火車 下
あれから十日。おばあちゃんは実家に帰ってきた。わたしたち家族もいる。夏だというのに、どこか陰鬱とした空気が家の中に漂っていた。
暑いな。わたしは縁側から空を見上げる。広がる空はどこまでも澄んでいた。おばあちゃんの最後の時がいつ訪れてもおかしくないのに、夏の空は毎年のようにそこにある。花火大会も、夏祭りも、去年となんら変わらず行われていた。母さんが買ってきたスイカはやっぱり甘かったし、種が一杯あった。
変わらない夏。いつもと同じ。
でも、やっぱり少しずつ違っていて、この夏は特別であると理解していた。
おばあちゃんの家にはいろんな人が訪れてきた。おばあちゃんと関わりがあった人はみんなしっかりとした縁で結ばれている。心配そうな見舞い客の姿を見るとそんなことを思った。おばあちゃんにはこんなにもたくさんの知り合いがいたんだと思うと、涙が出そうになった。
おばあちゃん。わたしはその時が来てしまうのに怯えていた。鳶が甲高い声で鳴いていた。
「かあさん、わたしちょっと休んでくる」
座卓の側に立ってわたしはそういった。逃げ出したいけど逃げられない。そんな恐怖から逃れるために少し横になりたかった。何も考えずに横になりたかった。
母さんはゆっくりとした動きでわたしの方を見た。
「そう……分かったわ……」
その顔には生気がなかった。一年以上続いた、おばあちゃんが死んでしまうかもしれないという重圧は、母さんをここまで追い詰めていたのだ。わたしは小さくうなずいて、そっとその場をあとにした。
「母さん、そのお茶もう冷めちゃってるよ」
この言葉はきっと届かない。
二階の自室に向かう前に、わたしはおばあちゃんが眠る部屋を覗いてみた。安らかに眠るおばあちゃんの側で父さんがあぐらをかいている。その奥では心太が眠っていた。何だか微笑ましくて、おばあちゃんと心太、二人を眺めていた。父さんが顔を上げた。
「茜か」
たったそれだけ。それだけ言って、またおばあちゃんを見つめる。その姿はいつもの父さんよりも小さく見えた。
「おばあちゃん、何だか幸せそうだね」
「ああ、そうだな」
「何かいい夢でも見てるのかな」
「そうかもしれんな」
「おじいちゃんと会ってたりして」
「……だといいな」
「心太も眠っちゃってるよ」
「ああ」
「何か上にかけるもの持ってこようか」
父さんはまたわたしの方に顔を上げた。垂れ下がった眉。眼鏡の奥の瞳。疲れきっているのに、どこか恥ずかしそうな表情をして、父さんは力なく笑った。
「すまんな」
「ん、全然。気にしないで」
空元気を振り絞った。わたしまで悲しみに暮れてしまってはならないように感じていた。
心太へ毛布をかけて、そのあと部屋にきた。布団にうつ伏せで倒れこむ。湿気を吸い込んだままの布団はちょっぴり冷たくて心地よかった。
不安で胸が一杯になっていた。家族の誰もが口数も少なく沈んでいる。家の空気が重たくのしかかってきている。どうしよう。でも、どうしようもない。諦めたくないのに、巨大な壁が生み出す陰はわたしの周りをすっぽり覆ってしまっていた。
本当になんてちっぽけな存在なんだろう。陰はいつの間にか暗闇へと変わっていた。誰も見えない。何もない。無限に広がる闇の中にいる。目の前でおばあちゃんがその闇にとけていってしまう。
そんなの……嫌だ……。
強く目を瞑った。もう何も考えたくなかった。寝転がって仰向けになる。額に手を当てて天井を見上げた。何も考えない。ぼーっと時間に身を委ねる。開けていた窓から風が入り込んでいた。蝉の声が遠くなる。溜っていた疲れが眠りの世界へとわたしを引きずり込んでいった。
気がつくと、そこは真っ暗な暗闇の中だった。身体中へ染み込んでくるような甘い花の香りがする。どこかから川のせせらぎが聞こえていた。
ここはどこだろう。夏だというのに全く暑くない。むしろ、風もないのに肌寒さを感じる場所だった。
本当にここはなんなんだろう。真っ暗でちょっぴり怖かったけれど、立ち止まっているわけにもいかず、一歩歩き始めた。
