#002 奇妙
* * *
しばらくしてまた顔を上げる。そろそろ大半の生徒が登校して来たようだった。
途端に、今まで『音』でしかなかったざわめきが『声』として、四方八方から耳に飛び込んで来た。
もう十分もすれば、あたしたちは入学式に向かう時間になる。
「新入生は、番号順に廊下に並んで、速やかに体育館へ移動してください。繰り返します。新入生は番号順に――」
校内放送が掛かると、新入生たちは一斉にがたがた椅子の音を立てて、移動し始める。落ち着かないのかそわそわしながら、廊下で列を作る生徒たち。
慌てて鏡と櫛を手にする女子や、その様子を横目でチラチラ見ている男子。
入学式ってのはお見合いじゃないのよ?
なかば呆れながらその流れに混ざり、廊下に出ようとした瞬間、ふらついた誰かの肩が当たる。
「あ、ごめんなさい」
「あ、すいません……」
あたしたちはお互いに謝りながら、顔を合わせた。
相手は人とぶつかったことに驚いたようで、目を見張っていた。
その目は大きく、くっきりとした二重が印象的な女子生徒。緊張が表情をこわばらせていた。
……あら?
この人、『ここにいない』感じがする。
ちょっと違うかな、『ここにいたくない』でもないし……
うーん、『透明になろうとしてる』感じ?
どうしてだろう……しっくり来るような『メモ』ができない人なんて初めてかも知れない。
そんなことを考えている間に、その彼女は人込みにまぎれてしまった。もうどこにいるかわからない……それくらい、気配を消そうと必死な様子だった。
入学式の最中、あたしは暇を持て余しついでに周囲の生徒たちを観察していた。
さっきあたしとぶつかった女子もすぐ見つかった。彼女は式の最中にずっと考え事をしているようだ。入学早々、悩みでもあるのかしら。
もっとも、式に集中している生徒なんて、実はほとんどいない。
眠そうにぼんやりしている者、落ち着きなくきょろきょろしている者、退屈を持て余して髪の毛をいじりだす者……時間の潰し方は様々。
でも、考え事をしている人は、意外に少ない部類に入る。
未知の世界に放り込まれたら、大多数の人間は状況把握、もしくは仲間を探すものだろう。何をしたらいいのかわからない、という人は、考え事すらできずにぼ~っとするものだし。
そう考えると、彼女は意外に肝が据わっているようにも見える。
やがて、しびれを切らしたざわめきがじんわりと広がって来ると、『彼女』は逆に身を硬くした。何かに怯えているようにも見える。
でも、いじめられっ子特有の卑屈な雰囲気はないようだ。
むしろ傍目には、彼女の周りの生徒たちよりも上品に、澄ましているように見えるのではないだろうか。こういう時の『姿勢』――例えばピアノの発表会とか、華道や茶道――に慣れているように、自然に背筋を伸ばして微動だにしない。
でもあたしの中のなにかが言うのだ。
「あの子はどこか違う」
どこが、なのかまではわからないけど。
不自然というのでもないけど……多分、今まであたしの周りにはいなかったタイプなのかも知れない。
観察に没頭しているうちに、いつの間にか入学式が終わっていた。
そういえば、あたしにしては珍しく、校長先生の挨拶の内容すら覚えていない。
覚えててもあまり意味がないけどね。
* * *
だらだらとした行列が教室へ向かう。その列は次第に崩れて行き、他のクラスの列と混じり合う。
「ミハちゃ~ん。クラス別れちゃったねぇ」
肩を叩かれて振り向くと、同じ陸上部だったくるみが、タレ目を細くして笑った。女子の中でも身長が高めな彼女は、平均よりほんの少しだけ――平均身長より、たった三センチだけ――低めなあたしを余裕で見下ろす。
「そうだねぇ、残念」
あたしも残念そうな笑顔を見せる。
本当はそれほど残念だなんて思っていない。それは向こうも同じだろう……しかし、彼女たちはこういうコミュニケーションを好む。
『一緒』が一番大事。同じブランド、同じ趣味。流行りの情報をいち早く――東京でブームが起き始めても、こちらに伝播するまではタイムラグがあったので――先取りしていたあたしが彼女たちの輪の中に入るのは、想像以上に容易だった。
学校生活を上手く乗り切るためには、多少自分の嗜好とは違っていても、相手の望む方法を取らなければいけない場合もあるのだ。
将来的なことを考えれば尚更、自分の好みの情報かどうかより、『役立つ情報かどうか』が重要になるのだから。
そういう意味では、わたしは好き嫌いなく情報を集め、まとめ、的確に提供することの練習を、日々積み重ねていたと思う。
「まぁでも、隣のクラスだしさぁ、ミハちゃんもたまには一緒にお昼しよう?」
「うん、そうね。よろしくね」
くるみの人懐っこい笑顔につられて、つい笑顔になる――というように見える笑顔を作った。
……うんざりした表情を欠片も出さないあたしは、演劇部でも充分やっていけるかも知れない。
くるみのことが嫌いなわけではない。ただ、どうしても苦手だった。
身長や愛想や交流関係――あたしとは違い過ぎて。
そして今では、陸上に関しても。
「あ、そうだ――」
ふと思いついて、あたしはくるみに訊いてみた。
「くるみちゃんさ、あの子、どこの中学だったかわかる?」
くるみの行動範囲は広い。ほぼ異性に限定されるが、知り合いも多く、色んな学校に顔を出してたらしいので、彼女の名前ぐらいは知っている可能性がある。
裏表のない性格なので、知っていることは教えてくれるし、必要以上に言いふらすこともない。
そういう人なのを知っているから、苦手だけど嫌いにはなれない。
「ん~? ああ、なんだ、お嬢様かぁ……」
眉の間にシワを寄せて、つまらなさそうにくるみは言う。
「お嬢様?」
『彼女』には確かに、そう言われても違和感がないような、おっとりと優美な動きをする時があった。
「タイゾウくんがそう言ってたから、そう覚えてるだけだけどお。どっかのお嬢様とか言ってたかなぁ? 確か二中だよお」
「そっか、ありがと」
この高校に二中出身の生徒がいるなんて思わなかった。
それならあたしがわからないのも無理はない。あたしのいた中学とは、まったく反対方向だもの。