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   【9】


 ちらほらと……真っ暗な空から、雪が落ち始めていた。

 おそらく、これがこの冬に降る最後の雪になることだろう。

 正義は立ち止まり、誘蛾灯の明かりの下、胸の前に掌を差し出す。

 ひとひらの雪が、その掌の上に落ちた。

 そして、何の感触もなく消えた。

 ……雪は雪でなくなった。

 儚く、脆い……。

 その儚さが、正義の中の何かに揺さぶりを掛ける。

 ふたひらめの雪が、人差し指の先に降りた。

 やはり、微かな感触も残さずに、白くて小さな欠片はその存在を消滅させた。

 もしこの名残の雪たちに命があるのなら、なんて虚しくて哀しいんだろう。

 雪の儚さに、正義は少し感傷的な気分になってしまう。

 掌に落ちては、すぐに消えてしまう雪。

 こんな時間に降る雪だ。昼間の雪とは違って、人々の注目を集めることもない。

 真っ暗な中、ただ静かにひっそりと……消えゆくためだけに地上に舞い降りる。

 きっと、朝までには止んでしまうだろう。

 そうなれば、いま降っているこの雪のことは、多くの人には知られない。

 ……麻理亜。

 そんな夜の雪に、正義は吸血鬼嬢のことを思い合わせてしまう。

 彼女もこの雪と同じ、人に知られることのない夜の世界で生きている。

 昼間と同じ場所なのに……。

 同じ空間なのに、ひどく淋しい……。

 麻理亜はこんな世界で……。

 彼女はいつも笑っていた。とても明るくて優しい娘だった。

 けれど。正義は思い出した。

 出会った夜……何よりもまず初めに、自分を捕らえたものは何だったのか。

 自分は……彼女の何に惹かれたのか。

 あの時、自分を縛めたもの……それは漆黒の呪縛、彼女の眼差しだったじゃないか。

 自分を見つめるその瞳の奥に隠された……儚さ。それだったじゃないか。

 麻理亜の持つ儚さ……。自分はそれに惹かれたはずだ……。

 どうして、そのことを忘れてしまったんだろう。

 一番最初に気づいていたことなのに。

 ちゃんと気づいていたというのに……。

 なんて間抜けなんだろう、僕は。

 いつものように、自分の馬鹿さ加減に落ち込みそうになる。

 しかし、今はそんな場合じゃない。沈み込んでいる時なんかじゃない。

 自分のことなんて後回しだ。

 かじかんだ手を胸の前から顔の両側へと持っていく。

 パンパン!

