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   【11】


 言い知れぬ感情の昂りは残しつつも、心が徐々に落ち着きを取り戻してくる。

 滲んでいた視界が晴れて、麻理亜の姿がはっきりと見えた。

 目の前で、彼女は微笑んでいた。

(えっ……ちょっと、待て……)

 その姿に、正義は今更ながらに気づく

 いままで……この娘はいったい……麻理亜は、どうしていたんだ?

「なあ、麻理亜?」

「ん? なに、正義さん?」

「……食事は? この十日間……君は食事をどうしていたんだ?」

 吸血鬼は、トマトジュース以外のものは、ほとんど受けつけない。

 その言葉どおり、正義はこの十日間、麻理亜がトマトジュース以外のものを口にしたのを見たことがなかった。

 けれど、彼女は吸血鬼なんかじゃなかった。

 だったら、当然トマトジュースだけというのもなしだ。

「ああ、それはね……」

 麻理亜はまた、ランドセルを開けた。

 そして、中から取り出した物をテーブルに並べていく。

 出てきたものは、いわゆる栄養補助食品というやつだった。

 緑や黄色のタブレットの入った薬入れに、テレビCMでもお馴染みのバランス栄養食の黄色い箱。それからカルシウムやアミノ酸、亜鉛など……各種サプリメントの小瓶。

「まさか……トマトジュースの他は全部、それ?」

「うん、一応はね」

 何でもないことのように、麻理亜はあっさりと頷く。

「ただ、時々、友達がおにぎりとかを差し入れに来てくれてたけど。それを除けば、本当にトマトジュースとこれだけだよ」

「……友達? じゃあ、君は、内緒で外と連絡を取り合ってたってわけ?」

「うん、その友達が来た時にだけね。でも、それ以外は電話も外出もしてないよ。やっぱり、それは反則だと思ったから。差し入れだって、お節介な友達が勝手にやってくれてたことだし……」

