夢の国アクアフィッシング
チャイムがなったから扉を開いて見れば、そこにいたのは招かれざる客であった。
「元気にしていたか後輩。今から釣りに行くぞ」
「いきなり何だ貴方は。分かったぞ不審者だな」
穏便にお帰り頂こうと、私は扉を閉めにかかる。だがその試みは、ゴキブリのように入り込んできた相手方のつまさきによってくじかれた。そのまま強引に閉めて骨を複雑骨折させるという計画が思い浮かんだが、後で損害賠償を請求されかねないので私は渋々扉を開けた。
「何用ですか」
「まあまあ、そう邪見にしてくれるな」
そう言って気色悪い笑顔を浮かべたのは、敬愛すべき我が経済学部の先輩である。男の癖に髪が長い。それでいて乙女たちの喝采を集める罪深い御方である。故に私は、以前この人に天使長先輩というあだ名をつけた。『調子に乗るなよ小僧』と、その喜びようと言えば、感極まって握り拳を震わせる程であった。
「邪見にせずしてどうしろと言うのです。貴方が以前私をそそのかしたせいで、あの時我が家は蜘蛛まみれになったのに。その事実をムシするおつもりか」
「いや、それは事実無根だ。俺は何もしていないぞ」
「何もしていないのが悪いのだ。出て行け悪魔め。何が天使だコノヤロウ」
「怒るな怒るな。怒ると寿命が縮むぞ」
そのまま先輩は我が家へ押し入ってきた。そして私の腕を掴むと、部屋の鍵と財布を持ってくるように言った。
「どこに行くんですか」
一介の後輩である私に断るチカラなどありはしない。大人しくそれらを持って戻ってきた私に、先輩はニヤリと笑った。これまで数多の乙女が、このエンジェルスマイルを受けて陥落してきたのであろう。実に悪魔的である。
「釣りって最初に言っただろ」
「私は場所を訊いているのです」
「ん?……それは、な」
面倒くさい事になりそうだという、虫の知らせがした。
「『裏野ドリームランド』……ってのは、知ってるか?」
勿論初耳である。
私は言った。
「裏ってことは、表も存在するのですか?」
※
道中、裏野ドリームなんちゃらの概要を先輩から聞いた。
曰く。そこは数年前に閉園した廃遊園地であるらしい。その中にあるアトラクションの一つ、アクアツアーには奇妙な噂があり、何でも水中に未確認生物の影を目撃したという証言が多発したそうだ。今隣でハンドルを握っているこの天使ヤロウは、今日それを釣り上げに行こうというのである。ちなみにその遊園地にある噂はそれだけではないそうだ。子どもが一人行方不明になっているとか何とか言っていた。他には、無人のメリーゴーランドが回っているとかどうとか。
成程。
率直にいくが、そんな噂は眉唾モノだと言わざるを得ない。
遊園地に造られた人工の池に未確認生命体など、住んでいる訳がなかろう。いるのは精々ミジンコのような微小生命体の類である。しかしそれを理由に、先輩の誘いを断って冷房の効いた部屋で快楽と安寧に溺れることは許されない。先輩と後輩というのは絶対的な上下関係の最たるものである。迂闊にモノ申したが最後、両頬に手の平サイズのもみじ饅頭形成、真夜中にピンポンダッシュをされる、赤裸々な思い出が大学構内に広まる、両手を縛られて鞭打ち百回といった、言うもおぞましき責苦の数々が課されることが予想される。我々の友情は一ミクロンの愛と億千万の恐怖によって成り立っているのだ。
「その“噂”の出所はどこです」
「ネットで偶然見かけたんだが、問題あるか?」
「ああミカエル。それは悪質な釣りである可能性がありますが」
「それを確かめるために、今から釣りに行くんだよ」
「その化け物を?」
「化け物とは失礼だな。俺が釣りあげるのは男の夢とロマンだ」
「何を言っているんだ貴方は」
どうやら先輩は本気のようである。その好奇心は地獄の底より深いに違いない。
