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背後にはいつも誰かがいる

作者: 佐倉 百
掲載日:2026/07/02

***

 東京都●●川で死亡が確認された成人男性Kに関する報告書。


〈中略〉


 Kは幼少期に異形種の存在を複数回感じていた。時間の経過とともに異形種が増殖。個人での対処が困難となり、死に至ったと推測。


 異形種の形状は不明。Kは手記で足音のみ聞こえていたと記述しているが、証言には曖昧な点が散見される。

 異形種を第二感染型に分類。


 七月一日

 自宅に残された手記及び交流のあった人物への聞き取りを行う。保管されていた遺体から異形種の鱗を採取。


 七月十日

 残留品からKの擬似人格を構築。独白形式で感染ルートの調査を開始。

***



 ひたひたと裸足で歩く音がする。濡れた足で学校の廊下を歩いているような、小さな音だ。僕の背後から近づいてきて、触れそうなほど近くで止まる。息遣いが聞こえてきてもおかしくないのに、足音以外は聞こえない。


 最初に聞こえてきたのは小学生の頃だった。


 母に叱られた日だったか、友達と喧嘩した日だったか、もう覚えていない。ただ、胸の内に気持ちが燻っている時だけ、その音が聞こえてくる。


 音がするときは振り向いてはいけない気がして、僕は一度も背後を振り返らなかった。


 きっと普通じゃないものが背後にいる。僕以外は誰も気がついていない。だから、あれの正体を確かめたら戻れない気がした。



「学校に菓子を持ってきたのはお前か?」


 休み時間に歴史教師の笹熊が不機嫌そうに話しかけてきた。


 笹熊は僕が通っている中学校にいた「面倒な教師」の一人だ。人によって態度が変わるのは当たり前。目をつけられると、テストで良い点を取っても成績表は真ん中より下にされてしまう。だから彼のお気に入りの生徒以外は、なるべく関わらないようにしてしていた。


 教室にいる他の生徒は、それぞれ好き勝手に休み時間を過ごしているように見えて、僕と笹熊に意識を向けていた。巻き込まれたくないのだ。逆の立場だったなら、僕もそうする。


