刻の王
森の中の時計塔には、とても怖い魔物が住んでいるのだという。
幼い少年の姿で、森を通り掛かる人を惑わし、塔の中に引きずり込んでは喰い殺す。
だから、夕方になったら決して森には近づいてはならない。
この村に住む子どもなら、赤子の頃から言い聞かせられてきた童話だ。
「魔物なんていないじゃない」
少女、アリエルは呟いた。今、アリエルは立入りを禁じられた森にいる。
「そうよ、こんな綺麗な森に魔物なんているわけがないわ」
言い訳のように呟く。見上げると首が痛くなるような大樹に背を預けて、アリエルは地面に腰を下ろした。とっておきのワンピースが汚れてしまうのは少し残念だったけど。
風が梢を鳴らす音はとても優しかった。夕方の陽光が、葉と葉の間から零れて地面を踊る。遠くに見える時計塔も、白い壁が橙色に染まって玩具みたいに見える。子どもの頃から聞いていた童話のイメージだと、もっと暗くてじめじめした森だったのに。
さっき見た惨劇が嘘みたいに思えるくらい、森の中は綺麗だった。
アリエルは今日で13歳になったばかりだ。村のみんなが祝ってくれて、たくさんのプレゼントをくれた。だからアリエルはとても幸せだった。
その幸せを壊したのは、急に村を取り囲んだ兵隊だ。アリエルには何が何だか分からなかった。怖い顔をして出て行った村長さんの悲鳴が聞こえて、後はたちまち軍靴と馬の嘶きと悲鳴で村中が満たされて。
アリエルは怖かった。赤く染まった剣を振り翳した大人がアリエルを追ってきて、助けようとしてくれた人もみんな斬ってしまった。
だから無我夢中で逃げて、逃げて、アリエルは気がついたら森の中にいたのだ。
(あーあ、みんながせっかくプレゼントくれたのに)
場違いなことを考えて、アリエルはため息をついた。今、村に戻ったら兵隊に捕まってしまうだろう。そうしたらたぶん、殺される。それに仮に無事に家に戻れたとしても、床に置いておいたプレゼントの山はもう目茶苦茶にされていると思うのだ。
咄嗟にアリエルを逃がそうとしたセーラ姉さんを、家に乱入してきた兵が斬りつけていたのを知っている。あの兵が、プレゼントを踏みつけていた。倒れ込んだセーラ姉さんが、血を吐いていたのも。
『逃げて、アリエル――――!!』
絹を裂いたような甲高い悲鳴が耳の奥でまだ響いているような気がして、アリエルはぎゅっと膝を抱えた。
どこからか聞こえる鳥の鳴き声が不安を煽る。 ――ここは、魔物が出る森。
(魔物なんて……魔物なんて怖くない)
強がりではない。今のアリエルはさっきの兵隊の方がよほど怖いと感じる。
それでも森の中で一人きりだという孤独感は少女を呑み込もうとする。太陽は既に姿を消して、周囲の闇は色濃くなっていた。
いつの間にか目尻に浮かんだ涙を拭って、身を守るために猫のように丸まる。その時不意に、怖い夢を見た時に同じ体勢でベッドに潜り込んだ記憶が蘇ってきた。あの時はアリエルの異変に気づいたお母さんが、子守歌を歌いながら頭を撫でてくれたのだ。
そのお母さんは、ここにはいない。誰も、いない。
自然と漏れた嗚咽を、アリエルは抑える術を知らなかった。
「独りは、怖いよ……!」
無意識に叫んでいた。彼女を救える人間など、ここにはいないというのに。
――――刹那、森の中に響き渡る荘厳な鐘の音。
空気を揺らすのは、アリエルが生まれて初めて聞く音だった。決して鳴らない、森の時計塔の鐘。けれど何故か、アリエルにはそれが鳴っているのだとすぐに分かった。
「どうして、泣いているの?」
急に掛けられた声に、アリエルは弾かれたように顔を上げた。
アリエルの目の前に、少年が立っていた。俯いていたにしろ、つい一瞬前までは人の気配など全く感じられなかったのに。
警戒するように睨み付けると、少年は困ったように眉を下げた。
「驚かせてごめんね。でも君に怖いことをするつもりは少しもないから、そんなに警戒しないで欲しいな」
アリエルは目を瞬かせる。少年の声はとても真摯で、嘘をついているようには聞こえなかったから。
少年は、アリエルと同じか少し年下ほどに見えた。柔らかそうな髪の毛は薄い薄い金色で、暗い森の中ではまるで月のようだ。白い麻のシャツに短いパンツと、農民の子のような格好をしているのに、肩に羽織ったマントと頭上の王冠だけが不自然だった。マントは見たこともないような艶々の布地で出来ていて、アリエルが知っている中で一番綺麗な赤色をしている。それと同じ色の王冠には金色の飾りがついていて、きっととても高い物なんだろうとアリエルは思った。少年が首を傾げれば、金の耳飾りがしゃらしゃらと音を立てる。
そして何より目を引いたのが、少年の素足に絡まる鎖だった。足首の枷から伸びた鎖は四方八方に伸びていて、先が見えない。アリエルはじっと目を凝らして、ふと首を傾げた。
「それは、時計?」
一本だけ他より太い鎖があって、少年の影の中で蛇のように絡まり合っている。それの先に、大きな文字盤が繋がっているのだ。アリエルは時計というものを一度しか見たことがなかったが、不思議なことにそれが時計だと断言できた。使い古した農具の得刃みたいな色だから、きっとずいぶんと古い時計なのだろう。
アリエルが凝視しているのに気づいたのか、少年は振り向いて自分の影を見つめた。それから、もう一度アリエルを見て、泣きそうな顔で微笑った。
「これが、君には、見えるんだね」
「ええ。見えるわ」
首肯し、アリエルは少年の傍に寄ってみた。そして思い出す。
――とても怖い魔物が住んでいるのだという。幼い少年の姿で、森を通り掛かる人を惑わす―――
「あなたは誰? あなたが魔物なの?」
少年は首を横に振った。予想が外れた。
「違うよ、人間さ。……いや、正確に言うなら人間だった、かな」
その言葉に応えるように、地面の上で鎖がじゃらりと音を立てた。まるで、生きているかのように。
「僕は名前を忘れてしまう程長い時を生きてきた。人々はそんな僕を恐れて魔物と呼んだようだけど、僕を識る者にはこう呼ばれているよ」
アリエルは息を呑んだ。
轟々と風が鳴り、鎖が少年の足元にぐるぐると巻き付く。それはまるで、戒めのような、呪縛のような。
「――――《刻の王》」
それが僕の呼び名。囁くように教えられた呼称を、アリエルは呼んでみた。「……刻の、王?」
少年が笑う。そして、そっと差し出されたその手を拒む理由などアリエルにはなかった。
どこかでまた鐘が鳴る。今度は、邂逅した孤独な二人を祝福するように。