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  【6】


「どうする、正義さん?」

 麻理亜の問いかけに、正義はすぐに答えられなかった。

 何もかもが、吸血鬼になる道を示しているというのに……。

 うん、と言うことができない。

 首を縦に振ることができない。

 心の片隅のどこかで、それを止める微かな声が上がっていた。

 麻理亜の瞳が、真っすぐに正義の同じものを見つめている。

 唇は閉じられ、もう開く気配はない。

 正義の方から何か言わない限り、それが開くことはないだろう。

 麻理亜は静かに正義が答えを出すのを待っている。

「もし……」

 正義は口を開いた。

「……嫌だ、と言ったら。吸血鬼になることを……君の仲間になることを僕が断ったなら、君はどうするの?」

「出てく。その時はここを出ていくつもりだよ」

 麻理亜は即答した。

「えっ……」

「だって……正義さんが混乱しちゃってるのは、あたしのせいみたいだし。あたしがここに来ちゃったから……あたしがここに居るから。だから……お兄ちゃんは、調子を崩しちゃったんでしょう?」

「…………」

「あたしの何が、そんなにお兄ちゃんのことを追い込んじゃったのか。それは分からないけれど……。お兄ちゃんの目が、死んだ魚みたいになっちゃったのは、あたしのせいだと思うから……あたしは出ていくよ」

「麻理亜……」

 ……あたしは出ていくよ。

 その言葉がまた、正義の心に揺さぶりを掛ける。

 けれど。それ以上にひどく情けなかった。

〝あたしのせいだと思うから……〟

 ……だなんて。そんなことを目の前の少女に言わせている自分が、ものすごく不甲斐ない奴だと思えた。

「いろいろ良くしてもらったのに。正義さんにはお世話になったから……恩知らずになるのは嫌だから、出てく。これ以上……お兄ちゃんのことを苦しめるのは嫌だもの」

 言って、麻理亜は淋しげに微笑んだ。

 その淋しげな表情かおに、「君の仲間になるよ」と答えてしまいそうになってしまう。

 だけど……それは違うと思った。

 ここで、イエスと言うのは間違っていると感じた。……正しくない、と。だから、なんとか堪えた。

 でも、だからといって、他に麻理亜に掛けてやるべき言葉も思いつかなかった。

 また長い沈黙が二人の間に落ちる。

 ただ見つめ合うだけの時間が流れていく。

 そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。

 正義にはひどく長く感じられたけれど、実際には五分と経ってはいないだろう。

 たまらず、正義は麻理亜から視線を逸らしてしまった。

「そうだよね……」

 麻理亜が大きく息を吐く。表情を弛めた。

「こんな大事なこと、すぐには答えなんて出せないよね。わかった、少し待ってあげる」

「…………」

「……明日の夜明けまで。明日の朝、太陽が昇るまで、それまで待ってあげる。短すぎると思うかもしれないけど、それまでに答えを出してね」

「……考えてもダメだったら。もし、夜明けまでに答えが出せなかったら?」

 正義は訊いた。

「その時は、『NO』と同じことだよ。吸血鬼になる決心がつかなかったって、そういうことでしょう」

 ……決心がつかなかった。

 なるほど、確かにそうかもしれない。

「どっち付かずも、NOと一緒ってわけか……」

「うん、そうだね」

 麻理亜は頷いた。

 そして。その後に一言こう付け加えた。

「あと、迷うくらいなら止めた方がいい、ってことかな」


    *


〝どうする、正義さん?〟

 麻理亜の声が、頭の中でリフレインしている。

 ……小さな児童公園の青いベンチ。

 そこで、地面と睨めっこをしながら、正義は迷い考えていた。

 自分が吸血鬼になることに、大きな否定的要素はない。

 あるのは、せいぜい大嫌いなトマトジュースが主食になることくらいだ。

 なのに、なぜか躊躇ってしまう。

 とても惹かれているのに……。

〝あたしは、正義さんが仲間になってくれたら、嬉しいんだけどな〟

 麻理亜もそう言ってくれている。

 孤独な自分に、彼女はそんな言葉をかけてくれた……。

 それだけでも、理由としては十分なはずだ。

 昼間の光は、自分には眩しすぎる。

 いま自分を包み込んでいるものは、ひどく冷たかった。そして……静かだった。

 あまり人が好き好むものじゃない。

 でも……。自分には、こちらの方が似合っていることだろう。

 心は、どうしようもなく、一つの道へと進みたがっている。

 なのに……決心がつかない。

 吸血鬼になるために、自分が捨てるものなんて……ほとんど何もないはずなのに。

 なぜ、こんなにも迷うのだろう。

 ……どうして進めない?

 僕は、吸血鬼に……。

 麻理亜と一緒に……。

 それなのに……どうして?

 正義の意識は、少しずつ夜の住人への仲間入りのことから逸れていく。

 それよりも……。

(どうして……僕は決断できないんだ)

 そのことへと……自分が決断できない理由へと流れ始める。

 なぜ? 何が、自分を……。

 自分が吸血鬼への道を進むことを……いったい何が引き止めているんだろう。

 それとも……ただ、意気地がないだけのことなんだろうか?