「違います」


 僕が否定すると、笹熊は菓子の包装紙を突きつけてきた。


「じゃあこれは何だ。お前が通った後に落ちていたんだぞ。お前以外の誰がいるんだよ!」


 その程度の状況証拠で犯人扱いとは驚いたものだ。


 僕が廊下を通った時には、何もなかった。廊下を通行していた生徒は他にもいたのに、なぜ僕だけが疑われるのだろう。


「なんだ? 反抗的な態度だな」


 沈黙してしまった僕は、彼にはそう見えるらしい。元より口が上手いほうではないせいか、笹熊の機嫌を良くするようなことも言えない。


 どう言えば最悪の事態を回避できるか考えていた時、あの音が聞こえてきた。


 ひたひた。


 笹熊は僕の「悪い点」を一つ一つ挙げて、指導という名の人格を否定してくる。言葉のほとんどは耳に入ってこなかった。


 ひたひた。


 音は僕のすぐ後ろで止まった。耳元で誰かの息遣いを感じた気がする。剥き出しの首筋や手は、冷水をかけられたように冷えていく。まだ残暑が厳しい九月なのに。


「おい、聞いてんのか!? お前のために言ってんだぞ! 寝てるんじゃないだろな?」


 笹熊が僕の肩を掴み、軽く頬を二、三回叩く。

 一瞬だけ足音のことを忘れた。理不尽な叱責と、痛みは少ないとはいえ暴力的な接触に腹が立つ。


 ――なんだよコイツ。死ねばいいのに。


 そう思った瞬間、耳元で誰かが笑った。忍び笑い程度の小さな声は、すぐに離れる。僕の後ろでひたひたと歩き回っていた足音が、初めて僕の前へ移動していく。


 足音は笹熊にぶつかる寸前に消えた。

 僕は生徒指導室へ連れて行かれて、頬の痛みと引き換えに開放された。



 一週間後のことだ。笹熊は学校の屋上から飛び降りた。屋上への扉は鍵がかかっていたが、笹熊が保管箱から勝手に持ち出したらしく、扉の前に投げ捨てられていたらしい。


 ちょうど朝のホームルーム中に起きた出来事で、落ちる笹熊を窓から見た生徒もいる。僕もその一人だ。


 最初は何が起きたのか分からなかった。雨が叩きつける窓を眺めていたら、大きなものが落ちていく。それの正体を頭が理解するより早く、窓の外を見た生徒から「人だ」と声がした。それから窓へ集まった生徒から悲鳴があがり、教室内は軽くパニックになっていたと思う。


 僕のクラスは体育会系の担任が大きな声で落ち着かせ、カーテンを閉めて、表向きは沈静化した。男子生徒の中には外を見たがっている者がいたが、担任が僕らを廊下側へ寄せて見張っている。そうこうするうちに救急車のサイレンが校舎近くで止まり、笹熊をどこかへ運び去っていった。


 そのあとはいつも通りに授業が行われたけれど、内容なんて頭に入ってこない。僕だけでなく、他の生徒もそうだ。午前中を上の空で過ごした後に、僕たち生徒は下校するよう告げられた。


「笹熊先生はどうなったんですか?」


 下校を告げにきた担任に、男子生徒が質問した。彼は窓の外を見たうちの一人だ。生徒の中には目撃したショックで保健室へ行った子もいる。


「分からん。まだ何も分かってないんだよ。今日はクラブ活動も無しだ。寄り道せずに帰るんだぞ」


 担任はそう言い残して職員室へ戻っていった。

 笹熊が落ちた場所は、僕たちが授業を受けている間に清掃されていた。


「あいつ、なんで飛び降りたんだと思う?」

「さあ? 自殺するような奴には見えなかったよな。誰かに落とされたとか?」


 友人たちが勝手気ままに笹熊の話をしている。


「俺、笹熊が担任してるクラスの奴にきいたんだけどさ……なんか、最近は様子が変だったらしい」

「変って?」

「すげー寝不足な顔で、やたらと後ろを気にしてたってさ」

「なんだそれ」

「健康オタクで水しか飲まないって言ってたけど、心変わりしたのかジュースばかり飲むようになったって」

「どうせオーガニックとか無農薬って書いてある野菜ジュースってオチだろ?」


 僕は背後の足音が笹熊へ向かっていったことを思い出した。


 あの時は「死ねばいいのに」と思っただけ。偶然だ。心で思っただけで誰かを殺せるなんてありえない。

 友達と別れて一人で帰宅していると、聞き覚えのある音が聞こえてきた。


 ひたひた。


 聞こえなくなったと思っていたのに、また僕の背後で歩き回る音がする。だが今度は別の音も加わっていた。


 コツコツ。


 裸足ではない。靴を履いた足音だ。革靴だと直感した僕の脳裏に、笹熊の姿が浮かぶ。ひんやりとした空気がうなじに触れる。


 僕は家まで走り、急いで玄関に鍵をかけた。ところが足音は消えない。


 ――なんでだよ。


 今度はいつまで経っても消えてくれない。どんなに無視をしても、自分の存在を知らしめるように。


 さらに声らしきものも混ざってくる。何を言っているのか聞き取れない。テレビの音量を小さくしてノイズを混ぜたような、不愉快さを与えてくる。


 その日はシャワーを浴びていても、布団を被っても聞こえていた。

 僕が眠りに落ちる時まで。ひたひた。コツコツ。ざわざわと。



 数日後に、笹熊の飛び降りは自殺だと結論が出たらしい。お調子者の生徒が教師に聞いた内容を人づてに聞いたから、正しいかどうかは不明だ。


 二年生へ進級する頃になると、学校内はすっかり落ち着いて誰も話題にしなくなった。元より生徒から好かれていなかったし、面倒な先生が転勤したような感情しか残っていない。ただ、笹熊が落ちた辺りには誰も近寄らなくなった。


