第七章 毘沙門天の降臨 第7-2話 廊下の男
翌朝も、灯真のことを思い出した。
思い出すつもりはなかった。
朝餉の膳を前に、直江の声を聞いていた。
家督相続の儀式の段取り。招かれる国人衆の数。席次。宴の手順。
聞きながら、うなずきながら。
「——景虎様」
「何だ」
「……少し、遠い目をしておられます」
景虎は直江を見た。
五十に近い、硬い顔。
心配と警戒が、半々に混じった目。この男はいつも、両方の目で儂を見ている。
「問題ない」
「はい」
「続けろ」
直江が書類に目を戻した。
声を聞きながら、景虎は夜明けの廊下を思い出していた。
疲れていますか、と言った男。
そうですか、と言って行ってしまった男。
(……なぜ覚えているのか)
声をかけられたから覚えている。ただそれだけのことだ。
そう思っても、思い出すのは止まらなかった。
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昼過ぎ、炉場の方向を通った。
用があって通ったわけではなかった。
通り道に、なっていたかどうかも——正確にはわからなかったが。
戸の前に差し掛かると、中から声が聞こえた。
「もう一度、底の厚みを計ってくれ」
灯真だった。
「はーい。どこを——ここですか」
才助の声が続いた。
「そこ。正確に」
「うーん……九分くらいですか」
「八分半だ。測り方の問題だ。見せろ」
「……はい」
景虎は足を止めていた。
止まるつもりはなかった。
中の声は続いた。
何かを叩く音。数字を呼ぶ声。才助の情けない唸り。灯真の、静かで揺れない指摘。
(……あの男は、こういう声をするのか)
儂に向ける声とは、違う。
儂に対しては必ず、どこかに一本——細いが確かな線が入っている。緊張ではなく、距離、とでも言うような。
才助に対しては、それがなかった。
ただ仕事をしている人間の声だった。
景虎は静かに、その場を離れた。
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夕方、毘沙門堂の前を通った。
昨夜と似たような光の色の時間だった。
足が止まった。
昨夜ここで儂は、何かを確定させた。
軍神になることを、受け入れた。
それは正しかった。
正しかったのに——昨夜の廊下のことを、まだ思い出している。
疲れていますか。
そうですか。
たった二言。
なぜそれが——。
「……余計なことを」
誰にでもなく、呟いた。
春の風が吹いた。
毘沙門堂の周りの木が、静かに揺れた。
あの男は、儂が答えた後、何も続けなかった。
同情も、心配も、余計な言葉も——なかった。
ただ「そうですか」と言って、行った。
(……何を考えている男なのか)
答えは出なかった。
明日は、儀式がある。
景虎は歩き出した。
胸の引っかかりを、また後回しにしながら。