 ……吸血にはなりたい。

 けれど、やっぱり不安がないわけじゃない。怖いという気持ちもある。血を吸われることや吸血鬼になることに、何の心配もないといえば嘘になってしまう。

 ただそれだけのこと……なんだろうか。

 その後も、ただ迷うばかり……。

 考えがぐるぐると同じところを回る。

 心もそれに付き合って、一向に進むことができない。ずっと足踏みをしていた。

〝どうする、正義さん?〟

 心に座り込んだ麻理亜の声が、何度も何度もそう問いかけを繰り返す。

 けれど。いつまで経っても、正義は彼女の声に答えを返せないでいた……。



「どうぞ」

 それは突然、視界に現われた。

 その登場はあまりにも唐突すぎた。

 お陰で、ねじれた思考の輪が途切れる。正義は堂々巡りの暗い呪縛から解放された。

 ……肉まん。

 白い中華まんが、目の前でゆらゆらと湯気を立ち上らせている。

 緩慢な動作で、正義は頭を上げた。

 向かいには、コート姿という、初めて目にする格好の夏子さんが立っていた。

 肉まんは、正義の方へ差し出された彼女の右手の掌に載っていた。

「こんばんは、先輩」

 にっこり微笑んで言う。

「遠慮なく。さあ、どうぞ」

 夏子さんは、肉まんをさらに正義の方へ近づけた。

「…………」

 しかし、正義は受け取らない。

 突然のことに、惚けていた。

 なかなか肉まんを受け取らない正義に、

「あ……もしかして、これ嫌いでした? 缶コーヒーとかの方が良かったですか?」

 夏子さんは、少し不安げに眉をひそめた。

「え……いや、そんなことは……」

 笑顔を引っ込めた夏子さんに、正義はやっと口を開く。

「そうですか、良かった。だったら、早く受け取ってもらえます?」

 夏子さんの顔に笑顔が戻る。

「この肉まん、ただ持ってるだけでも、結構熱かったりするんで」

 その言葉に、「あ、ああ……ごめん」と、正義は慌てて、夏子さんの掌の上の肉まんを手に取った。

 ……あたたかかった。

 夏子さんが言ったように、少し熱くもあったけれど……それは温かかった。

 その温かさに、自分の手が指先まで、ひどくかじかんでいること気づいた。

 とたん、今まで平気だった寒さを身体が感じ始める。

「それにしても、先輩……」

 言いながら、夏子さんは正義の隣に腰を下ろした。

「……どうしたんですか? こんな時間に、こんな場所で何をしてるんですか?」

「うん、ちょっとね」

 と、正義は言葉を濁す。

 暗に訊かないでくれ、と言ったつもりだった。

 けれど、夏子さんは引き下がってくれなかった。

「悪いですけど、先輩。さすがに、今はそれじゃあ通用しませんよ。いくらなんでも、もう少し何か言ってもらわないと。ちゃんと安心させていただかないと……」

「安心……?」

「そうです。もし私がお店にいなかったら、たぶん今ごろ、先輩は警察の職務質問を受けているところですよ」

「えっ……職務質問?」

 夏子さんの口から飛び出た、肉まん以上に唐突な単語に、正義はびっくりする。

「なんで、僕が……」

 ……警察の職務質問なんか?

 半ば茫然と呟く。

「そりゃあ、今の先輩って、思いっきり不審人物ですもん」

「……不審人物」

「ええ、そうですよ。はっきりしっかり怪しい人です。じゃなければ、危ない人です」

 夏子さんは「はっきりしっかり」とした口調で、正義を「怪しい人」呼ばわりした。

「いつからこの公園にいるのかは知らないですけど……先輩って、少なくとも四時間以上もここに居るんですよ」

「へっ……。四時間……」

 正義は思わず、左の手首に視線をやった。

 しかし、そこに愛用の腕時計はなかった。

「はい。私のバイト時間の間中、ずっとこのベンチに同じ姿勢で座ったままでしたよ」

 ……ということは、今はもう午前2時を過ぎているということか。

 はっきりとは分からないけれど、たぶん午後8時前には、自分はこの公園に着いていたと思う。

 四時間どころか、六時間以上……。1日の4分の1を、正義はこのベンチで過ごしていたらしい。しかも、その時間帯は夜中を跨いでいる……。

「それは、確かに……立派に不審人物だね」

 ……否定のしようがなかった。

「そうでしょう? だから、今夜は私以外にもバイトの人がいたんですけど、その人が『気味が悪いから警察に通報しよう』って。ホントに危ないところだったんですから」

 夏子さんが少し呆れたように言う。

「それを君が止めてくれた、ってわけだ」

「ええ、私の知り合いだからって言って。あと、うちのお得意様だからって」

 淡く苦笑し、夏子さんは続ける。

「これで、状況は分かってもらえましたか?」

 あまり分かりたくはない気分だったけれど……。

「ああ」と、正義は頷いた。

「だったら、ちゃんと説明してもらえますよね?」

 夏子さんは、その夏色メイクの顔を綻ばせた。けれど……。

「一体どうしたんですか、先輩?」

 そう正義に訊ねる彼女の瞳は、必ずしも笑っているようには見えなかった……。


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