 胸の高さしかなかった屋上の柵は、今ではバスケットゴールほどの高さになっている。屋上への扉は校長が鍵を管理することになったらしい。ちょっとした変化に気がつくと、笹熊のことは現実にあったことだと再認識させられる。そのうち笹熊の名前だけ忘れられて、自殺者の幽霊が校舎を徘徊する怪談になって、後輩たちへ語り継がれていくのだろう。


 あの足音も聞こえてくる頻度は元通りになっている。二人分の足音で、僕の背後をひたひたコツコツと歩く。やはり振り向きたくない。誰が背後にいるのか知るのが怖かった。


 進級のクラス替えで一緒になった生徒のうち、いじめの標的になっている者がいた。見るからに大人しそうな男子生徒で、特に目立っているわけではない。けれども体力が有り余っている生徒には、ちょうどいいサンドバッグとして映ったらしく、進級早々に絡まれていた。


 いじめ犯たちは狡猾だ。金品の要求は低額で、中学生の小遣いで賄える範囲。一見すると軽いプロレスをしているような接触をして、先生がいるところでは親友のように振る舞っている。事情を知っている他の生徒は、自分が標的になるのを恐れて、口を出さなかった。


 ある日、僕は彼のいじめに遭遇した。例の屋上へ続く階段で、弁当をひっくり返されている音を聞いたのだ。


「お前、犬を飼ってるって言ってたよな? モノマネしてくれよ」

「最初は犬の食い方な。お座り!」

「早くしてくれよ。休み時間終わるだろ


 嫌な笑い声がする。


 僕はその場をいったん離れた。多勢に無勢。僕一人が声をかけた程度では、あの手の連中は止まらない。もっと力を持っている大人か、彼らが格上と認めた同類でないと抑止力にならないのだ。


 用事を済ませて戻ってくると、いじめ犯たちはどこかへ去っていた。散らばった弁当を片付けている生徒に、僕は菓子パンを差し出す。


「あげるよ」

「え……」

「あと、スマホでも何でもいいから録音しておくといいよ。証拠がないと先生たちは動いてくれないから」


 僕たちは力になれないから、自分で解決して。遠回しにそう言っているようなものだろう。僕の行動は正義感でも何でもない。見ないふりをして、自分に攻撃が来ないように必死で隠れているだけなのだから。


 この僕の行動は、どうやらいじめ犯の気に食わなかったらしい。いじめの標的に僕も加わることになった。


「お前さぁ。ヒーローとか好きそうだよね」


 あからさまに見下す顔で、いじめ犯の一人が話しかけてきた。


「正義の味方気取りってやつ? 小学生かよ」

「いや……そうじゃないんけど」

「あいつにエサ与えただろ。困るんだよなぁ。勝手なことされたら。こっちは遊びでやってんのに、外野がマジな対応したら誤解されるだろうが」


 いじめ犯は、覚えておけよと言い残して去っていった。

 翌日から、僕は自分が標的になったことを実感した。


 靴箱に入れていた上靴が、別の場所に入れられている。机には小さな文字で子供向けアニメのヒーロー名が書かれ、ハートで囲まれている。教科書の挿絵には卑猥な落書きがされていた。


 相変わらず卑怯だ。教師が発見しても、いじめではなく僕のいたずらに見えてしまう。


 このまま学年が変わるまで続くのかと思っていると、いじめは次第にエスカレートしてきた。カバンに水を流し込まれたのだ。反応が薄い僕にいらついて、過激な方法でないと満足できくなったのだろう。


 廊下の手洗い場でカバンに溜まった水を捨ててタオルで拭いていると、いじめ犯たちがやってきた。


「つまんねー奴」


 背中を叩かれた僕は、手洗い場の壁に額をぶつけそうになった。


「少しは反応しろよ。無表情がカッコイイって思ってんの? 面白くねーから」

「なあ、こいつ屋上へ連れて行こうぜ。ヒーロー君なら空飛んでくれるよな?」


 いじめ犯たちの反応は二通りだった。片方は面白がっていたが、もう片方は不自然に沈黙している。笹熊が飛び降りたことを思い出したようだ。


「……屋上って開いてなかったよな」

「じゃあ教室から飛べよ」


 一人が遠慮がちに言うと、主犯格が笑った。


 僕はしつこく絡んでくるいじめ犯たちに腹が立っていた。奴らはいつも集団で手を出してくるところが嫌いだ。単独では大人しいくせに、仲間がいると気が大きくなって騒ぐところも、猿を連想させる。


