静寂の白昼夢
足場にしていた木製の椅子から、足を踏み外した。
机で黙々と読書をしていた葵は、響き渡った晴嗣の声にはっと顔を上げた。
仰向けに倒れている晴嗣は、一体何が起こったのかと事態を飲み込めないでいる。
大の字に横たわっている晴嗣を見つけた葵は、くっくと笑い、早く起きなよと手を貸した。
晴嗣は、立ち上がりざま葵に礼を言った。
最近塞ぎ込んでいる様子だった葵の笑い声を聞いたのは久し振りだった。
「だから、こんなボロボロの椅子を使うのはやめろって言ったのに。
それぞれ脚の長さが違うんだ。
座るならまだしも、立つなんて危ないよ」
葵は椅子を立て、左手でグラグラと揺らしてみせる。
見るからに手作りである椅子は体重をかけられたせいでギシギシと鳴いた。
だが、そう言う彼の口調に咎める調子はなかった。
晴嗣は二度目の礼を言い、椅子から落ちた反動で手から落としてしまった本を拾い上げた。
借りる者がなく、本棚の一番上から長年高みの見物をしていた本は埃まみれになっている。
晴嗣が本の埃を払うと、灰色かと思われた表紙の色が深い藍色なのだと知れた。
「そんな本の、何がいいのかオレには分からない」
中身をパラパラ開いていた晴嗣に葵は首を傾げ、自分も読み止しの本があったことを思い出し席に向かった。
「オレには葵の読んでる本の面白さが分からないな」
葵の後を追いながら、晴嗣は不満そうに言う。
「そういうのは、本じゃなくて教科書って言うんじゃないの?」
葵の向かいの椅子に腰を掛け、晴嗣は再び読書を始めた葵の手元を覗き込んだ。
挿絵などはなく、ややこしそうな公式やその解説らしき文章がびっしりと、見たこともない外国の言葉で書かれているのである。
ともともと数学や理科の苦手な晴嗣にしてみれば、一生手に取ることのない本であることは明らかであった。
そんな本に興味を抱く葵は、すでに晴嗣の存在すら忘れてしまった様子で、ひたすら目で文字を追っている。
その様子を見、晴嗣は目的の本を借りるため入り口付近の受付に向かった。
貸し出しの手続きを済ませていると、ふと視線を感じ、受付の奥に顔を向けた。
見覚えのない少女が晴嗣を見つめていた。
「晴」
呼び声に後ろを振り返り、葵の姿を認めた晴嗣は彼に耳打ちをする。
「あそこにいる子、誰か知ってる? 睨まれてるのはどうしてだろ」
「あそこって?」
「あの、受付の奥でファイルを整理している子」
言いながらその方向に指を差すが、晴嗣の指の先には青空の覗く窓があるだけで、人影はない。
カウンターに座っていた受付の女性が、訝しげに晴嗣を一瞥した。
「さっき落ちたときに頭を打ったんじゃないか」
受付の女性が投げる視線に気づいた葵は、ぽかんとしている晴嗣の腕を掴んだ。
「そろそろ帰ろう、お腹が空いた」
「今、確かにそこにいたんだ」
出入り口に向かって歩き出したに引きずられながらも、晴嗣は再三に渡り後ろを振り返った。
が、先ほどの少女の姿はどこにもない。
晴嗣は、子供にするように分かった分かったと宥める葵に口を尖らせた。