 活を入れる。正義は、両手で顔を挟みこむように両頬を叩いた。

 寒さのせいか、思っていたよりも衝撃が強く、頬が痛んだ。

「よし!」

 短く声を吐き出すと、正義はマンションへの道を駆けだした。


   *


 801号室のドアの前。

 正義は、一つ大きな深呼吸をした。

 それから開け慣れたドアを開く。

 リビングの明かりは点いていた。

 けれど、いつもの「おかえりなさい」の声はない。

 いつものように、麻理亜はソファーに腰かけていた。

「ただいま」

 正義は麻理亜の背に声を掛けた。

 けれど、やはり、麻理亜からの「おかりなさい」はなかった。

 正義の「ただいま」を無視し、

「答えは出せたの、正義さん?」

 と、正義に背を向けたまま、麻理亜は静かな口調で訊いてきた。

「ああ、出せたよ」

 麻理亜からは見えないのに、正義は軽く頷いてしまう。

「そう……そうなんだ、出せたんだ」

「うん。かなり迷ったし、いろいろと回り道もしてしまったけどね……」

 ……ちゃんと決めてきたよ。

 それは、麻理亜が望んでいる答えじゃないだろうけれど……。

 正義は躊躇わなかった。はっきりと、それを……自分の出した答えを麻理亜に告げる。

「麻理亜……せっかくのお誘いだけど、僕は吸血鬼にはならない。君の仲間にはなれないよ」

「…………」

「僕は……人として生きるよ」

 宣言するように、正義は言った。

「そう……」

 麻理亜がソファーから立ち上がる。

 正義と向かい合い、彼を真っすぐに見つめる。

 その眼差しは、真剣なものだった。

「それは、どちらとも決められなかった結果じゃなくて、ちゃんと正義さんが自分で出した答えなんだね」

「ああ、僕が出した答えだ」

 正義はしっかりと首を縦に振った。

「本当に、それでいいんだね?」

「ああ、いいよ。僕にはやっぱり、耐えられそうにないからね。とてもじゃないけど、トマトジュースが主食の生活なんて無理だよ」

 その返しに、麻理亜は淡く笑う。

 トマトジュース云々の中に、正義の心の余裕を見たのだろう。

「だったら……あたしが言うことは、もう何もないね」

 彼女は、ほうっと息を吐いた。

 しかし、正義は言う。

「いいや、あるよ麻理亜」

「えっ……」

「今度は僕の番……いや、君の番かな。今度は麻理亜、君の方が話す番だよ。今まで自分のことばかりで、気づいてやれなかったけど……麻理亜、君にも何かあるんだろ?」

「…………」

「僕は人の道を選んだけど、君は吸血鬼だ。何かがあったから、君は〈解放〉の道を選んだんだろ? じゃなきゃ、吸血鬼になんてならないよな? それを僕に話してみなよ。今日まで、君にはいろいろと聞いてもらったから……今度は僕が聞いてあげるから」

「正義さん……」

「僕みたいな奴に話したって、何の解決にもならないとは思うけど。それでも、話せば、少しは楽になれるかもしれないよ。な、話してみなよ」

 上手く笑えている自信なんてなかったけれど、正義は精一杯の微笑みを作ってみせた。

 そんな正義のことを、麻理亜はただ黙って見つめている。

「それとも、僕には話せない? 君の仲間になることを拒否した、僕になんて話せない?」

「…………」

 麻理亜からの返事はなかった。

 正義は待った。目を逸らさずに、彼女の視線を真っ向から受け止め続けた。

 何時間か前のように、逃げたりはしなかった。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。

 やがて、麻理亜が大きく息を吐いた。

「…………良かった」

 彼女の肩から力が抜けた。

 そして、いつもの笑顔でにっこりと微笑んだ。

「ホントに良かった……」

 もう一度、麻理亜は言った。

 ……何が良かったのか?

 正義は、麻理亜の反応に戸惑う。

 僕は、君の仲間になることを断ったんだぞ……。なのに、なぜ……。

 麻理亜にとって、それは決して喜ばしい結果ではなかったはずだ。

 それをどうして……そんなに安心したような、嬉しそうな笑顔を自分に向けてくるのか。

 予想外の少女の反応に、正義は次にとるべき行動に困ってしまう。

 麻理亜が動く。困惑顔の正義の横をすり抜けていく。

 それを見送ることしかできない正義を尻目に、彼女が向かった先はLDKのK、キッチンだった。

 キッチンフロアに入っていった麻理亜は、冷蔵庫の扉を開けた。

 当然、取り出すものは、真っ赤なペットボトルだろうと思っていたら……。

 ……違った。トマトジュースじゃなかった。

 彼女が取り出したものは、紙パック。500ミリリットルの牛乳パックだった。

 次の瞬間。

「えっ……」

 正義の唇から驚きの声が零れる。

 麻理亜は直接パックに口をつけて、牛乳を飲んでいた。

 その喉元はしっかりと動いている。

 目の前の光景に、「あ、う、え……えっ、あ、へっ……」と意味ない発音を連発し、正義はそのまま絶句してしまう。

 ど、どど、どういうことだ!?

 何が、どうなって……。

 トマトジュース以外、受け付けないんじゃなかったのか!?

 …………あ。まさか、僕が断ったから……。

 自分が吸血鬼になることを拒否したから、麻理亜は自棄になって……。

 それで、飲めもしない牛乳を無理矢理……。

「麻理……」

 が、しかし。

「あー、美味しかったぁ!」

 ……そうじゃなかったようだ。

「…………」

 ……美味しかった?

 どうして……なんで……?

