表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/17

03


    【2】


 二つの足音が、夜の静寂しじまに対照的なリズムを刻んでいる。

 一つは、単調で無味乾燥な詰まらないリズム。

 もう一つは、でたらめではあるけれど、いかにも楽しげな鼻歌的リズム。

 もちろん、無味乾燥な方が正義のもので、楽しげな方が麻理亜のものだった。

 彼女の歩くリズムに合わせ、ランドセルの金具がカタカタと音を立てる。

 だぶだぶのブルゾンを着た麻理亜は、トマトジュースを胸に満面のニコニコ顔だった。

 本当に……この娘は吸血鬼なんだろうか。

 未だ、正義の心は半信半疑だった。いや、一信九疑、九割がたは疑っている。

 常識的に考えるならば、吸血鬼なんているわけがない。そんなことで悩むなんて、あまりにも馬鹿げている。

 けれど、正義は否定できなかった。

 嘘を吐くな。どうしてか、その一言が麻理亜に向けて言えなかった。

 ……なぜだろう。

 どうして。ブルゾンなんて、掛けてやったりしたんだろう。

 どうして。名前なんて訊いてしまったんだろう。

 どうして。この娘は今、自分の隣を歩いているんだろう。

 どう見たって、吸血鬼になんて見えないのに……。どうして……。

 いったい何を……。自分は何を……信じようとしているんだろう。

 正義は足を止めてしまった。

 もう一つの足音も止まり、聖母様と同じ名前を持つ少女が正義の顔を見上げる。

「どうしたの、正義さん?」

 やや舌足らずな甘い声が、訊く。

 正義──と書いて、まさよし。弁護士だった人間が自分の息子に付けた名前。いかにも、法曹家らしいネーミングセンスだ。

 正義。そう呼ばれるのは久し振りだった。

 なんだか照れ臭いような。少し苛立たしいような。

 近頃、正義は自分の気持ちが分からなくなることが多い。

 散らかし放題で、片づけられていない子供部屋のよう。怒りや哀しみ。自分の中にあるのかどうか分からない、喜びや楽しみ。それらの感情の境界線がどこか曖昧だった。

 どこか混沌としている。ただ乱雑でグチャグチャな、不規則な心。それをさらに、正体不明のベールが覆っている。

 ……見えないココロ。自分の心が見えなかった。

「ねえ、正義さん?」

 もう一度、名前を呼ばれた。

 心の奥に、チクリと何か小さなモノが刺さり、微かな痛みを覚えた。

 それで、一つだけ解った。

 自分は、父親がつけてくれた立派すぎるその名前が、あまり好きではないらしい。

「……何でもないよ」

 ──さあ、行こう。

 正義は再び歩き出した。

 そして、歩きながら麻理亜に訊ねた。

「なあ、麻理亜。もし僕が独り暮らしじゃなかったら、君はどうするつもりだったんだい? 僕が家族と一緒に暮らしているとは、思わなかったのかい?」

「うん、思わなかったよ。だって、正義さんって、独り暮らしって感じのオーラが出てたもの。それに……」

「それに?」

「牛乳だよ。正義さんが買ってた牛乳、500ミリリットルだったでしょう。もし一緒に住んでる家族がいたら、おっきな1リットルのパックを買うんじゃないかな、と思って。だから」

「……なるほど」

 根拠としてはかなり弱い気もするけれど、一応はきちんと観察していたらしい。

「ねっ、なかなかの観察眼でしょう?」

 背筋を伸ばし、得意げに麻理亜が言った。

 そのちょっぴり生意気げな態度が、正義の目には愛らしく映る。

 そうだね、と頷き、ぽんぽんと麻理亜の頭を軽く叩いてやった。

 すると、一転。今度は、むぅ……と麻理亜は不機嫌そうに唇をすぼめた。

 どうやら、子供扱いをされたのがご不満らしい。なんとも難しい年頃である。吸血鬼とはいえど、その辺はごく普通の同年代の少女たちと変わりはないようだ。

 しばらくすると、煉瓦色の壁が正義たちの右手に現われた。

 少しずつ、その赤茶色が明度を増していく。

 蛍光灯の人工的な明かりが、正義と麻理亜の姿を照らし出した。

 8階建てのマンションの前で、正義は立ち止まる。

 自動ドアの向こう、広いエントランスの先には、エレベーターが見えている。

「こ……ここなの!?」

 闇の中に浮かぶシルエットを見上げ、麻理亜が驚いた様子で訊いた。

「そうだよ」

「へぇー……。すごく立派なところだね」

 麻理亜が感嘆の声を上げる。

「でも……。ここってお家賃、ものすごく高そうだよ」

 つまり、正義には釣り合わないと言っているのだろう。まあ、当然の反応だと思う。

 確かに、目の前のマンションは、一介の大学生の下宿としては贅沢に映ることだろう。

 実際、ここの賃貸料は、どの部屋も5桁の金額では済まない。6桁数字の世界だった。

「まあね……。でも、ぼくは無料ただだから」

「えっ……」

 と、麻理亜が、見上げていたマンションから正義の方へ振り向く。

 なんで? 見開かれた彼女の目が、思いっきりそう訊ねていた。

 正義はマンションを指さして、言った。

「実はコレ、僕の持ち物なんだよ」

「…………」

 正義のびっくり発言に、麻理亜の瞳はさらに大きくなった。



 801号室。

 正義の部屋はマンションの最上階、8階の角部屋だった。

 4LDK。十分な広さ。どころか、そこは独りで暮らすには広すぎる空間だった。

「お邪魔しまーす!」

 脱いだ靴も揃えず、麻理亜は勢いよく室内に飛び込む。一頻り、キョロキョロした後、リビングのソファーに落ち着いた。

 ランドセルを自分の脇に置く。そして、麻理亜は、手にしたペットボトルのキャップを開けた。

 なっ……。まだ飲むつもりなのか!?