 もっと他のことに頭と体力を使えばいいのに。


 ――こいつら全員、いなくならないかな。


 平和なクラスになってほしいと考えていた僕は、またあの足音を聞いた。


 ひたひた。

 コツコツ。


 僕の背後には手洗い場がある。人が歩ける場所なんてない。忘れかけていた音に血の気が引いた。


 ぶつぶつと誰かが耳元で喋っている。日本語のようにも聞こえるが、内容は頭に入ってこない。同時にいじめ犯たちの言葉も、僕が理解できない音になっていた。


 予鈴が鳴って、いじめ犯たちは急に僕から興味を失ったかのように教室へ向かった。足音も彼らを追いかけていく。その見えない存在が楽しそうだと思ったのは、足音に混ざって忍び笑いが聞こえたせいかもしれない。


 足音がいじめ犯についていった翌日。僕は学校で彼らの一人が亡くなったことを知った。夜九時半ごろ、信号無視をして横断歩道を渡ろうとしたところ、猛スピードで走ってきた車に撥ねられたそうだ。


 大雨で視界が悪かったことも、事故につながったのだろう。


 教室は静まり返っていた。いじめをする問題児ではあったが、クラスメイトが死んだという現実は僕らにとって重い。まだ子供なのだから死とは縁がないと思っているのだ。


 その日の主犯格は大人しくなって、僕や他の生徒をいじめることはなかった。僕にとって朗報ではあったが、別の問題が発生してそれどころではない。足音が一つ増えたのだ。


 ひたひた。

 コツコツ。

 パタパタ。


 三人目はスリッパか、踵を潰した靴だろうか。それぞれ歩く速さは違う。だが全員、遅れずに僕についてくる。思わず耳を塞いだけれど、音は消えてくれなかった。



 一人、また一人といじめ犯が学校へ来なくなった。入院、家庭の事情、体調不良といった様々な理由だ。けれど学校を休んで一週間以内に、なぜか全員の訃報が届いた。


 彼らがいなくなると、僕の背後から聞こえる足音が増えていく。すすり泣きのような声まで聞こえてくる。ときどき押し殺したような笑い声がしたかと思うと、怒鳴り声がして静かになるのだ。


 ――うるさい。


 耳を塞いでも、頭に直接入ってくる。


 そうこうしているうちに、いじめの主犯格も学校へ来なくなった。彼は仲間が一人ずつ消えていくことに怯えていたから、心身ともに限界だったようだ。彼が家から出なくなった一ヶ月後に、僕の背後にいる足音が増えた。



***

 Kが通学していた中学校に教師の自殺に関する記録を発見。ただし名前は笹熊ではなくD田となっており、当時四十歳の女性教師である。


 集団いじめについて。いじめの記録は発見できず。複数人の生徒が死亡する事故がおきた記録を発見。しかしKが証言するような、一人につき一件の事故ではなく、クラブ活動の遠征中に乗車していたバスが横転する事故に遭っている。ただし生徒が亡くなった日付については、Kの記録と一致する。

***



 高校へ入学しても足音は相変わらず聞こえている。僕自身に何かをしてくるわけではない。不愉快さを我慢すれば、いずれ消える。そう思って付き合っていくしかなかった。


 足音は僕が気に入らない相手を狙う。これ以上増やさないためには、強い言葉を思い浮かべないことだ。気をつけるようにしていたけれど、バイトを始めた僕には少しばかり無理な話だった。