しかしだ。
諸君、ここで一旦立ち止まって、よく考えてみて欲しい。
好奇心は猫マタをもぶち殺すと言う諺がある。ならば天使を殺さないという保証がどこにあるのか。こうも調子のいい人には、いつか天罰が下るに違いない。天使のトレードマークたる純白の羽が根元から引きちぎられ、羽毛布団の材料と化す日もそう遠くないであろう。
だが幸運にも私は慈悲深いので、そのような災厄を望まない。仕方ないのでこうしてブレーキ役を買って出ているのである。
そうしている内に、車は目的地へ着いた。
「ここだ」
車から降りて辺りを見渡せば、そこは山を切り開いて作った遊園地のなれの果てであった。無論、そこに人の気配はない。
長年の風雨にさらされたためか、入場ゲートに描かれたウサギのピエロは、ペンキが剝がれてホラー映画の様相を呈している。十人中十人の子供が恐怖で涙を流すだろう。幽霊も泣いて逃げ出すのではなかろうか。
その向こうには、誰も乗ることのない観覧車やジェットコースターが佇んでいる。一番奥には石造りの城。まあ、あそこまで行くことはないと思うが。
※
アクアツアーに着いた。
そこはドーナツ型の池で、中心には二つの島がある。大きい方は岩山を模った茶色、すぐ隣に小ぶりな灰色の島だ。桟橋と思わしき所には、大きめのカヌーが二艘朽ちかけた縄で岸と繋がれている。察するに、何人かの人数でこれに乗って、スタッフのガイドと一緒に一周池を漕いで回るというアトラクションなのだろう。
水を覗き込んで見るが、黒か緑か分からない邪悪な色の濁りのせいで底が見えない。このような死んだ水にはたして生き物は住めるのか。かつてはヘドロから生まれた怪獣もいたと聞くが、この汚水においてはヘドロでさえ腐ってしまうと思われる。落ちていた木の枝を差し込んでみたところズブズブと沈んで結局湖底には到達しなかった。此処は底なし沼かもしれない。
竿の準備を済ませた先輩が、私の横に来た。
「そこをどけ、後輩。手が滑ってお前を釣り上げてしまうかもしれんぞ」
「なんと呆れた男だ。危険人物極まりない」
「あ?まあいいからおとなしく見ておけ」
「数多の女を釣り上げてきたのかどうか知りませんが、今回はそう上手くいくと思うなかれ!」
「やかましいわ」
構えた竿から延びる糸の先には何かの幼虫が針につけられている。そのあたり普通の川釣りなんかとそう変わらない。それでUSAが釣れるというのは随分と虫のいい話に聞こえる。この灼熱地獄の元に人を拉致軟禁しておいて、テイクバックが何も無ければ私は腹の虫が治まらないであろう。
先輩が竿を振ると針が飛んで行って、数メートル離れた水面に波紋が出来た。
私と先輩はそれから暫く無言で待ち続けた。私はすることがなくて暇だったので、先輩の釣り道具箱に入っていたペンチをカチカチさせて遊んでいた。団栗が落ちていたので気まぐれに潰してみた。
その時突然、竿の先が大きくしなって、真っ赤なウキが汚水の中へと引き込まれた。
「キタっ!これはでかいぞ!」
初撃で不意をつかれた先輩が体勢を立て直す。前後左右へと引っ張られる糸はピンと張りつめていて、水面の下に潜む大物の存在を匂わせていた。
まさか、本当に何かがいるのか。
露ほども信じていなかっただけに驚愕も一際である。獲物と格闘する先輩越しに糸の先を覗いた。白い何かが揺らめいたような気がした。
「今だっ」
勝負に出た。リールを巻きとると同時に竿を引き上げて、一息に引きずり出そうとしたのだ。水面に水飛沫が上がった。もう少しでその姿が見れる。
「やったか!?」
だが興奮した私がそう叫んだ途端、不幸にも、糸が耐えきれずに切れてしまった。勢いあまって尻もちをついた先輩に私も巻き込まれる。早くどけ、重たいぞ。
