序章:紺碧の風
静かな晩だった――。
Tシャツに黒の半パンといった姿でも、風呂上がりの颯太にとっては暑かった。
ベッドに飛び乗り、その身体の火照りを鎮めるために窓を開ける。
瞬間、むっとする熱気が颯太の部屋の中へと押しよせた。
夜の十二時を回れば、辺りは静かだった。目につく限りの家々の電気は消えており、あるのは等間隔に並べられた街灯の明かりと、眼下に広がる狭い川だけ。それだけなのに、どこかいつもと違うのだ。
(何やろ?)
喉の奥に、小骨がひっかかったような奇妙な違和感。言葉にならなくて、それが颯太を苛立たせた。
きっと、暑さのせいだ。夜になっても、昼間の熱気は冷めやらず。次々と颯太の頬をなでては去っていく、このうっとうしい夜風のせい。
本当は、クーラーをつけたいところだった。が、電気代にうるさい母ちゃんに叱られるのは勘弁だったので、やめた。代わりに、冷凍庫からかっさらってきた棒つきアイスを口にくわえる。
颯太の好きなサイダー味だ。
口に含んでしばらくすると、歯が染みて、冷たい針で刺さされるような痛さに顔をしかめた。アイスを口からだし、左手に持つと、もう片方の手でうちわを扇ぐ。
それでも、暑かった。
じっとりとぬぐいきれない汗が額ににじみ、乾かしきれず髪の穂先に留まっていた雫とともに、顔をつたってシーツに跡を作った。その内の数滴は、布団に落ちることなく、颯太の目に入る。
「いてっ!」
扇いでいたうちわを放りなげ、空いた手で目をこすった。
それと同時だった。
「キャッ!」
――キャッ?
甲高い、女の声。
自分以外、誰もいないのに。
それも、近くから……。
そう。それはついさっき宙に小さな弧を描いて颯太の背後へ落ちていった、まさに今まで自分が右手に持っていたあのうちわの方から。
颯太の背が、びくっと戦慄いた。何か、蛇のような冷たいものが颯太の背筋を這って首をからめ捕る。思わず、身体が固まった。けれど、確かめなくては……。
何せ、今ここにいるのは己一人だけなのだから。
氷のように凍てついた首をゆっくりひねり、宙をさまよう視線を背後へと向けた。
瞬間だった。
目が開けられないほどの突風が、颯太に襲いかかってきたのだ。それは迸るように熱く、颯太は両腕で顔を覆う。それでも、その隙間をぬって風は襲ってきた。
(何やねん、これ?)
訳分からぬ事態の中で、薄目を開けた颯太の目に飛びこんできたのは、目映いばかりに輝く、紺碧の――。
「何? 今の……」
颯太は声をだした。が、何も聞こえない。もう一度、のどを振り絞る。目線を下げ、上唇が動いていることを確かめた。けれど、呼吸の仕方を忘れてしまった魚のように、パクパクと口が上下するばかり。颯太の胸に、底冷えのする焦りが広がった。
(何で、何も聞こえへんねん)
わんわんうなる頭を両手で抱えた。鼓膜が破れたみたいで、耳の奥がキーンと悲鳴をあげている。
だが、そうではなかった。
遠く離れた場所から、小さな音が聞こえた。それは規則正しく、一歩一歩、着実に歩を進めるように、カチコチと音がする。すこしして、それが壁にかけられた時計の音だということに気づいた。何事もなかったかのように、今も一秒一秒刻んでいく。次いで、眼下に広がる川のせせらぎが聞こえた。そのはるか上流では、最終電車が通過したのだろう。大きな車輪が線路をたたく鈍い音と、カンカンと警鐘を鳴らす遮断機の危うい音が、透き通った夜の空気をゆさぶった。何より、いつの間にか始まっていたカエルの大合唱が、今の今まで自分の耳に届いていなかったことに、颯太は驚愕した。
部屋に入ってから常に感じていた違和感。
それは、全ての音を、失っていたということだった。