 僕が採用されたのは駅前のスーパーだった。主にレジ業務をして、品出しの手伝いもする。同じ時期に採用された女子高生と同じシフトになるのが、密かな楽しみだった。


 楽しいことは少ないけれど、辞めるほどでもない。他に良さそうなバイトもないので続けていた。


 新たな足音に加わったのは、クレームが生き甲斐のような迷惑客だった。


 レジが遅い。駐輪場の自転車が出しにくい。商品の扱いが雑。陳列が乱れていて商品が取りにくい。雨の日は床が濡れているなど、些細なことでも重大事故が起きたかのように文句を言ってきた。


 その日のターゲットは女子高生のバイトだった。


「どうしてそんなに遅いの? あなたのレジに並んでる客が見えないの? のんびりカゴに詰めてるせいで行列になってるじゃないの」

「すいません……これ以上急ぐと商品が」

「言い訳なんていらないのよ!」


 客は持っていた扇子でカートを叩いた。女子高生の肩がびくりと震える。


「嫌ね。二言目には言い訳なんて。どんな教育を受けているのかしら」

「お客様。後は私が対応しますので」


 見かねた店長が割って入ったが、客の怒りに油を注いだだけだった。


「逃げる気なの!? こっちは病院へ行かなきゃいけないのに! それなのに、あんたらのレジが遅いから遅刻しそうなの! 責任取りなさいよ!」

「……知るかよ」


 僕は菓子類の品出しをしながらつぶやいた。周囲の客はクレーマーに注目していて、誰も僕の言葉なんて聞こえていない。


 病院がそんなに大事なら、こんなところで怒鳴っている時間が無駄だ。誰もあの客の相手なんてしたくないし、買い物だって別の店へ行けばいい。


 ようやくレジから避難できた女子高生が、赤い顔でバックヤードへ入っていく。泣きそうな雰囲気ではなかった。明らかに怒っている。言葉で殴られても耐えるしかないのは、さぞ腹が立っただろう。


 僕が品出しを終えたとき、ようやく客は気が済んだのかレジを離れた。


 ――さっさと帰れよ。二度と来んな。


 ふと耳元で笑い声がした。足音は四方へ散っていく。

 今までとは違う動きだ。胃の辺りが締め付けられるように痛む。だが僕には足音を止める手段がない。



 五日後、テレビをつけると水難事故のニュースが流れてきた。観光船が転覆して、乗客の一人が犠牲になったらしい。


 報道では船の情報や当日の天気、犠牲者の写真などが出てきた。


「……え?」


 犠牲者は見覚えのある顔だった。


 スーパーの迷惑な客だ。内側を青く染めたボブカットや、口の右側だけ上がる笑い方は忘れようもない。


「また?」


 僕の背後で、何かを叩きつける音がする。怒りに任せた強い音ではなく、弱々しく等間隔で響く。僕に訴えているようにも聞こえる。


 音はそれだけではなかった。誰のものか分からない足音も増えたのだ。


 ――そういえば、あの時。


 足音は迷惑客だけでなく、四方へ散っていった。僕は不特定多数に足音を送り出したのだろう。


 足音に混ざって、叫び声も聞こえる。遠い場所から誰かの名前を呼ぶ声も。激しい水の音と共に、湿った空気を感じる。どこか生臭い空気は澱んだ川を連想させた。


 ときどき、視界の端に人間らしき姿が見える。ぼんやりとしていて、顔は分からない。白いような、灰色がかっているような。恐る恐る横を見てみるが、何もいない。


 真後ろでつぶやく声が少しだけ鮮明になった。今までは録音された音声に近かったものが、生身の人間のような気配まで感じる。水を使っている時が最も強い。洗面所の鏡は水を使っていない時しか使えない。

 シャワーを浴びていると、誰かの足が僕の足の隣に並ぶようになった。



***

 水難事故の記録を発見。ただし死者は駅前のスーパー●●で勤務する店長Gだった。観光船が岩礁にぶつかり転覆した。だが検死の結果、首を絞められた後に海へ投げ出されたと判明。犯人は見つかっていない。


