#004 記憶
* * *
「さて……と」
帰り支度を整えて、あたしは教室内を見回す。
HRが終わり、多くの生徒は我先にと教室を飛び出して行く。まだ何か言いたげな担任の情けない表情を無視して。
そして二、三分も経つと、もう残っている人数は半分もいなくなっていた。
教室の中の風通しがよくなったように思う。女子がつけていたむせるようなコロンの香りも薄れて行く。
それなのに『町田さやか』は、帰るような様子も見せず、教室の戸口をぼんやりと眺めている。
早く全員いなくなれ、とでも思っているのかもね。
あたしとは逆に、放課後の人気のなさを好むのかも知れない。
うぅん……? どうやら、ただぼうっとしているだけみたい。
――どうやって声を掛けようか……
本当は学校を出てから声を掛けたかったんだけど、この調子じゃこの人、日が暮れるまでここにいそう。
って、ゆーか普段からこんなんじゃ、そのうち車にはねられちゃうんじゃないかしら。
もうまばらにしか人が残っていない教室。今なら大丈夫そう。
あたしは大きく息を吸い込み、よそ行きの笑顔を作って彼女に近付く。
「町田さん? ねえ、みんなもう帰っちゃうけど、町田さん。帰らないの?」
彼女は、自分が声を掛けられることを、まったく予想していなかったらしい。飛び上がるんじゃないかと思うほど驚いた様子で振り向いた。
「え……あたし?」
つぶやくような小声。
反応が新鮮で面白く、ついからかいたくなって来る。集団の中ではあんなに自分を消したがっていたのに、今は消えそうにない、彼女本人が目の前にいる。
「町田さんって、おっとりしているのね」
あたしがそう言うと、彼女はいかにも困った表情――でもそれを誤魔化すように、アルカイックスマイルで言葉を返して来る。
「人込みがあまり得意じゃなくて……」
……よし、これできっかけは掴んだわ。
そしてちょっと強引に、仲良くなりたい様子をアピールする。
「美晴でいいよ。さん、もいらない」
「あ、じゃああたしもさやかでいいよ」
もっとも、この程度の挨拶はそこかしこで交わされているから、ここであたしは変化球を投げる。
「……さやかは、人ごみが不得手なんじゃなくて、人が苦手そうね」
案の定、今度ははっきりと『何を言ってるの?』という顔になる。頭の周りにはきっと、『?』が飛び交ってるでしょうね。
これで、嫌でもさやかはあたしのことを考えるようになる。
最初は多少ひかれても、こっちのペースに乗せちゃえば後は楽。取材でもなんでも、自分の陣地に引き込むのが大切だ、と先輩から教わったのよね。
――あぁ! そうだ……あの話、先輩から聞いたんだわ。
引っ掛かっていた記憶がするりと浮かんで来た、その時だった。
「お前らさっきからうっせえよ……さっさと帰んねえと担任に目をつけられっぞ」
『あの話』の関係者、川口マサキ。
人と関わるのが面倒臭そうな態度で他人を拒否して……でも、あの話が本当なら、それは『フリ』かも知れない。
今日は大収穫の予感。
こっちにもちょっとだけ、カマをかけてみようかしら。
軽ぅい感じの喋り方で……
「ごめぇん、あたしらはもう帰るからぁ~。マサキ先輩は、カオリ先輩と待ち合わせですかぁ~?」
相手の顔色が一瞬変わる……ビンゴ!
「知らねえよ。その名前を出すな」
「はぁい……ごめんなさぁい」
あたしは手応えを感じて満足する。
不機嫌になったのはちょっと意外だったけど……相手があの先輩ならね、まぁいつものことで、喧嘩でもしたんじゃないかしら。
もうこれ以上ここで話してもいられなさそうだし、「離脱するわよ」と、さやかに目配せした。
「マサキ、くん。えっと、折角いい天気なんだから、学校にこもっていてもつまらないよ? じゃあ、また明日ね」
てっきり、黙ってこそこそと後をついて来る性格だと思ってたのに、意外にもさやかが川口マサキに挨拶をした。
――えぇ? この子って、年上相手にひるまないわけ?
さっきはあんなにも、周囲に対してびくびくしていたのに?
知り合い――じゃないわよね。さやかに挨拶されて、川口マサキも目を丸くしていたもの。
「なぁにぃ? さっきの。ひょっとしてマサキ先輩狙ってる?」
「そんなんじゃないよぉ」
さやかは笑顔で否定する。
頬は赤くならないし、女子特有の媚びてるような表情でもなく。
思いもよらないことを言われてつい笑ってしまった、という感じの、さっぱりした笑顔……今の言葉は本心だ。
「じゃあなんでそんなに嬉しそうなのよ」
「ん~……ふふ、なんとなく? かなぁ。春だから?」
なにそれ。
茶化そうと思ってるこっちの毒気が抜かれてしまう。
まあ確かに普通の神経なら、彼女がいる人にわざわざアプローチしないと思うけど……まして相手があのカオリ先輩なら尚更。
そういう理由じゃないにしても、この子、やっぱり変わってる。天然ってやつなのかしら。
『メモ』にぴったりな言葉を探そうとして、さやかの話をつい真剣に聞いてしまう。
どうも周囲が話している『お嬢様』とさやか自身の話が食い違う。
つんと澄ましていたと思っていたのに、実際はぼぉっとしていたらしいとか――話し掛けられても気付かないくらいって、どうなのよと思うけど。
よくある行き違いなのに、いちいちそんなに恐縮するのは何故なんだろう?
そしてさやかには遠回りになるというのに、わざわざ駅側を通って帰るのはどうして?
大したことない、当たり障りのない話題しか振ってないのに、しかもまだよく知らないあたしなんかを相手にしているのに、心底楽しそうに見えるのは――?
――ペースに乗せられたのは、まさかあたしの方……?
* * *
さやかと別れ列車に乗り込んで、大きく息をついた。
そこでようやく、自分でも気付かないうちに、随分緊張してたのだと気付く。
「……てのひら、べしょべしょ」
じっとりと冷たくなるほど汗をかいていた。ハンカチを取り出し、壁に寄り掛かって小さくため息をつく。
こんなに緊張してたのって、いつ以来だろう……
試合直前でもなく『嫌なこと』でもないことで緊張するなんて。