ウタカタ
ごぼり、と泡沫のように言葉が飛び出した。
しかしそれはあまりにも空っぽで、意味を持たなかった。
泡沫は透き通った瑠璃色の水をかき分けて、遠ざかってゆく。どこまでも、どこまでも。
後に残るのは虚しいほどの静寂だった。
(しょせん僕にとって言葉とはそういうものさ……)
嘆くまでもなく、青年はそう思う。
意味もなく。
誰にともなく。
だが、苦しい。
水の中にいるのだから。
言葉は空気を消費するのだから。
自らの呼吸を殺してもなお、言葉を吐き出す理由とはなんなのだろう?
(バカバカしい)
水はどこまでも透明だ。
どこまでも透明で、胸を圧迫する。
とても、とても苦しい。
呼吸ができない。
なら潜るのを止めればいいのに。
(なぜ止められないのだろう)
そう思って、ようやく青年は浮上した。
また潜るために。
* * *
海に潜るのを始めたのは、たしか二年前。
死のうと思っていた。
もうダメだと感じていたのだ。
学校の成績は微妙。
可もなく不可もなし。
それがむしろ仇となって、何をするにも必要だからするようになって。
楽しさを、見失った。
楽しいってなに?
生きがいってなに?
僕はなにをすればいい?
そもそも僕は何者だ?
意味のない言葉が意味のない問いを生み、意味のない問いは意味のない坩堝のなかに僕を閉じ込めた。坩堝に入った僕は延々と堂々巡りを開始して、底知らずの堕落を思うがままに究めようとしているかのように、どこまでもどこまでも落ちていった。
もう苦しい。
ならば一層の事死のう。
死に場所に海を選んだのは、誰かに発見されることを避けたかったからだ。
どうせ死ぬなら苦しまないほうがいい、と思いつつも。
どうせ死ぬなら誰にも気づかれたくないとも、思っていた。
飛び降りる。
落ちる。
墜ちる。
堕ちる。
鉄板に思い切り身体をぶち当てたかのような激しい衝撃が僕を襲い、僕は意識を喪った。
* * *
ただ死ぬのだけにも覚悟が要る。
誰かに見つかっても気にしない図太さと、この世と決別するためなら何でもするという腹のくくり方と。
僕にはどっちもなかった。
だからこうして生きている。
醜態を晒しながら。
嗚呼、情けない。
死ねばいいのに。
そう呟いたはずの言葉は、泡沫となって意味なく消えた。
* * *
ひょっとすると夢を視ていたのかもしれない。
僕は浜辺に打ち上げられていた。
寄せては返し、
返しては寄せる波の中に、
僕は恐ろしいほどの静かさを感じていた。
うっすらと、眼を開ける。
呼吸をするので精いっぱいで、目も眩んでよく見えなかったのだけれど。
僕はそこに不思議な光景を見た。
視界の片隅に、何かがいた。
ヒトのような影だった。
それは手を差し伸べて、僕の額をさすっている。
やめろ、やめてくれ。
同情程度の優しさなんて要らないんだ。
いっそ僕を殺してくれ。
そう言いたかった。
だが言葉が出てこない。
代わりに出たのは、水。
咳き込んだ。
驚いたように、影は逃げ出した。
僕は慌ててそいつのあとを追うけれど、なに一つ声を掛けてやる間もなく、そいつは逃げ去ってしまう。
唯一、見えたのは。
魚のような尾ひれが、水面に跳ねていたことだけだった。
* * *
それからあとはしばらく面倒なことになったが、僕はまだこうして生きている。惨めで、情けなくて、やっぱり醜い。醜いことを開き直れるほどの度胸もなく、ただあの思い出を振り返るように、潜水を始めるようになった。
僕は結局、なにがしたいのだろう?
まだそれは掴めていない。
ただどうしても気になるのは、あの時僕を助けてくれたのが、何者であるかを知りたいだけなのだ。それがヒトでなくたっていい。ただひと言、余計なお世話だよ、て怒鳴ってやりたいだけだった。たぶんその言葉自体が余計なお世話で、くだらないのだとわかっていても。
僕はやっぱり言ってやりたくて仕方がないんだ。
* * *
数時間の休憩後、青年は再び潜った。
瑠璃色に透き通る水。
その中に、生身の身体がどこまでも沈んでゆく。どこまでも死んだように降りてゆく。
そこに言葉は要らなかった。
海の底は絶対の沈黙なのだ。
あらゆる言葉は無意味と化し、あらゆる呼吸も意味を喪う。
死んだように静かな世界。
それは孤独と紙一重だった。
言葉も、呼吸もない。
あるのはただ、泳ぐこと、沈むこと、そして水面から差し込む陽光を、眺めること。
(届きそうだな……)
手を伸ばす。
だが届かない。影を描くだけ。
その時だ。
ふ、と目の前を通過した影があった。
あの時と同じだった。
起き上がるように海底を蹴ると、その影を追う。今度こそ、伝えなくてはならない。どんな言葉でもいい。伝えなくては。
そう思って、手を伸ばした。
だが届かない。
あえなく泡沫を掴んだだけで。
口から零れるのは、言葉ではなく泡沫だった。
(僕の言葉は届かない)
苦しくなって、太陽の光のもとへ昇る。
そこには海とは違う理が占めていた。
(僕はどうして海に憧れるのだろう)
彼は思う。
(どうして僕は陸に戻らないのだろう)
彼は憎む。
自分を拒絶した海を。
そして自分がどうしても戻りたくない陸を。
肺の中から溜めた空気を、めいいっぱい吸い込んで、彼は再び潜った。
どうせ死ぬならば。
やることをやりたいと、思うのだ。
* * *
ごぼり、と海の底から言葉が出る。
それは泡沫、口を離れて意味を喪った言葉たち。意味がなかったとしても、言葉が飛び出ずにはいられない。だから潜り続ける。何度でも、何度でも。