 Gの首に残されていた絞殺痕は不可解な点がある。形状は人間の手に似ているが、指が二倍の長さだった。指の先端には尖ったものを装着していたのか、皮膚に食い込んだ痕を確認。


 なおKのアルバイト先はスーパー●●ではなく隣の飲食店だった。


 再現された擬似人格やKが残した手記との乖離は、年月と共に大きくなっていくようだ。

***



 社会人になり、心身ともにすり減る毎日になった。


 朝になって会社へ行って、帰ってくる。その繰り返しだ。仕事は多いのに給料は増えてくれない。上司に割り振る仕事を減らしてくれと言いたくても、その上司も抱えている仕事が多く、交渉するのはためらわれた。


 このまま変わり映えのしない生活が続くのだろうか。


 足音は僕の事情なんてお構いなしに、相変わらずうるさい。入社した頃は時々しか聞こえてこなかった音は、ここ最近毎日聞こえてくる。眠れずに睡眠薬を飲んでみたけれど、足音は夢の中にまで侵食してきた。


「大丈夫か?」


 ある日、上司が僕の肩に手を置いた。振り返りたくない。


「大丈夫です」

「そうは見えないんだがな」


 上司の言葉に覆い被さるように、誰かのすすり泣きが聞こえる。十数人分の音と気配、ボソボソとした喋り声が僕の集中力を乱してくる。


「今日はもう休め。倒れそうな顔してるぞ」


 上司に言われて、僕は渋々早退することになった。


 駅のホームで電車を待っている時、ふとここへ飛び込んでみようかと思う自分がいた。階段を上がっていると、後ろへ倒れると楽になるかもしれないと考えてしまう。駐車場を封鎖しているロープを見て、自分の首に同じものがかかっている感触がした。


 走っている車の前に飛び出してみたい。高いビルの屋上へ登って、空を飛んだら気持ち良いだろう。


「待て待て。違うだろう」


 僕はそんなことを考える人間じゃなかったはずだ。きっと疲れているせいだ。音が僕を休ませてくれないから、よからぬことを考えているだけだ。


 楽になりたい。

 眠りたい。


 子どもの頃からずっと、自分の後ろを歩いている何かから逃げたい。


 一度は家に帰った僕は、また外へ出た。行くあてもなく歩いているつもりでも、足は実家のある方向へ向かってしまう。体の中に磁石でもあるかのように。



***

 Kの通院歴を発見。鬱と診断され、睡眠薬を処方されている。勤務していた会社を無断欠勤し、●川へ向かったと思われる。

***



 懐かしい川へ来た。子供の頃に近所の子供と遊んだ場所だ。今は満潮なのだろう。広い川幅いっぱいに水が流れている。


 僕は川に近づいた。太陽はとっくに沈み、暗い水面に町の灯りが反射している。光に混ざって僕の顔も見えた。


「……な、んで?」


 おかしい。僕の顔が水面に見えている。鏡でもあるまいし。

 水の中の僕はどんどん若返り、ニタリと笑った。


「違う、お前は」


 僕の顔ではない。彼の名前を呼ぼうとして、僕は喉が詰まる。


 ここにいないはずの子供だ。昔、近所に住んでいた一つ年上の子で、僕は彼のことが嫌いだった。乱暴で、わがままで、人の話なんて聞かない。僕はいつも彼に振り回されていたのだから。


 夏休みは特に憂鬱だった。彼の秘密基地作りや虫取り、競争にいつも付き合わされる。毎日のように家まで迎えに来ては外へ連れ出して、夕方まで開放してくれない。


 あの日も、二人でこの川へ来ていた。台風が過ぎ去った後で増水した川は流れが速く、濁っている。彼は川に網を入れて、見えない場所にいる魚を取ろうと言い出した。


「無理だよ。こんなところで魚なんて取れないって」

「やってみないと分からないだろ」


 どうせすぐに諦めるだろうと思って、僕は止めなかった。ところが予想に反して彼は何度も網を川へ入れている。


 すっかり暇になった僕は先に帰ろうと声をかけたとき、彼の体が大きく傾いた。


「あっ」


 一瞬のことだった。彼は水飛沫をあげて川へ落ち、あっという間に見えなくなる。


 僕は動けなかった。助けようとして川へ入ったら、僕も流されてしまう。それに彼の体に絡みつく白い腕が見えた。あれに捕まりたくない。きっと彼が何度も網を入れたから、あの腕の持ち主が怒ったのだ。