「くっそう、逃がしたか」
そう言う先輩の顔は、どこか嬉しそうである。
「ほらな?やっぱりいただろう」
「まさか本当にいるとは。貴方もたまには本当のことを言うのですな」
「たまには?」
「いつもは口八丁嘘八百ではないですか」
「はっはっは」
嗤って誤魔化された。やはり悪魔である。
釣り竿を置くと先輩は桟橋から身を乗り出して水面を覗き込む。危ないぞと忠告しかけたその時だった。すぐ真下の水面から灰色の手が伸びてきて、先輩の足首を掴んだのだ。
「ひぎゃあ!」
生気には乏しけれど、それには五本の指があり、明らかに人間の手だった。腰をぬかしてしまった先輩を池の方へ引きずり込もうとしている。
私は咄嗟に駆け寄ると、持っていたペンチの金具部分でそいつのグレーハンドに物理的打撃を加えた。鈍い音がして絡みついていた指が離れていく。その隙に、先輩の体を思いきり引っ張った。
「先輩、はやくこちらに!」
「ひっ……こ、腰をぬかした」
「ええいまったく、手間のかかるお方だ!立たねば貴方の赤裸々な写真を大学構内でバラまくぞ」
「っ!?そんなものをいつ」
「冗談ですよ!ほらこっち!」
ペンチを道具箱の方へ放る。腰のベルトを両手で掴んで、私は先輩の体をカ任せに引きずっていった。陸地に辿り着いた所でようやく先輩は立ち上がると、私の両肩に手をかけて息を整えた。そして言った。
「今すぐ帰るぞ、後輩」
言われずともそのつもりである。未確認生物だか何だか知らんが、人を引きずり込もうとするのは穏やかではない。部が悪い戦いである。人生逃げるが勝ちなのだ。
先輩は、道具の諸々を滅茶苦茶に詰め込むと早々に立ち去った。怖かったのであろう、釣り竿は桟橋の上に置きっぱなしになっている。勿論私も取りに行きはしない。
後にする直前、私はふと池の方を振り向いた。中心に岩山を模った島がポツンとある、それはおよそ死んだ池である。
一瞬、どこか違和感を覚えたが、無視をして先輩の背中を追った。
※
帰る途中の車内にて、私は裏野ドリームランドのことをグーグル先生にご教授いただこうとした。
ながら運転はいけないと思われた方もいるだろうが、それは事実無根である。生憎と今私が座っているのは助手席であり、運転は天使長先輩が行っている。何しろミカエルであるから、万一事故に合ってもそのまま迷いなく天国へと導いてくれるであろう。
『裏野ドリームランド』と打ち込んで検索をかけた。先輩はこの噂をネットから仕入れたという。しかし奇怪な事に、それらしきものは一件もヒットしなかった。
「“あそこ”の事が書いてあったのは、どんなサイトでしたか」
「……忘れたな。『裏野ドリームランド』で出てこないか?」
「それらしきものは皆無です」
「そんな馬鹿な」
車を止めると、先輩は横から画面を覗き込んできた。表示されている空虚な検索結果を目の当たりにして、開いた口が塞がらないようだ。
「俺が見たのは何だったんだ」
「……」
私にその答えがあろう筈もない。
直感的に嫌な予感がして、グーグルアースで『裏野ドリームランド』と調べる。だがこちらもダメ。遊園地がある筈の場所はただの山になっていた。
では、私らが行ったあそこは何だったのか。今から来た道を戻ったら、果たして私たちはどこに辿り着くのか。
車の後ろに伸びている道が、人知の通用しない異界への入口に見えた。
「釣られていたのは、俺たちだったのかもしれん」
高等なる議論の末、二人して悪夢を見たのだということにしておいた。
淀んだ雰囲気を打ち払うかのように、ミカエルが言った。
「……今夜これから俺んちで飲まないか?」
悪くない。
嫌な夢は忘れてしまうに限る。
「それならば、途中で酒の肴を買っていかねばなりませんな」