もどく、もどかし、もどき
自分の世界観を表現するってことは、じつは思ったよりも難しくて、かんたんだ。呼吸するようなものであり、だけど、呼吸の仕方を意識した途端に台無しになるような。結局、世界観なんてことばはとてもぎょーぎょーしくて、どこまでいってもそれは自分の頭の中のことでしかない、なんていうと、ちょっと息苦しいだろか。
ぼくらはノーミソなんてものに縛られている。否定したって無駄無駄。心臓が止まっても死ぬけど、要するにノーミソが機能しているかどうかで「いま、ここ」がわかるように、ぼくらのカラダはできている。だから、目の前にあるできごとが『現実』かどーかなんてことをわかったりわからなかったりする。それはどーだっていいのだけど、でも、どーだっていいからといって、ほっといていいかというと、そうでもない。突然気になって仕方なくなる。人間ってめんどくさい生き物だよね。
そんなぼくは、あるとき突然セカイなんてものが気になりだしてくる。中二病と笑いたければ笑うがいい。しかし気になって仕方ないのは事実。要するに何かしらわからないけどもどかしい。もどかしいってのは、焦れったくて、もやもやして、思った通りにいかなくて、要するに、恋でもしているようなメンタルなのだけど。
セカイなんて偽りだ。ぼくは単なる世間知らずで、日常生活の観測できる範囲からでしかお話できていないから、なんとなくもやもやしているだけで、セカイなんてことばそのものがぎょーぎょーしい、もどかしさの原因だといえばそうかもしれないと唸りたくなる。けれども、何かを知りたいという気持ちはほんもので、しかも、もっと突き詰めていうならば、ぼくらはわかった気になることのほうが大切だったりする。要はその過程に対する満足度の問題で、こういうと怒られるかもしれないが、科学や宗教だって究極そういう欲求が根っこにあるものだろう。
主語が大きすぎるって? でも、そういうものだ。ぼくらがわかった気になるそれは、要するに、経験と知識で縒り合わされた「もどき」にすぎない。セカイもどき、科学もどき、宗教もどき、言い換えれば、模型とか、かたち。いちおう見ればわかる程度にはもどいてるんだけど、それはたぶん、ほんものとはちょっとか、あるいは大きく違うものだろう。
もどきは擬と書く。そして面白いことに、擬くという動詞にもなる。詳しく知りたければ辞書を引いてみるといいけど、ちょっと非日常の匂いがする、いいことばだとおもう。それがもうちょっと頑張ればもどかしいということになって、ああ、きっと、ぼくは、もどきがもどかれないからもどかしいんだ、てそういうことを納得した。そうすると、もどかしいのもどかしさは、どこかへ行って、ぼくはまた別のもどきを求めて、もどかしい日々を送ることになるのだった。