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#001 起因

『目にはさやかに見えねども』の美晴視点のスピンオフ。

入学式当日のお話です。

 昇降口で、真新しい上履きに足を入れる。

 滅多に出会えないこの瞬間が、あたしは好きだ。



 新しいスパイクシューズを下ろす時のことを思い出させる――スパイクシューズのその瞬間は『慣らし』の時に味わえるから。


 足の形にフィットするように、紐の長さを調節しつつ締め上げる。緩くては駄目、きつ過ぎても駄目。


 それから、軽く走り込み。



 あたし好みに慣らすためには、決して慌てちゃいけない。靴にもそれぞれ個性があるのだから。

 それはあたしと新しい『相棒』の神聖な会話の時間だった。



 ――多分『慣らし』はもうないのだろうけど。




 物思いにとらわれそうになった頭を軽く振る。


 今日から新しい生活が始まる。なのに、いつまでも過去に囚われているなんて、愚かしいことよ。





「田中先生、町田の担任なんですって? 羨ましいなぁ」


 職員玄関の方から、はきはきした若い男性の声が聞こえて来る。静かな廊下に靴音と声が軽く反響していた。



「おはようございます、三浦先生。町田さえこ……いや、さやか、だったかな? 確かにいますが。そんなに目立つような経歴はなかったかと」


 おっとりした声がこたえる。



「いやぁ、入試なんですがね、今回、残念ながら満点はいなかったじゃないすか。で、町田がマイナス二点でトップ、代表になったうちの真田でさえ、マイナス十点だったのに」



 ――随分自慢げに、『うちの』を強調する。




 声の主は新一年生の担任同士らしい。若い声の三浦先生は野心家か自慢屋か――できればあたしの担任になりませんように。



「僕、数学得意な生徒の担任になりたかったんですよー」

「はぁ……」


 対して、相槌を打つ田中という教師は、あまりこの話に乗り気ではなさそう。


 まぁそうよね。仕事に私情を挟む教師は扱いづらい。生徒に対するほどほどの関心と理解。そしてほどほどの無関心が必須能力だと思う。



「担任なら、ほら、直接特進クラスに推薦も――」


 引き戸を開ける音がした。

 そして声はそのまま消えて行った。職員室に入ったのだろう。




 ――それにしても随分お喋りな教師ね……数学担当の三浦? 確か、まだ二~三年しか教師歴がないんじゃなかったかしら。



 まだ生徒が登校するような時間じゃないと、安心しきっていたのだろう。

 九時から始まる入学式のために、七時頃から来るような新入生は普通、いない。それにしたって、他の教師が聞いているかも知れないというのに、あの内容はいかがなものかと。



 あたしは頭の中の『人名簿』を繰りながら、ゲタ箱にローファーを突っ込む。



 * * *



 小さい頃のあたしの夢は、『陸上でオリンピックに行くこと』と、『スポーツジャーナリストになること』だった。


 短距離、中距離、ハードル、幅跳び、高跳び……いくつかの種目を試して、あたしには短距離が向いているとコーチに言われた。それを本気にした幼稚園児は毎日くたくたになるまで走り回り、小学生の頃には朝から晩まで、学校でもスポーツスクールでも練習に没頭していた。



 その合間にも、色んな選手の生い立ちや大会の記録をスクラップし、自分なりの解説をノートに書き綴る。


 一分、一秒だって、時間を無駄にはできない――そう思いながら毎日を過ごしていた。いや、無駄にしたくないというより、そのすべてが楽しくてしょうがなかったから。



 ジャーナリストの夢はそのうち、スポーツという枠にこだわらなくなっていた。調べれば調べるほど、更に知りたいことが増えるから、もっと調べて知りたくなる。


 きっかけは多分、とある選手がスポーツとはまったく別の趣味を持っている、ということを知ったからだったと思う。



 誰かの新たな一面が見えた途端、他の人たちもそういう『別の顔』を持っているんじゃないかしら……と思い至る。


 それは当然の流れだったと思っている。



 更には選手同士、またはそれ以外の交友範囲、その友人たちの趣味、職業、更に彼ら――選手自身ではなく、その友人たち――の独自の人脈……

 ジャーナリストにとって、情報はあり過ぎるということはない。


 スポーツニュースのコメンテイターにも、スポーツニュースの記事を書く記者にも、それぞれ個性と得意分野があることもまた、あたしの興味の対象になった。



 やがて、あたしの情報収集は、自分の周りにあるすべて――特に『人物』に向けて――アンテナを拡げるようになる。


 人間って面白い。興味深い。


 そういった純粋な好奇心と性善説のみで、その頃のあたしは積極的、情熱的に活動していたと思う。



 * * *



 あたしが階段を上る音だけが静かに響いていた。予想通り、教室、いやフロアごとまだ誰もいない。


 この時間のこの空間も好きだった。



 ――中学校の校舎とは違う匂いがする……



 などと、あまり意味のないことを考えながら教室に入る。


 その途端、黒板いっぱいの飾りや祝福の言葉が目に飛び込んで来た。




「ちょっと……ここ、小学校か幼稚園?」


 思わず噴き出してしまうほど、黒板は可愛らしい色紙の鎖や花に埋もれている。ここまで来ると、一種のアート作品と言ってもいいんじゃないかしら。




 『 お め で と う 』




 黒板に大きく書かれたその言葉が目に入った途端、何故か泣きそうになる。



 ――はぁ……情緒不安定、なのよねきっと。春だから。




 時間を潰すために持参した本を、席に着いて早速広げる。


 この調子で読めば明日の帰宅時に読み終わるはず……そう思いながらあたしの意識は本の中に入って行った。





「あれ?」



 その声に驚き、我に返る。



 ――もう……折角本の世界に浸ってたのに。




 振り返ってみると、声の主は一番奥の席に着くやいなや居眠りの体勢に入っているようだ。時間を確認すると、まだ三十分ほどしか経っていない。


 あたしが乗って来た列車より一本後のものは、まだここの駅には着かない。



 ――と、すると、バス通かしら。徒歩圏内の生徒が、こんなに早く登校する理由はないし。




 その生徒は制服を早速着崩していた。でも、バス通地域で目立つような新入生の噂は聞いたことがない。

 まさか高校デビューのために、こんな早くから登校したわけでもないのだろうけど。



 『無害、もしくは関わりを持たないであろう人物』


 頭の中にメモをして、また読書に集中する。


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