03
【2】
二つの足音が、夜の静寂に対照的なリズムを刻んでいる。
一つは、単調で無味乾燥な詰まらないリズム。
もう一つは、でたらめではあるけれど、いかにも楽しげな鼻歌的リズム。
もちろん、無味乾燥な方が正義のもので、楽しげな方が麻理亜のものだった。
彼女の歩くリズムに合わせ、ランドセルの金具がカタカタと音を立てる。
だぶだぶのブルゾンを着た麻理亜は、トマトジュースを胸に満面のニコニコ顔だった。
本当に……この娘は吸血鬼なんだろうか。
未だ、正義の心は半信半疑だった。いや、一信九疑、九割がたは疑っている。
常識的に考えるならば、吸血鬼なんているわけがない。そんなことで悩むなんて、あまりにも馬鹿げている。
けれど、正義は否定できなかった。
嘘を吐くな。どうしてか、その一言が麻理亜に向けて言えなかった。
……なぜだろう。
どうして。ブルゾンなんて、掛けてやったりしたんだろう。
どうして。名前なんて訊いてしまったんだろう。
どうして。この娘は今、自分の隣を歩いているんだろう。
どう見たって、吸血鬼になんて見えないのに……。どうして……。
いったい何を……。自分は何を……信じようとしているんだろう。
正義は足を止めてしまった。
もう一つの足音も止まり、聖母様と同じ名前を持つ少女が正義の顔を見上げる。
「どうしたの、正義さん?」
やや舌足らずな甘い声が、訊く。
正義──と書いて、まさよし。弁護士だった人間が自分の息子に付けた名前。いかにも、法曹家らしいネーミングセンスだ。
正義。そう呼ばれるのは久し振りだった。
なんだか照れ臭いような。少し苛立たしいような。
近頃、正義は自分の気持ちが分からなくなることが多い。
散らかし放題で、片づけられていない子供部屋のよう。怒りや哀しみ。自分の中にあるのかどうか分からない、喜びや楽しみ。それらの感情の境界線がどこか曖昧だった。
どこか混沌としている。ただ乱雑でグチャグチャな、不規則な心。それをさらに、正体不明のベールが覆っている。
……見えないココロ。自分の心が見えなかった。
「ねえ、正義さん?」
もう一度、名前を呼ばれた。
心の奥に、チクリと何か小さなモノが刺さり、微かな痛みを覚えた。
それで、一つだけ解った。
自分は、父親がつけてくれた立派すぎるその名前が、あまり好きではないらしい。
「……何でもないよ」
──さあ、行こう。
正義は再び歩き出した。
そして、歩きながら麻理亜に訊ねた。
「なあ、麻理亜。もし僕が独り暮らしじゃなかったら、君はどうするつもりだったんだい? 僕が家族と一緒に暮らしているとは、思わなかったのかい?」
「うん、思わなかったよ。だって、正義さんって、独り暮らしって感じのオーラが出てたもの。それに……」
「それに?」
「牛乳だよ。正義さんが買ってた牛乳、500ミリリットルだったでしょう。もし一緒に住んでる家族がいたら、おっきな1リットルのパックを買うんじゃないかな、と思って。だから」
「……なるほど」
根拠としてはかなり弱い気もするけれど、一応はきちんと観察していたらしい。
「ねっ、なかなかの観察眼でしょう?」
背筋を伸ばし、得意げに麻理亜が言った。
そのちょっぴり生意気げな態度が、正義の目には愛らしく映る。
そうだね、と頷き、ぽんぽんと麻理亜の頭を軽く叩いてやった。
すると、一転。今度は、むぅ……と麻理亜は不機嫌そうに唇をすぼめた。
どうやら、子供扱いをされたのがご不満らしい。なんとも難しい年頃である。吸血鬼とはいえど、その辺はごく普通の同年代の少女たちと変わりはないようだ。
しばらくすると、煉瓦色の壁が正義たちの右手に現われた。
少しずつ、その赤茶色が明度を増していく。
蛍光灯の人工的な明かりが、正義と麻理亜の姿を照らし出した。
8階建てのマンションの前で、正義は立ち止まる。
自動ドアの向こう、広いエントランスの先には、エレベーターが見えている。
「こ……ここなの!?」
闇の中に浮かぶシルエットを見上げ、麻理亜が驚いた様子で訊いた。
「そうだよ」
「へぇー……。すごく立派なところだね」
麻理亜が感嘆の声を上げる。
「でも……。ここってお家賃、ものすごく高そうだよ」
つまり、正義には釣り合わないと言っているのだろう。まあ、当然の反応だと思う。
確かに、目の前のマンションは、一介の大学生の下宿としては贅沢に映ることだろう。
実際、ここの賃貸料は、どの部屋も5桁の金額では済まない。6桁数字の世界だった。
「まあね……。でも、ぼくは無料だから」
「えっ……」
と、麻理亜が、見上げていたマンションから正義の方へ振り向く。
なんで? 見開かれた彼女の目が、思いっきりそう訊ねていた。
正義はマンションを指さして、言った。
「実はコレ、僕の持ち物なんだよ」
「…………」
正義のびっくり発言に、麻理亜の瞳はさらに大きくなった。
801号室。
正義の部屋はマンションの最上階、8階の角部屋だった。
4LDK。十分な広さ。どころか、そこは独りで暮らすには広すぎる空間だった。
「お邪魔しまーす!」
脱いだ靴も揃えず、麻理亜は勢いよく室内に飛び込む。一頻り、キョロキョロした後、リビングのソファーに落ち着いた。
ランドセルを自分の脇に置く。そして、麻理亜は、手にしたペットボトルのキャップを開けた。
なっ……。まだ飲むつもりなのか!?