 混乱。パニック。ぐちゃぐちゃ……。

 頭の中で騒動が起こる。思考回路が混線してしまう。

「あの……麻理亜。それって……牛乳だよな? 中身をトマトジュースに入れ換えた、ってことはないよな?」

「うん、牛乳だよ。入れ換えるなんて、そんな面倒なことするわけないよ」

 正義の問いに、麻理亜は振り返り、さらりとそう答えた。

「だけど……吸血鬼は、トマトジュース以外、受け付けないって……」

「もう、鈍いなぁ……。今のを見ても、まだそんなことを言ってるんだ」

 言いながら、麻理亜は手に持った紙パックを振る。

「もちろん、嘘だよ。吸血鬼なんて嘘に決まってるじゃない!」

 そして、はっきりとそう宣った。

「そんなもの、現実にいるわけないじゃない。吸血鬼なんて、ブラム・ストーカーの作品の産物なんだから」

「…………」

 悪戯っぽく笑う麻理亜に対し、正義の方は魂を抜かれたかのように、ぽかんとしている。

 それでも、麻理亜の声は耳に届いていた。惚けつつも、話はちゃんと聞いていた。

「それに、トマトジュースじゃ血の代わりになんてならないよ。成分が違いすぎるって。

 吸血鬼がトマトジュースなんて飲んでるのは、マンガかアニメの世界だけだよ」

 紙パックをシンクに置いて、麻理亜が正義の方へ戻ってくる。

 彼女がダイニングを横切る時に、正義はしっかりと見た。

 ほとんど使われたことのないダイニング・テーブルの隣、やたらと大きな食器棚の扉のガラスに、麻理亜の姿が映っていた。

 ──吸血鬼は鏡に映らない。そんな俗説を思い出す。

 それなのに、彼女の姿は映っていた。

 馬鹿だな……僕は。

 今までだって、彼女が鏡に映っていたことは何度もあったのに……。

 やっぱり、麻理亜は吸血鬼なんかじゃない。

 正義は、少し落ち着きを取り戻した。

「だったら……君は、いったい誰なんだ?」

 リビングに戻ってきた少女に訊く。

「もし魔女だとか天使だなんて答えたら、さすがに怒るからね」

 付け加え、正義は麻理亜を睨む。

「そんなこと言わないよ」

 くすり、麻理亜は笑うとそう答えた。

「第一、そんなの今更だよ。あたしが誰なのか、そんなの何度も言ってるよ。ちゃんと呼んであげてたじゃない、正義さんがあたしの何なのか。初めて会った時だって……」

 言葉を切って、彼女は悪戯っ子のような表情かおした。

 自分にとって、麻理亜が何のか……。

 初めて会った時……。

 …………って、えっ!

 ……まさか……そんな……。

 でも、だけど……。

 ……考えられるのは、それしかない。

「……お兄ちゃん」

 初めて会った時も、それからも……。

 麻理亜は、僕のことを……何度もそう呼んでいた。

「……そういうことなのか?」

「うん、そういうことだね」

 麻理亜はあっさりと肯定した。



(麻理亜が、僕の……)

