第七章 毘沙門天の降臨 第7-1話 神の夜
天文20年(1551年)春
春日山城の毘沙門堂に、春の夜が満ちていた。
灯火がひとつ。揺れていた。
長尾 景虎は目を閉じたまま、その揺れを感じていた。
瞼の裏で、炎の色が変わるのがわかった。
金色から、青白へ。
そして——声が来た。
「……汝は我が器。戦の神たれ」
低く、深く、身体の内側から響く声。
骨に直接触れるような。
知っていた。
この声を、景虎は幼い頃から知っていた。
栃尾城の冷えた夜に、最初にこの声を聞いてから、何度この声に支えられてきたことか。恐れはない。恐れたことは一度もなかった。
ただ——。
今夜は、少し重く聞こえた。
(……なぜか)
目を開けなかった。
開けてしまえば、儂は答えを出さなければならない気がした。
「汝は今宵より、完全な器となる。感情は重い。感情は迷いを産む。捨てよ」
「……わかっている」
声に出して答えた。
こうして声にして答えるのは、初めてかもしれなかった。これまではいつも、胸の中でだけ応じてきた。
今夜は違う。今夜ここに来たのは、確認するためだった。
「これで完全に、儂は人ではなくなる」
炎の色が、さらに青く深くなった。
毘沙門堂の空気が変わった。ひんやりと、静かに、清められていくような感触。
「軍神になる」
景虎は膝の上に置いた手を、少し強く握った。
「……それでいい。そうするために生まれてきた」
声が沈黙した。
沈黙は問いだった。
「本当にそう思うか」
……問いではなかったかもしれない。ただ、景虎の中の何かが、そう聞いた。
景虎は答えた。
「思う」
「……感情を削ることの意味を、わかって言うか」
「わかって言う」
静かだった。
毘沙門堂の外に、春の虫の声がした。遠く、小さく、この場所とは別の世界にいるように。
儂は、軍神の器として生まれてきた。
父がそう言い、直江がそれを守り、宇佐美がそれを支えた。越後の民は儂に軍神を求め、儂は戦場でそれに応えてきた。
感情を削ることは——代償だった。
しかし代償のない力など、存在しない。
「契約は成る。戦の器として——在れ」
炎の色が揺れた。
一瞬だけ、金に戻った。
そして、消えた。
灯火だけが残った。ただの火。人が灯した、ただの炎。
景虎はゆっくりと目を開いた。
毘沙門堂の中は、いつもの静けさに戻っていた。
壁の影。天井の暗がり。祭壇の上の毘沙門天の像。
何も変わっていない。
何も変わっていないのに、景虎の中で何かが——確定した。
(受け入れた)
膝の上の手の力を、ゆっくりと解いた。
冷たかった。気づいていなかったが、掌に汗をかいていたらしく、それが夜気に触れて冷えた。
景虎は立ち上がった。
足が少し重かった。
疲れている。
毘沙門天との対話は、体力を使う。身体的な消耗ではない。もっと深い場所の何かを使う感覚。儂は毎回このことを忘れて、毎回同じように驚く。
毘沙門堂の戸を引いた。
春の夜の空気が、ひと息に入ってきた。
湿っていた。霞んでいた。
外が、白み始めていた。
春の夜明けは早い。気づかなかったが、もう一晩が終わろうとしていた。
景虎は夜明けの空を見上げた。
白い。静かな、白い空。
(今日から、儂は越後の軍神だ)
そう思った。
そう思って——感慨というものが、なかった。
それでよかった。感慨のようなものは、重い。感情は、迷いを産む。
やるべきことをやる。戦う。越後を守る。民を守る。
それだけを考えていれば、いい。
景虎は一歩、廊下に踏み出した。
---
廊下に、人がいた。
景虎は止まった。
反射的に手が柄に行きそうになって——止めた。護衛ではない。気配が違う。
人影が、こちらを向いた。
橘 灯真だった。
手に行灯を持っていた。着流しで、甲冑も刀もなかった。
二人は数瞬、向き合ったまま動かなかった。
「……なぜここにいる」
灯真が少し考えてから答えた。
「炉の残り火を確認しに来ていました」
「この時間に」
「昨日炉を使いました。炉を使った日の夜は、必ず残り火を確認します。研究者の習慣なので」
理由になっているようで、なっていないような返答だった。
しかし嘘はついていない。この男はそういう男だ。
「……邪魔をするな。通れ」
そう言おうとした。
言えなかった。
灯真の目が、こちらを見ていた。
軍神を見る目ではなかった。
越後の主を見る目でも、毘沙門天の器を見る目でも——なかった。
何を見ているのか。
「……疲れていますか」
声だった。
低く、静かな、問いかけ。
景虎は返す言葉を探した。
「余計なことを」
言いかけて、止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。
返す言葉を、探し続けた。
見つからなかった。
「……少し」
声に出してから、自分の答えに驚いた。
正直に、答えてしまった。
灯真が「そうですか」と言った。
頷いて、廊下を歩いた。
行灯の光が遠ざかって——消えた。
景虎はしばらく、そこに立っていた。
神の降臨の直後に、あの男は儂の顔を見た。
軍神の顔ではなく——疲れた人間の顔を。
「……あの男は、何を見ているのか」
誰も聞いていない廊下で、声が出た。
夜が明けていった。
春の白い光が、廊下に差し込んでくる。
景虎の胸の中に、小さな——何かが残った。
引っかかり、とでも言うべき何か。
なんなのかは、わからなかった。
景虎は歩き出した。
今日から、越後の軍神だ。
やるべきことをやる。
胸の引っかかりは——後回しでいい。
後回しに、した。