「じゃあ、もしそのお節介な友達がいなかったら……君は十日間ずっと、トマトジュースとそんなお菓子みたいなもので、やっていくつもりだったのか?」

「そうだよ」

 またもやさらりと言ってのけた麻理亜に、正義は呆れてしまう。

 まったく……なんて娘だ。

 いくらなんでも、無茶苦茶だ……。

「でも、おかげで良いダイエットにはなったよ」

 笑う麻理亜に、正義は怒りを覚えた。

 気のせいなんかじゃない。その顔は、出会った時よりも少しほっそりとしていた。

 彼女の笑顔を見て、憤りを感じたのは初めてだった。

 だから。

「馬鹿か、君は! なにがダイエットだ、ふざけたことを言ってるんじゃない! そんなのはただの無茶で、不健康だろうが!」

 麻理亜を怒鳴りつけてしまう。

 しかし、一瞬目を見開いたものの、怒鳴られたというのに、麻理亜はすぐに笑い出してしまった。

「あははっ! 正義さんって、ホントにお人好しだね。自分が騙されたって知った時には怒らなかったくせに、あたしが無茶をしたって……こんなところで怒るんだ。

 正義さん、それって怒るところ間違えてるよ。ズレてるよ」

 麻理亜の反応と言葉に、今度は正義の方が瞳を大きくする。

 気勢を削がれてしまった。

 確かに……間違えてるかもな。

 そう思うと、なんだか気が抜けてしまった。

 正義は微苦笑した。

 そんな正義に、麻理亜は真剣な表情で言う。

「無茶苦茶なのは、あたしだって分かってるよ。だけど、夢のためだもの。それくらい、できなきゃ。そうじゃなきゃ、嘘だよ。そう思わない、正義さん?」

「麻理亜……」

 麻理亜の訴えを聞いて、この娘には敵わないな、と正義は思う。

 夢を持たない自分が、麻理亜を叱る資格はないのかもしれない……。

 結局、また白旗を揚げてしまうことになる。

「本当にすごいな、君は……。よっぽどお芝居が好きなんだな」

「うん、大好きだよ!」

 その大好きだけで、あれだけ演技ができてしまうのだ。

 ……たいしたものだと思う。

 もちろん、ただ好きなだけじゃなくて。麻理亜もこれまでに、夢を実現するための努力をしてきていることだろう。

 彼女が吸血鬼だと信じてしまったのは、どちらかと言えば、自分の方が間抜けだったからだろう。

 けれど。出会った夜、あの時の公園での麻理亜の演技は凄かったと思う。

 あの時の彼女は、本当にに頼りなげだった。

 瞳には人を惹きつける何かがあって。肩を震わせ、自分を見つめる双眸の奥に、正義は確かに儚さを見つけていた。

 あれは、地味ではあったけれど……本当に真に迫る演技だったと思う。

 今でもまだ、あの吸血鬼嬢の存在が架空だとは、信じられないくらいだった。

 そのことを麻理亜に言うと、

「ああ……。あれは……演技というほどのものじゃ……」

 と、彼女は困ったように笑った。

「……あの時はホントに不安だったし。あたし、とっても緊張してたから……。だって、まだ、正義さんがどんな人かも分からなかったし……。それより何よりも……あそこで失敗したら、全てが終わっちゃうところだったんだもの。だから、とにかく必死で……。

 正直に言うと……震えてたのだって、本当はただ寒かっただけで。せっかくコンビニで体を温めていたのに……トマトジュースの一気飲みなんて、あんなことをやっちゃったから……」

「…………身体が冷えてしまった、と」

「まっ、そういうことかな……」

 麻理亜の声音は、どこか申し訳なさそうだった。

 つまり、自分が感じ取っていたものは……。

 …………脱力感に襲われた。

 立つのに必要な最低限の力以外、余分な力が一気に身体から抜けていくようだった。

「…………」

「…………」

 二人は無言で見つめ合う。

 何とも言えない空気が、リビングに流れる。

 しばらく沈黙状態が続き……。

 やがて。どちらからともなく、笑い声を上げた。



 二人の笑い声が重なり、響く。

 ……なんだか愉快でたまらなかった。

 今まで、あんなに苦労したのに……。

 何年もずっと、全然笑えなかったのに。

 鉄仮面とまでいわれた自分が……。

 ……笑っている。

 大きな声を上げ、楽しげに笑っている。

 こんなに簡単に……。

 こんなに自然に笑えるなんて。

 びっくりし、戸惑いながらも、笑い声は止まらない。

 どうして、たったこれだけのことが……今までできなかったのか。

 そんな風にさえ思えてくる。

 また、涙が溢れそうになった。

 でも、今度はそれを必死にこらえる。

 せっかく笑えたのだ。今はもっと笑っていたい。……泣きたくなんてない。

 もしかすると、それは間違っているのかもしれないけれど。

 今はただ、笑っていたかった……。


   *


「良かったね、正義さん。笑えたじゃない」

 麻理亜が微笑みとともに、正義に言う。

「ああ」

 とだけ、正義は返す。

「ホントにおめでとう、正義さん」

 その祝福に、受け取り手の正義は苦笑する。

「……違うだろ。それは、君が言うべきセリフじゃないだろう。逆だよ、それは僕が君に贈るべき言葉だ」

 麻理亜は無事、最終試験に合格したのだ。

 夢へのステップを一段上った。

「おめでとう、麻理亜」

 それは、彼女にこそ贈られるべき言葉だ。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 麻理亜は本当に嬉しそうに微笑んだ。