さっき、あれだけ飲んだくせに。この娘は化物か……って、吸血鬼なんだから、まあ、化物といえば化物か……。
またラッパ飲みを始めそうな麻理亜の様子に、「待て」と正義は制止の声を掛ける。
ダイニングを経てキッチンに向かい、グラスを片手にリビングへと引き返す。
「ほら、これを使って」
正義は、テーブルにグラスを置いた。
トマトジュースの豪快な一気飲みの図。あんな気持ちの悪いもの、もう見たくはなかった。
「ありがとう、正義さん」
言って、麻理亜はグラスにトマトジュースを注いだ。
赤い液体が、グラスに満たされていく。
それを横目に見、正義はコンビニ袋からおにぎりを取り出す。
グラスを両手で包むように持ち、麻理亜はそれに口をつける。二口、三口飲んで、彼女はグラスから唇を離した。
ランドセルを挟み隣に腰を下ろした正義に向けて、麻理亜は嬉しそうに笑う。
唇の赤みが強くなっている。濃い赤。トマトジュースの色に染まった唇は、まるでルージュを引いたようだった。
そのせいか、可愛らしい子供の笑みの中に、正義は大人の表情を見たような気がした。
だからだろうか、口が動いた。
「あのさ、麻理亜」
少女に呼びかけ、訊く。
「怖くないのかい?」
「……ん? 何が?」
グラスを持ったまま、麻理亜はちょこんと首を傾げた。
「あのね、一応、君も女の子だろう。そして、僕は男。で、今ここで君は、見知らぬ男と二人きりでいるんだよ。心配じゃないの?」
「心配って、何の?」
はてさて、惚けているのか。それとも、ただ単にお子様なだけか。はたまた、呑気な性格なのか。間延びした声で麻理亜が言う。
「だから、僕が君に何かしないか心配じゃないの? もしかしたら僕に襲われるんじゃないか、とか思わないわけ?」
正義の言葉に、麻理亜がきょとんとする。
数瞬後。笑いが弾けた。
グラスの中の液体が少し、テーブルに零れた。
「あははははっ! 正義さんって、そういう趣味の人なの? ちょっと意外ー!」
麻理亜の笑いはなかなか収まらなかった。なにやら大ウケしている。
今度は、正義の方が呆気にとられてしまう。
けれど。ややあって、〈趣味〉の意味を悟り、正義は顔が赤くなるを感じた。
「ち、違う! そうじゃない! 僕にはそんな趣味はないから!」
「…………。なぁーんだ……違うのか。だったら、紛らわしいこと言わないでよ。変なことを訊くから、あたしはてっきり、正義さんがロリコンなのかなー、って」
「…………」
正義は脱力した。半分は呆れと疲れのため。
もう半分は、安堵のため。
今のやりとりで、さっきの公園での麻理亜の言葉、「お兄ちゃんの言うこと、何でもきいてあげるから」の中身が知れた。
きっと、「何でも」というのは、お掃除や皿洗い、肩叩きといったような、子供のお手伝い的なことを指していたんだろう。
それが分かり、正義はほっとした。
「ねえ、正義さん」
今度は、麻理亜の方から呼びかけてきた。
「お兄ちゃんの方こそ、怖くないの?」
「えっ……」
……何が怖いというのだろう?
訊かれた意味が分からなかった。
「あのね、正義さん」
麻理亜の口調が、諭すようなものに変わる。
そして、言ったことは。
「正義さんは今、あたしと二人っきりでいるんだよ」
なぜか、正義と麻理亜の立場は引っ繰り返ってしまっていた。展開が逆になっている。
麻理亜が大きくため息を吐く。
彼女はどこか怒っているように見えた。いや、呆れているといった方が正しいだろうか。
「正義さん。あたしは一体なぁーんだ?」
人を小馬鹿にしたような口調で、なぞなぞでも出す風に、麻理亜が正義に訊いた。
なぁーんだ?……って、何だ?
………………………………あ。
ああ……。
「吸血鬼……」
「ぴんぽんぴんぽん!」
なるほど、そういうことか……。
麻理亜の言うとおり。怖がらなければいけないのは、正義の方だったみたいだ。
彼女は吸血鬼で……。自分はごく普通の人間だった。なら、当然、強者は……。
赤いランドセルと麻理亜の華奢な見た目に、正義はそのことを失念していた。
「それで、正義さん。お兄ちゃんはあたしのこと、怖くないの?」
正義は少し考えて答えた。
「……ちっとも。だって、こんなに可愛い娘。とてもじゃないけど、怖いなんて思えないよ」
しかし……。正義の精一杯の言葉に対し、麻理亜からのお返しは……。
「正義さんって……やっぱりロリコン?」
というものだった。