 堤防の上にある道には、まばらに通行人がいる。誰か見ていただろうか。このまま帰ったら、僕が彼を突き落としたと思われるかもしれない。


「誰か……」


 僕は川から離れた。堤防の道で大人に助けを求めよう。そう決めたのに、いざ大人が近づいてくると、途端に勇気が萎んで声をかけられなかった。


 顔見知りが流されていく光景を信じたくなかったのだ。誰かに話せば、現実なのだと再確認してしまう。


 結局、僕は誰にも話しかけられず、学校にいた教師に助けを求めた。

 彼が見つかったのかどうか、僕は知らない。



 ――あの日からだ。足音がするのは。


 僕の意識は過去から現在へ戻ってきた。


 水面には彼の顔が見えている。僕を無理やり遊びに誘ってきた時の、悪意のない笑顔だ。


「一緒に遊ぼう」


 彼の声がした。声変わり前の幼い声は、夜中の河川敷で聞くと怖さが引き立つ。

 水面の顔が歪んで、眼窩が黒く変わる。


 後ろに誰かがいる。僕の横に足が並んでいる。とうとう膝まで現れるようになった。


 右足が勝手に動く。川の流れは穏やかで、黒くうねっている。ゼリーのような水面に手を入れたら、きっと気持ちが良いに違いない。


 また足音が増えた。背中に触れる直前に止まって、僕の行動を待っている。後ろは見たくない。きっと彼がいる。白い腕に連れ去られた彼が。


 ほら、水中から誘っている。腕が。僕は帰りたくなった。家へ。水の中へ。

 誘われたから。帰らないと。帰る。


 もう膝まで水の中に入った。足音が僕の背中を押している。早く早くと急かして、逃げられないように足を引っ張って。


 もうじき僕は沈んで。

 ようやく開放される。

 音がない場所へ。


 ●●はずっと僕の中で音を発していた。水から出てきてまた水の中へ帰るために。どうして僕が選ばれたのか知るよしもない。だって寄生される側の意見なんて聞く存在じゃないし、僕はこの瞬間まで存在すら知らなかったのだから。知ったところでどうにもならな――



***

 Kの擬似人格の崩壊を確認。数度の再現を試みるが、いずれも同じ場面で破裂、もしくは砂状に崩れる。異形種の存在をKが認知した時に、精神崩壊を引き起こしたと推測。


 Kの出身地を管轄とする警察署・消防署の記録を調査したが、Kの子供時代に水死事故に関する記録を発見できず。彼が「大規模な捜索」と記憶している日付に誤りがあるものと仮定して、調査範囲を半年に広げたが該当なし。子供の水死で調査した結果、Kが記載した日付より二十年前に●川で水難事故が起きた記録を発見。


〈中略〉


 以上の調査内容を分析した結果、Kが聞いた足音は異形種によるものと判断される。殺傷能力、影響範囲は非常に狭いが、感染力が強いため第二種へ分類。


 精神に干渉して異形種のところへ導く性質あり。


 現地調査を担当した調査員及びKの遺体を調べた医師Oに、足音の幻聴を確認。隔離施設にて異形の種を確認。引き剥がしによる治療を実施。調査員Yに利き腕の軽い麻痺。医師Oに突発性の難聴。現在は快方へ向かっている。


〈中略〉


 追記


 文字情報でも感染を確認。調査報告書も異界汚染されている可能性あり。感染被害を拡大させないため、この調査報告書を封印指定とし、地下隔離区画での保管を推奨。



 もし背後から裸足の足音がした場合は、内閣府異形対策室まで連絡されたし。


     主任担当調査官 四屋敷(よつやしき) 尚史(なおふみ)

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