「だけど……君はこれで帰っちゃうんだよな。もうここにいる理由はないし……」

 どこか素直に祝えない気分もあった。

 けれど。

「ううん、そんなことないよ。もし正義さんさえ良かったら、もう五日ほど、ここに居させてもらいたいんだけど……」

 そんな言葉が、正義の耳に飛び込んできた。

「うちの学校って卒業式は少し遅めだから、それまでもう少し。ねっ、いいでしょう?」

「……あ、えっ……ああ、まあ……いいよ」

 思わず、正義はOKしてしまう。

「それと……できれば、春からもここに住まわせてもらえないかな? 家よりも、ここの方が学校に近くて何かと便利だし。それに……新婚家庭に子供はお邪魔虫でしょう?」

 さらに、麻理亜お得意の奇襲攻撃、思ってもみない爆弾発言が投下される。

 またまた何を言い出すのか。

 突然のことに、正義は何も返せない。

「ねっ、いいでしょう? 部屋は空いているんだし。正義さんだって、あたしがここにいた方がいいんでしょう?」

「えっ、え……」

「正義さん言ってたよね、あたしに出ていって欲しくないって。ここにいて欲しいって」

「そ、それは……」

 正義は口ごもる。

 けれど……。

〝自分の感情はちゃんと表に出さなきゃ〟

 さっきの麻理亜の言葉を思い出す。

 長くて大きな息を一つ吐き、

「……そうだね。君が一緒にいてくれたら、僕は嬉しいよ」

 照れ臭かったけれど、正義ははっきりと自分の気持ちを唇に上らせた。

「じゃあ、いいの!」

「もし、君のお父さんが『いい』って言ったらね」

 ただ。たぶん……無理だとは思うけど。

 と、心の中で付け足す。

 でも。それでも、麻理亜はまた頑張るんだろうな。父親にぶつかってくのだろう。

 その姿を思い、正義は微笑ましく思う。

「まっ、とりあえず、その話は置いておいて……コンビニに行ってくるよ。麻理亜、何か食べたいものはあるかい?」

「えっ……食べたいもの?」

 いきなり話題を変えた正義に、麻理亜は目を瞬かせた。

「えっ、じゃないだろ。ずっとまともに食べてないんじゃ、身体に悪いだろ。それにお腹だって減ってるだろ? もう試験は終わったんだし。何か買ってくるから」

 その言葉で、麻理亜も理解したようだ。

 ついでに、彼女のお腹も納得してくれたようだった。

 ぐぅーと、盛大に腹の虫が鳴る。

「えへへっ……」

 麻理亜は恥ずかしそうに笑うと、「あたしも行く!」と、ランドセルの横の紙袋を手に取った。

 正義がプレゼントした、白いハーフコート。

 中からそれを取り出し、袖を通す。

 そして。

「じゃあ、行こう」

 麻理亜は正義の腕をとった。

 腕を組み、二人して玄関へ向かう。

 ドアを開けると、空は既に朝の顔を覗かせていた。

 ……雪は止んでいるようだった。

 まずは、麻理亜が外に出る。

 その後に正義が続く。

 空は穏やかに晴れて、冬の控えめな陽射しが部屋を出た二人に降り注ぐ。

 穏やかで優しい……そんな光に包まれて、正義と麻理亜は微笑み合った。


   *


 いつもの500ミリリットルのパックを手に取りかけて、正義は手を止めた。

 そのまま、その隣、1リットルのパックへと手を伸ばす。

「やったね、麻理亜!」

 牛乳パックを手にした正義の耳に、そんな言葉が届く。

 聞き覚えのある声に、正義は声のした方を振り返る。

「おはよう、秋絵!」

「えっ……」

 そこには、麻理亜と夏子さん……もとい麻理亜が〈秋絵〉と呼んだ少女の姿があった。

 正義の見ている前で、二人は親しげに話しだす。

「…………」

〝せっかくコンビニで体を温めて……〟

〝友達がおにぎりとかを差し入れに……〟

〝……夜更かしが許されている身分〟

〝……卒業式まではあまり学校に行かなくていい〟

 そして、高校三年生……。

 別々だったものが、一緒になっていく。

 いろんなものが、正義の中で繋がった。

〝……お節介な友達〟

 なるほど、そういうことだったのか……。

 どうやら、開けられていないビックリ箱はまだ残されていたらしい。

(確かに、お節介な友達だな……)

 だけど、いい友達だ。

 そのお節介な友達、秋絵と目が合った。

 夏色少女は、バツが悪そうに微笑む。

「おはよう、秋絵さん」

 正義は苦笑すると、二人の少女の方へ近づいていった。



 ――ピッ。

 198円。

 いつもの倍。レジスターに表示された牛乳の値段は、いつもより98円多かった。


 ……ほんの、ささやかな変化。

 どうでもいいような、些事。

 ごく普通の、一般的な日常の1コマ……。


 いつもより量が倍の、98円だけ値段が高い牛乳パック……。

 他人にとっては、そんなことには何の意味もないだろう。

 だけど……。


〝もし一緒に住んでる家族がいたら、おっきな1リットルのパックを買うんじゃないかな、と思って〟


 馬鹿だなぁ……って思う。

 ……ひどく滑稽だとも。


 けれど……。

 そんな小さな事柄に、正義はささやかだけど……とっても大きな幸せを感じていた。


 読了、お疲れ様です。

 本作『やさしい光の中へ』はこれにて完結です。

 物語に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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