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   *


「ほら」

 2本の真っ赤なペットボトル。トマトジュースを、少女の方へ差し出す。

「えっ……いいの?」

 怒りの言葉か、文句の一つでも飛んでくるものと想像していたのだろう。

 正義の行動に驚いたらしく、少女の瞳が少しだけ大きくなった。

 何を今更……。態とらしい、そう思ったものの、正義はそれを口に出すことはしなかった。

 代わりに、「ああ、いいよ」とお人好しのお兄さんになって頷く。

「あげるよ」

 持って帰ったとしても、どうせこんなものは飲まない。理由は簡単、正義はトマトが苦手なのだ。

 だからといって、捨てるのも勿体ない。

 だったら、真っ赤なペットボトルの行き先は少女の許しかないだろう。

 それに。遅ればせながら、正義は自分の置かれた状況の危うさに気づいていた。

 時は、冬の真夜中……。

 場所は、人気のない淋しい公園……。

 その片隅のベンチに腰掛けている、ランドセルを背負った少女……。

 そして、ブルゾン姿の男……。

 今、この公園にいるのは自分たち二人だけだった。

 ……良くない。

 あらぬ誤解を受けてしまうには、絶好のシチュエーションだろう。

 少女の行動次第では、不名誉な汚名を着せられて犯罪者にされかねない。

 心の奥で警鐘が鳴り響いている。

 たった2本のトマトジュースのために、警察に捕まったりするのなんて御免だ。

 ここはジュースを大人しく献上して、さっさとお引き取り願うべきだろう。それが得策だ。正義はそう判断を下していた。

「でも。もう二度と、こんなことはするんじゃないよ。いいね?」

 しかし。しっかりと注意だけはしておく。

「はーい!」

 素直な返事が返ってくる。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 元気良く礼を言うと、少女は正義の手からペットボトルを受け取った。

 そして。すぐさまキャップを捻り、赤い液体を喉に流し込み始めた。

 ラッパ飲みでゴクゴクと。

 よほど喉が渇いていたんだろうか。それとも、大好物なのか。恐ろしいほどのスピードで、トマトジュースが減っていく。

「おいおい……。そんなに慌てて飲まなくても……」

 ……まるで自棄っぱちのように。愛らしい女の子が、真っ赤な液体を猛スピードでラッパ飲みする図。

 それには、どこか怖さを感じさせるものがあった。人間離れしたものを感じてしまう。

 たちまちの内に、ペットボトルは空になってしまった。

 1リットル近くあったのに……。トマト嫌いの正義は、少女の見事な飲みっぷりに、少しばかり気分が悪くなってしまった。

 気分を変えようと、空を仰ぐ。

 夜空に星の輝きはなかった。

 相変わらず、冷え込みが厳しい。底冷えのする寒さに、明日は雪かもしれないな、と勝手に明日の天気予報をしてしまう。

 視線を落とすと、腕時計の針は午前1時すぎを指していた。

 ランドセルを背負った女の子が、一人で出歩いていて良い時間じゃない。

 この娘をちゃんと家に帰さないと……。

 ……犯罪者扱いはされたくない。

 でも……。さすがに、少女をこのまま一人で家に帰すのは気が咎めた。

 やっぱり、送り届けるべきなんだろうな……。

「さあ、行くよ」

 面倒なことになったな、と思いつつも、正義はお人好しを続けることにする。

「行くって、どこへ?」

 と、返ってきたのは無邪気な言葉。

「…………」

「ねえ、どこ行くの?」

 無邪気そのものの不思議顔で、少女は訊いてきた。

 どこ、って……。ホントにこの娘は……。

「そんなの、君の家に決まってるだろ。君の家だよ、君の家。ほら、途中まで送っていってあげるから」

 言いながら、正義は情けなくなっていた。

 ジュースを買ってあげて、家まで送ってあげる。これじゃあ、まるで……。小学校の教師たちが言うところの、知らないおじさん。「声を掛けられても、絶対に一緒についていっちゃダメな」のパターンじゃないか。

「嫌だよ」

 少女が言う。

「えっ……」

「だって、あたし……帰る家なんてないもの」

 ……なんだよそれは。

 正義はため息をこぼす。

「あのね、君……」

 言いかけて、閃く。

 ……あ。もしかして、家出?

