理亜の笑い声は本当に楽しそうだった。

 その笑い声を聞きながら、思う。

 物心がついてから、あの半分の声でも上げて笑ったことがあるだろうか。

 たぶん……。いや、きっと……ないだろう。

「あははははっ!」

 楽しげな笑いは、一向に止む様子がなかった。

 少しは静かにしようとか、思わないんだろうか。どうやら、彼女の辞書には遠慮なんていう言葉は載っていないらしい。

 笑い声以外にも、時折、テレビに向かってなのだろう、麻理亜が何かを言っている声も聞こえてきた。

 うるさい、と思う気持ちはあった。

 けれど、それを嫌だとは思わなかった。

 どこか、ほっとする。うるさいと感じる声で、なぜ寛いだ穏やかな心持ちになれるのだろう。不思議だった。

 変だった。……おかしい。

 でも。そんなこと、どうでもいいや……。

 そう思えた。ここは素直に、この心地好さを享受しよう。

 ……瞼がだんだんと重くなってくる。

 記憶や思考、様々な思い……。

 そんな正義の心を乱すモノ、煩わしいモノが、少しずつ自分の中から消えてゆく。

 正義を包む世界が闇に覆われる。

 ……まるで、子守歌のよう。

 麻理亜の楽しげな声を聞きながら、正義は深い眠りの淵へと落ちていった……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