闇が濃い。大抵どんなに暗い場所であっても、しばらくすれば目が慣れて、うっすらと周りが見えてくるのが常である。陰と言うものは必ず出来るはずなのだ。しかしこの場所一向に周りが見えてくることがなかった。正真正銘の真っ暗闇だったのだ。
右も左も分からない。今どんな道を歩いているのか、どれだけの距離を歩いたのかも分からない。耳に入ってくるのは、足音と呼吸音、そしてなぜか四方から聞こえてくるせせらぎだけだった。
歩く歩く歩く。まっすぐに歩いていく。随分あるいたはずなのに、何も変化はない。歩く歩く歩く。ここはどこなんだろう。微かな不安が足を早める。歩く歩く歩く。まだ見えない。何も変わらない。次第にわたしは駆け出していた。
出して。ここから出して。微かだった不安は強大なものとなり、わたしの身体に心に絡みつく。脈打つ鼓動。荒い呼吸。わたしは分けも分からず走っていた。
と、何かにつまづいた。走っていた身体は、その勢いのあまり前方に大きく傾き、わたしは盛大に転んでしまった。
「痛……」
つんのめったままぼやく。涙が出てきた。どうしてこんなことになったのだろう。理不尽に対する言いようのない感情が沸々と沸いてきて溢れだしたのだ。もう嫌だ。何もしたくない。このままじっとしていたい。そう思った。
そんな時だった。視界の端に花があった。何も見えなかった暗闇だったのに。花は美しくそこに咲いていた。
綺麗な花。一瞬思考を止めてしまう。魅了されるほどその花は美しく、小さいのに強く凛々しく咲いていた。わたしはつんのめったままだった身体を起こして座り、小さな花を見つめた。恐怖とか全部吹き飛ばして、その花は揺れていた。初めて見る花だった。
触ろうと手を伸ばす。背筋に鳥羽だがたった。隣を何かが横切った。わたしは生唾を飲み込んで、顔を上げた。広がる暗闇。それはどこにもいなかった。
怖さともしかして誰かいるのではないかという淡い期待の二つに挟まれて、わたしは立ち上がった。辺りを見渡す。何もない。せせらぎだけが変わらず流れている。
「誰かいる――」
呼んでみようと声を出し始めた瞬間だった。
足を掴まれた。
呼吸が止まる。背筋が凍る。わたしは恐る恐る足下を見てみた。
花があったはずの場所に、目のない赤ん坊がいた。
「あー、あー」と、喉が潰れたような声を出してわたしの足を掴んでいる。空っぽの瞳はまっすぐにわたしを射抜いていた。
叫ぶことは出来なかった。代わりに身体が反応していた。
蹴るようにして手を振り払った。赤ん坊の腕は肩から千切れて遠くへ飛んでいってしまった。わたしはゆっくりと後退する。それと距離をとりたかった。
赤ん坊は始めた何が起きたか分かってなかったようできょとんとした表情をしていた。しかしながら、その表情は次第に崩れて、ぽっかり空いた両目からは真っ赤な涙が溢れだした。
響いたのは吐気を覚えるような気味の悪い泣き声。無理矢理声を出そうとして、自らが傷ついているような声だった。
泣き声は増殖するかのように辺りに広がり、あっという間にわたしは囲まれてしまった。
「やめて……もうやめて!」
耳を塞いで、しゃがみこんだ。目を閉じて強く念じる。消えろ消えろ消えろ消えろ。頭がおかしくなりそうだった。
突然泣き声がやんだ。静かな川のせせらぎだけが聞こえる。
いなくなったのかな。わたしはゆっくりと目を開けてみた。
目の前にあの赤ん坊の顔があった。
「ひっ……」
身体中が強張った。赤ん坊は嬉しそうに笑った。同時に再び手が身体を掴んできた。足を手を服を髪を。何本もの小さな手が掴んできた。
わたしは絶叫と共に立ち上がると、脇目も振らずに走り出した。手がまた千切れて飛んでいった。背後からはあの泣き声がしていた。大きく大きく。そしてなぜか悲しそうに泣いているように聞こえた。わたしはただ怖くて走っていた。
どのくらい走ったのだろう。わたしは体力が尽きてその場にうずくまってしまった。呼吸が乱れている。汗が滝のように流れ落ちる。そこは砂浜のような場所だった。