 この娘は家出少女なのか……。

 と、正義はそこにたどり着く。

 けれど。

 正義の心を読んだかのように、

「あたし、家出少女なんかじゃないよ」

 少女は告げた。

 口を大きくポカンと「あ」の形に開けたまま、正義は彼女に掛けるべき言葉を探す。

 しかし、彼が言葉を見つけるよりも早く、少女の方が口を開いた。

「ねえ、泊めてよ」

 ──お兄ちゃんのところに泊めてよ。

 な……。絶句。固まる正義。

 そんな彼に、少女はさらに追い打ちをかける。

「ねっ、いいでしょう? 泊めてくれたら、あたし……お兄ちゃんの言うこと、何でもきいてあげるから」



 ………………。空白。

 数瞬、正義の思考は停止した。

 落ち着きを取り戻すのに、少し時間が掛かってしまった。

 いったい……何を言い出すんだ、この娘は。

 自分がいま口にした言葉に含まれる危うさに、気づいているんだろうか。

 10年前や20年前ならいざ知らず、新世紀を迎え数年、援助交際なんて言葉にも、珍しさや衝撃が失われた今の時代。そんな言葉を軽々しく口にすることは、少なからず危険を伴うことだというのに……。

 それとも……。

 ……頭が痛い。

 正義は眉間を指で押さえた。本当は、頭を抱え込みたいくらいの気分だったけれど。

 少女を見る。彼女はただ無邪気に微笑んでいた。どう見ても、それは純粋な子供の笑みだった。

「……いいよ」

 正義は言う。

「えっ、いいの! 泊めてくれるの!」

「違う、そうじゃなくて! 何もしてくれなくていいから、馬鹿なことを言ってないで早く家に帰りなさい」

 もうこれ以上、この娘に付き合うのはご勘弁だ。ものすごく疲れる。御免こうむる。

 お人好しのお兄さんは、もう止めだ。

「そんなぁ……。だって本当にあたし、帰る家なんてないんだもの」

 ホントだよ、嘘じゃないよ。

 まだ言うか、この娘は……。

 ──もう知ったこっちゃない!

 少女に背を向け、正義は公園の出口へと歩みを進めた。

「ねえ、お願いお兄ちゃん!」

 その後を、妙に切羽詰まった声が追う。

 が、正義は無視する。

 しかし、少女も諦めない。

「ねえ、お願いだから! このままこんな所にいたら、あたし、ハイになっちゃうよ!」

 正義の歩みは止まらない。

「あたし、ハイになっちゃうよ……」

 少女はもう一度繰り返した。今度は泣きそうな声で。

 ……えっ。その時。

 ハイって、もしかして……。

 何故か。正義の頭の中で、ごく自然に一つの変換がなされた。

「……灰、だって」

 思わず足を止めて、振り返る。

「……うん。だって、あたしは吸血鬼なんだもの。太陽の光なんて浴びたら、あっという間だよ。あたし……灰になっちゃうよ」

 すがるような瞳が、正義を見つめる。

 太陽の陽射しを浴びることは、吸血にとって消滅を意味する。

 少女は確かに脅えているようだった。

 正義は言葉を失った。

 あははは……吸血鬼……。

 ……んな、馬鹿な。

 そんな見え透いた、嘘……。どころか、嘘と呼ぶこともできないほどの、でたらめ……。

 けれど、目の前の表情は真剣そのものだった。それを嘘やでたらめと呼ぶには、心苦しいくらいに。

 まさか……。でも、吸血鬼だなんて。そんなこと、信じられるわけがない。

 ……人を馬鹿にしすぎている。

 けれど……トマトジュース。確か、マンガか何かで、吸血鬼が血の代わりに、赤いジュースを飲んでなかったっけ。

 だけど、そんなもの、所詮はフィクションの中での話だ。

 でも、だけど……。



 ……助けを求める声。頼りない響き。

 胸元には、正義のあげた真っ赤なペットボトル。少女は、それをとても大事そうに抱えている。

 華奢な肩が小刻みに震えている。

 漆黒の双眸が儚げに揺れていた。

 我知らず、身体が勝手に動いていた。

 正義は少女の許へと引き返していた。

 着ていたブルゾンを脱ぎ、震える小さな肩に掛けてやる。

 その時、少女と目が合った。

「名前は?」

 またもや、勝手に口が訊ねていた。

 少女の顔に笑みが広がる。

「……麻理亜」

 ──ま・り・あ。

 およそ、吸血鬼には似つかわしくない。

 けれど、目の前の少女には似合うと思った。

 真っ赤な唇から零れ三つの音は、合わせると聖母様と同じ響きを持っていた。


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