 さっき、あれだけ飲んだくせに。この娘は化物か……って、吸血鬼なんだから、まあ、化物といえば化物か……。

 またラッパ飲みを始めそうな麻理亜の様子に、「待て」と正義は制止の声を掛ける。

 ダイニングを経てキッチンに向かい、グラスを片手にリビングへと引き返す。

「ほら、これを使って」

 正義は、テーブルにグラスを置いた。

 トマトジュースの豪快な一気飲みの図。あんな気持ちの悪いもの、もう見たくはなかった。

「ありがとう、正義さん」

 言って、麻理亜はグラスにトマトジュースを注いだ。

 赤い液体が、グラスに満たされていく。

 それを横目に見、正義はコンビニ袋からおにぎりを取り出す。

 グラスを両手で包むように持ち、麻理亜はそれに口をつける。二口、三口飲んで、彼女はグラスから唇を離した。

 ランドセルを挟み隣に腰を下ろした正義に向けて、麻理亜は嬉しそうに笑う。

 唇の赤みが強くなっている。濃い赤。トマトジュースの色に染まった唇は、まるでルージュを引いたようだった。

 そのせいか、可愛らしい子供の笑みの中に、正義は大人の表情を見たような気がした。

 だからだろうか、口が動いた。

「あのさ、麻理亜」

 少女に呼びかけ、訊く。

「怖くないのかい?」

「……ん? 何が?」

 グラスを持ったまま、麻理亜はちょこんと首を傾げた。

「あのね、一応、君も女の子だろう。そして、僕は男。で、今ここで君は、見知らぬ男と二人きりでいるんだよ。心配じゃないの?」

「心配って、何の?」

 はてさて、惚けているのか。それとも、ただ単にお子様なだけか。はたまた、呑気な性格なのか。間延びした声で麻理亜が言う。

「だから、僕が君に何かしないか心配じゃないの? もしかしたら僕に襲われるんじゃないか、とか思わないわけ?」

 正義の言葉に、麻理亜がきょとんとする。

 数瞬後。笑いが弾けた。

 グラスの中の液体が少し、テーブルに零れた。

「あははははっ! 正義さんって、そういう趣味の人なの? ちょっと意外ー!」

 麻理亜の笑いはなかなか収まらなかった。なにやら大ウケしている。

 今度は、正義の方が呆気にとられてしまう。

 けれど。ややあって、〈趣味〉の意味を悟り、正義は顔が赤くなるを感じた。

「ち、違う! そうじゃない! 僕にはそんな趣味はないから!」

「…………。なぁーんだ……違うのか。だったら、紛らわしいこと言わないでよ。変なことを訊くから、あたしはてっきり、正義さんがロリコンなのかなー、って」

「…………」

 正義は脱力した。半分は呆れと疲れのため。

 もう半分は、安堵のため。

 今のやりとりで、さっきの公園での麻理亜の言葉、「お兄ちゃんの言うこと、何でもきいてあげるから」の中身が知れた。

 きっと、「何でも」というのは、お掃除や皿洗い、肩叩きといったような、子供のお手伝い的なことを指していたんだろう。

 それが分かり、正義はほっとした。

「ねえ、正義さん」

 今度は、麻理亜の方から呼びかけてきた。

「お兄ちゃんの方こそ、怖くないの?」

「えっ……」

 ……何が怖いというのだろう?

 訊かれた意味が分からなかった。

「あのね、正義さん」

 麻理亜の口調が、諭すようなものに変わる。

 そして、言ったことは。

「正義さんは今、あたしと二人っきりでいるんだよ」

 なぜか、正義と麻理亜の立場は引っ繰り返ってしまっていた。展開が逆になっている。

 麻理亜が大きくため息を吐く。

 彼女はどこか怒っているように見えた。いや、呆れているといった方が正しいだろうか。

「正義さん。あたしは一体なぁーんだ?」

 人を小馬鹿にしたような口調で、なぞなぞでも出す風に、麻理亜が正義に訊いた。

 なぁーんだ?……って、何だ?

 ………………………………あ。

 ああ……。

「吸血鬼……」

「ぴんぽんぴんぽん!」

 なるほど、そういうことか……。

 麻理亜の言うとおり。怖がらなければいけないのは、正義の方だったみたいだ。

 彼女は吸血鬼で……。自分はごく普通の人間だった。なら、当然、強者は……。

 赤いランドセルと麻理亜の華奢な見た目に、正義はそのことを失念していた。

「それで、正義さん。お兄ちゃんはあたしのこと、怖くないの?」

 正義は少し考えて答えた。

「……ちっとも。だって、こんなに可愛い娘。とてもじゃないけど、怖いなんて思えないよ」

 しかし……。正義の精一杯の言葉に対し、麻理亜からのお返しは……。

「正義さんって……やっぱりロリコン?」

 というものだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