少し大きい、角ばった砂を握る。もうここにはいたくない。帰りたい。涙が溢れた。
肩に手が添えられた。
恐怖で目が見開く。ガチガチと震える奥歯が音をたてる。もう、駄目だ。そう思った。
「茜ちゃん。茜ちゃん。大丈夫かい?」
聞き覚えのある、あの穏やかな声が降ってきた。驚いてその声の方を向く。着物姿のおばあちゃんがいた。
「どうしたんだい、こんな場所で。まあ、こんなに震えて。何があったの」
「おばあちゃん!」
わたしは心配してしゃがみこんでくれたおばあちゃんに抱きついた。怖かったから。怖くて怖くて、本当に駄目だと思っていたから。
「わっ。どうしたんだい、この子は。あー、よしよし。泣かないでおくれ」
優しく撫でてくれるその温もりに、わたしの涙は止まらなかった。「どうだい。もう大丈夫かい?」
そう言ったおばあちゃんにわたしはうなずいた。
「そうかいそうかい。それは良かった。茜ちゃんは一度泣き出すとなかなか泣き止んでくれなかったからね」
そういってまた頭を撫でてくれた。とっても温かい手だった。
おばあちゃんは、驚いたことにまるで病気などしていなかった頃のように元気で、とても健康的だった。ここがどこだかおぼろ気ながら分かった気がしたけど、元気なおばあちゃんが側にいることの嬉しさにそのことを隠してしまった。もし、ここがその場所であるなら、わたしは本当のお別れをしなければならなくなってしまう。そんなこと考えたくもなかった。
暗闇ばかりだったここは、いつの間にか月のような丸いものが空に浮かんで、目の前に広がる大きな川の流れの姿を映し出していた。浅く少し流れの速い水流が絶えず流れている。わたしとおばあちゃんは岸部に座っていた。
言葉はなかった。言いたいことはたくさんあったけれど、どれもこれも、全部こうして座っているだけで伝わるような気がしていた。おばあちゃんも静かに隣に寄り添ってくれた。
その横顔を見て思う。昔の元気な頃のおばあちゃんだと。一緒いにられる。幸せだった。
おばあちゃんがすっと背筋を伸ばした。顔が引き締まり、わたしの方を向いた。
「茜ちゃん、これからみんなのことよろしくね。家の人たちはどこか弱いの。誰かが強くならなきゃ駄目なのよ。ね、茜ちゃん、あなたなら出来るから」
迫力に圧倒されて、わたしはうなずいていた。そんなわたしを見て、おばあちゃんはふっと微笑んだ。
「優しい、いい子だね。みんなのこと、よろしくね」
そう言うと、おばあちゃんは立ち上がり、砂を叩き落とした。
「さて、そろそろ行こうかね」
え。おばあちゃん、行っちゃうの?
「待っ――」
立ち上がろうとしたけれど、砂の中から現れた手に掴まれていた。
「じゃあね、茜ちゃん」
そういって振り返ったおばあちゃんの背中にあの赤ん坊が乗っていた。おばあちゃんが闇にとけていく。
行かないで。みんなを置いてかないでよ。おばあちゃん。
なぜか声が出なくなっていた。身体も動かない。ただ行ってしまうおばあちゃんを見ていることしか出来ない。
待って。待って待って待ってよ。おばあちゃん!
その時、川の向こうから赤い赤い、揺らめく塊がやって来た。それはおばあちゃんが行ってしまった方へ行き、しばらく止まったあとまた川の向こうへと行ってしまった。
「で、その後私は目覚めて一階に降りていったわけ。そしたらさ、やっぱりおばあちゃん死んじゃってた。私が寝てる間にだよ。家族は誰一人として起こしてくれなかったの。酷いと思わない? って、ありゃりゃ。みんな寝ちゃったみたいね。まあ、長かったし、仕方ないか」
私は子どもたちを寝室まで連れていくと、再び縁側へと戻ってきた。月のない星空を眺める。
あ、あれがベガ。アルタイル。で北斗七星。うん。
全部教えてもらったことだった。おばあちゃんが夏の夜空には綺麗な星が一杯あるっていていたけど、ほんとに一杯。たくさんある。
おばあちゃん、私結構頑張ってるよ。
『ああ、知ってるよ』
隣からしたあの優しい声。そっと目を閉じた。
やってしまいました。えって、夏ホラーのお口直しに。すみません。