第五章 秘密の夜
天文19年(1550年)冬
才助の後を追って廊下を走った。
城の奥の方へ向かっている。
「景虎様の部屋か」
「そうだ」
「傷はどこに」
「わからん。俺は呼ばれただけで——」才助が走りながら言った。「矢が当たったとだけ聞いた」
矢傷。
灯真は頭の中で処置を整理した。
矢が刺さったままか、抜けているか。出血の量。感染のリスク。
道具が何もない。
手ぬぐいと、水と、あとは——
「才助殿、湯と清潔な布を用意してもらえますか」
「わかった」
才助が別の廊下へ折れた。
灯真は一人で先へ進んだ。
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部屋の前に武者が二人、立っていた。
灯真の顔を見て、一人が「お前は」と言った。
「才助殿に呼ばれた。手当てができるか確認してほしいと」
二人が顔を見合わせた。
「……入れ」
片方が言った。
灯真は戸を開けた。
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部屋の中は薄暗かった。
行灯が一つだけ、隅に置かれている。
甲冑を纏ったまま、景虎が壁に寄りかかっていた。
「……何をしに来た」
低い声だった。
しかし、いつもより少し薄い。
「手当てをします」
「要らぬ」
「傷はどこですか」
「要らぬと言った」
灯真は部屋に入った。
行灯を手に取って、景虎の近くに寄せた。
甲冑の右側、腰の辺りに——黒い染みが広がっていた。
「死にますよ」
静かに言った。
景虎が灯真を見た。
怒りか。それとも別の何かか。判断がつかなかった。
「……矢は抜けている」
「わかりました。甲冑を外させてください」
景虎は答えなかった。
しかし拒否もしなかった。
灯真はそれを許可と受け取って、甲冑の留め具に手をかけた。
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胴の部分を外して、横に置いた。
その下に、着物があった。
着物の右側が、赤く濡れていた。
「着物も、外さないといけません」
また、返事がなかった。
灯真は着物の合わせに手をかけた。
そして——
手が、止まった。
傷は、右の脇腹にあった。
深くはない。矢は抜けている。出血はまだ続いているが、命に関わる量ではない。
それは確認できた。
しかし灯真の目は、そこから動かなかった。
着物が開いた状態で、行灯の明かりが、景虎の体に当たっていた。
甲冑の下に、ずっと隠されていたもの。
武者として、軍神として、この城の主として——隠し続けてきたもの。
それが今、灯真の目の前にあった。
灯真は研究者だった。
観察する。認識する。結論を出す。
それが染み付いた人間だった。
だから——わかった。
一瞬で、明確に、わかった。
そして同時に、口を閉じた。
言葉が出なかったのではない。
出さなかった。
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長い沈黙があった。
行灯の炎が、揺れていた。
景虎は灯真の目を見なかった。
灯真も、景虎の目を見なかった。
一拍。
二拍。
三拍。
「……忘れろ」
景虎が言った。
低く、静かな声だった。
命令だった。
しかしその声の奥に——命令ではない何かが混じっているように、灯真には聞こえた。
何かを、必死に押し込めているような。
灯真は何も言わなかった。
手を動かした。
傷に向かって、手を動かした。
出血を確認する。深さを確認する。
矢は抜けている。傷口は開いたままだった。
才助が湯と布を持ってきた。
戸の外から「入るか」と聞いた。
「布だけ渡してください」
布が差し入れられた。
灯真は布を湯で濡らした。
傷口を拭いた。
丁寧に、しかし迷わずに。
景虎は動かなかった。
声も出さなかった。
ただ、壁に寄りかかったまま、どこか遠くを見ていた。
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傷口を塞ぐのに時間がかかった。
布を圧迫して、出血を止める。
感染を防ぐ薬はない。縫合する道具もない。
できることは、清潔に保って、しっかり圧迫することだけだった。
その間、二人は一言も話さなかった。
行灯の炎が揺れる音だけが、部屋にあった。
灯真は傷だけを見ていた。
景虎の顔は見なかった。
見ないことが、今この場でできる唯一の礼儀だと思った。
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血が止まった。
布を固定して、灯真は手を離した。
「終わりました」
景虎が、ゆっくりと体を起こした。
灯真は後ろを向いた。
背中で、着物を整える気配がした。
甲冑を身につける音がした。
それが終わるまで、灯真は後ろを向いたままでいた。
しばらく、何も言わなかった。
それから景虎が、灯真の背中に向かって言った。
「明日からこれまで通りに仕えろ」
「……はい」
灯真は答えた。
振り返らずに、答えた。
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部屋を出た。
才助が廊下で待っていた。
「どうだった」
「傷は塞がりました。深くはなかった」
「景虎様は」
「大丈夫です」
才助が息を吐いた。
「……お前、顔色が悪いぞ」
「そうですか」
「中で何かあったか」
「手当てをしました」
才助がしばらく灯真を見た。
それ以上は聞かなかった。
灯真は動かなかった。
廊下の端に立って、外を見た。
雪が降っていた。
音もなく、ただ白く、城の庭を埋めていた。
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(なぜ、この人はこんな重いものを一人で背負っているのか)
問いが、頭の中に残っていた。
答えは出なかった。
出す必要もない、と思った。少なくとも今夜は。
炎の声が言っていた女のことを考えた。
砕けそうになっている、と言っていた。
(……そうか)
何かが、繋がった気がした。
確信ではない。
しかし、仮説として保留するには十分な感触だった。
今夜わかったことは、一つだけだった。
この人は、一人だ。
甲冑の下に、誰にも見せられないものを抱えて、一人で立っている。
それがどれほど重いことか——灯真には、想像しかできなかった。
しかし想像するだけの手がかりは、今夜、得た。
雪が降り続けていた。
城の庭が、静かに白くなっていった。
灯真はしばらくそこに立ってから、部屋に戻った。
行灯の火を見た。
炎が、静かに燃えていた。
いつもと同じ炎だった。
しかし今夜だけは、その炎を見ながら、灯真は何も考えなかった。
ただ、見ていた。
燃えていることを、確かめるように。
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翌朝、景虎は何事もなかったように広間にいた。
甲冑を纏い、直江と何かを話していた。
灯真が通りかかると、景虎が一瞬だけ目をやった。
何かを確かめるような目だった。
しかしすぐに、景虎は直江の方へ目を戻した。
灯真も、廊下を歩き続けた。
これまで通り、だった。
景虎が言った通りに、これまで通りだった。
しかし昨日と今日の間で、何かが変わっていた。
それが何かを、灯真はまだ言葉にできなかった。
言葉にしなくていい、とも思っていた。
炉の前に行った。
火を入れた。
炎が上がった。
今日も、炎の前で仕事をする。
昨夜のことは、誰にも言わない。
景虎が言った通りに、忘れる——ふりをする。
それが今の灯真にできる、唯一のことだった。