 目の前の少女が……。

 この娘が……自分の、妹。

 いきなりのことに、正義はまた惚けてしまう。

 一方、麻理亜の方はニコニコ顔だった。

 その笑顔に、正義は思う。

 ……歳は、合うか。

 母親が正義を残し家を出て行ったのは、彼が小学校へ入学する直前のことだ。

 麻理亜が、本当に自分の妹だとしたら……。

 両親の離婚の原因は……。

「正義さん!」

 麻理亜が大きな声を出した。

「いま、とっても不届きなことを考えてるでしょう? 違うよ、あたしは隠し子なんかじゃないよ」

「あ……いや……えっと、その……」

 図星を突かれ、正義は狼狽える。

 そんな正義の様子に、麻理亜はため息を一つ吐く。

「あたしは、正義さんのお父さんの子供じゃないし。もちろん、美菜子さんの子供でもないから」

「えっ……」

 どうして……。

 ──美菜子。

 それは、ずっと……久しく聞くことのなかった、正義の母親の名前だった。

「……どういうことなんだ?」

「簡単なことだよ。実は今度、うちのパパと美菜子さんが再婚することになったの」

 ……再婚。うちのパパと、美菜子さん……。

「つまり、君と僕は……」

 正義は「君と」で麻理亜を指さし、「僕は」で自分自身を指した。

「……義理の兄妹」

「戸籍上じゃ、まったくの他人だけど、ね。でも、あたしが正義さんのことを、お兄ちゃんって呼んだって、間違いじゃないでしょう?」

 まあ……間違ってはいないんだろう。とはいえ、実質は戸籍通り、他人といった方が妥当だと思うけど……。

 なにせ、親子とはいっても、正義と美菜子は現在、音信不通の状態なのだから。

 母親が今どこに住んでいるのか、それさえも正義は知らない。

 血の繋がった実の親子ですら、そんな関係だというのに……。

 それを、血の繋がりもない麻理亜は……。

「じゃあ、君は……わざわざ義理の兄に会いに来たっていうのか? 僕がどんな奴か確かめに来たってわけ?」

「うん。半分はそうだよ」

 麻理亜は頷いた。

「……半分?」

 どうやら、ネタばらしはまだまだ終わらないらしい。

 今度はいったい、どんなビックリが飛び出してくることやら……。

 戸惑いつつも、正義はいまの状況にどこか楽しさを覚え始めていた。

 あと残りの半分の、麻理亜の目的は何なのか?

 正義はそれを訊いた。

「それはあたし自身、自分のためだよ」

 あたし自身のため、と麻理亜は言う。

 その意味を訊ねたけれど、「その前に……」と彼女はソファーに向かう。

 ソファーに置かれたランドセルを開けると、その中から何かを取り出した。

 取り出した物を、「はい、これ」と、麻理亜は正義に差し出す。

 その顔には、また悪戯っぽい表情が浮かんでいた。

 受け取った物を手に、正義は固まる。

 目を見開いて、それを見つめる。

 その手帳の表紙には……。

 ──私立○○高等学校。

 と、そう正義も知っている学校名が印刷されいた。

 そして、手帳を開いた、その1ページ目。

 そこに登場したのは、澄まし顔の麻理亜の写真で……。

 その顔は目の前の実物よりも、少しだけ大人っぽく見えた。

 さらに、問題はその写真の下。

 …………3年4組2番・阿部麻理亜。

 へっ……。それは、絶句ものの驚きだった。

 名前の下には、彼女の生年月日も記されていて……。

 ……昭和生まれの、18歳。

「麻理亜……。君って、高校生だったのか……? しかも、三年生って……」

 今夜一番のビックリは、これかもしれない。

 大袈裟なほどに驚く正義に、麻理亜は少しご不満の様子だった。

「そんなに驚かなくても……」

 いつまでも自分と生徒手帳の写真を見比べている正義に、麻理亜は頬を膨らます。

 その表情がまた可愛らしくて、子供っぽさを演出していた。

 本当の年齢が分かっても、やっぱり、麻理亜は高校生には見えなかった。

「もういいでしょう、正義さん!」

 麻理亜は拗ねたように言うと、正義の手から生徒手帳を奪い取ってしまう。

 ああ、そうか……。

 そんな麻理亜の様子に、正義は気づく。

 ……年相応に見えない自分の容姿。どうやら、麻理亜はそれにコンプレックスを抱いているらしい。

 彼女の年齢とそのコンプレックス、それが分かれば、あの時のことも納得がいく。

(だから……あんなに喜んでいたのか)

 コートをプレゼントした時。

 麻理亜がひどく浮かれていた理由が分かった気がした。

〝だって、男の人からプレゼントを貰ったのなんて、初めてなんだもの〟

 あの時、とても嬉しそうに言った言葉。あれは本当に、彼女の心からの喜びがこもった言葉だったのだ。

 それにしても……。

 阿部麻理亜とは……また素晴らしい響きである。とてもじゃないが、吸血鬼が持つべき名前じゃない。

 あまりにも不似合いな組み合わせ。

 阿部麻理亜と吸血鬼。その二つの響きの滑稽なまでのミスマッチが、正義を虚構めいた世界から完全に抜け出させる。

「どうやら、僕は……すっかり君に騙されていたみたいだね」

 正義は大きく息を吐いた。

「君が吸血鬼じゃないことも、小学生じゃないこともよく分かったよ。君が女子高生なのも了解した。……ということで、ちゃんと話してもらおうか、麻理亜」


 ──どうして、君は、吸血鬼の振りをする必要なんてあったんだい?


「それは……」

 正義の問いに、麻理亜は口を開いた。


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