表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
越後の軍神に愛された男〜軍神の正体は女性でした。傍に居続けたのは俺だけです〜  作者: 大夢虎鈴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/18

第五章 秘密の夜

天文19年(1550年)冬



才助さいすけの後を追って廊下を走った。


城の奥の方へ向かっている。


「景虎様の部屋か」


「そうだ」


「傷はどこに」


「わからん。俺は呼ばれただけで——」才助が走りながら言った。「矢が当たったとだけ聞いた」


矢傷。


灯真は頭の中で処置を整理した。


矢が刺さったままか、抜けているか。出血の量。感染のリスク。


道具が何もない。


手ぬぐいと、水と、あとは——


「才助殿、湯と清潔な布を用意してもらえますか」


「わかった」


才助が別の廊下へ折れた。


灯真は一人で先へ進んだ。


---


部屋の前に武者が二人、立っていた。


灯真の顔を見て、一人が「お前は」と言った。


「才助殿に呼ばれた。手当てができるか確認してほしいと」


二人が顔を見合わせた。


「……入れ」


片方が言った。


灯真は戸を開けた。


---


部屋の中は薄暗かった。


行灯あんどんが一つだけ、隅に置かれている。


甲冑を纏ったまま、景虎かげとらが壁に寄りかかっていた。


「……何をしに来た」


低い声だった。


しかし、いつもより少し薄い。


「手当てをします」


「要らぬ」


「傷はどこですか」


「要らぬと言った」


灯真は部屋に入った。


行灯を手に取って、景虎の近くに寄せた。


甲冑の右側、腰の辺りに——黒い染みが広がっていた。


「死にますよ」


静かに言った。


景虎が灯真を見た。


怒りか。それとも別の何かか。判断がつかなかった。


「……矢は抜けている」


「わかりました。甲冑を外させてください」


景虎は答えなかった。


しかし拒否もしなかった。


灯真はそれを許可と受け取って、甲冑の留め具に手をかけた。


---


胴の部分を外して、横に置いた。


その下に、着物があった。


着物の右側が、赤く濡れていた。


「着物も、外さないといけません」


また、返事がなかった。


灯真は着物の合わせに手をかけた。


そして——


手が、止まった。


傷は、右の脇腹にあった。


深くはない。矢は抜けている。出血はまだ続いているが、命に関わる量ではない。


それは確認できた。


しかし灯真の目は、そこから動かなかった。


着物が開いた状態で、行灯の明かりが、景虎の体に当たっていた。


甲冑の下に、ずっと隠されていたもの。


武者として、軍神として、この城の主として——隠し続けてきたもの。


それが今、灯真の目の前にあった。


灯真は研究者だった。


観察する。認識する。結論を出す。


それが染み付いた人間だった。


だから——わかった。


一瞬で、明確に、わかった。


そして同時に、口を閉じた。


言葉が出なかったのではない。


出さなかった。


---


長い沈黙があった。


行灯の炎が、揺れていた。


景虎は灯真の目を見なかった。


灯真も、景虎の目を見なかった。


一拍。


二拍。


三拍。


「……忘れろ」


景虎が言った。


低く、静かな声だった。


命令だった。


しかしその声の奥に——命令ではない何かが混じっているように、灯真には聞こえた。


何かを、必死に押し込めているような。


灯真は何も言わなかった。


手を動かした。


傷に向かって、手を動かした。


出血を確認する。深さを確認する。


矢は抜けている。傷口は開いたままだった。


才助が湯と布を持ってきた。


戸の外から「入るか」と聞いた。


「布だけ渡してください」


布が差し入れられた。


灯真は布を湯で濡らした。


傷口を拭いた。


丁寧に、しかし迷わずに。


景虎は動かなかった。


声も出さなかった。


ただ、壁に寄りかかったまま、どこか遠くを見ていた。


---


傷口を塞ぐのに時間がかかった。


布を圧迫して、出血を止める。


感染を防ぐ薬はない。縫合する道具もない。


できることは、清潔に保って、しっかり圧迫することだけだった。


その間、二人は一言も話さなかった。


行灯の炎が揺れる音だけが、部屋にあった。


灯真は傷だけを見ていた。


景虎の顔は見なかった。


見ないことが、今この場でできる唯一の礼儀だと思った。


---


血が止まった。


布を固定して、灯真は手を離した。


「終わりました」


景虎が、ゆっくりと体を起こした。


灯真は後ろを向いた。


背中で、着物を整える気配がした。


甲冑を身につける音がした。


それが終わるまで、灯真は後ろを向いたままでいた。


しばらく、何も言わなかった。


それから景虎が、灯真の背中に向かって言った。


「明日からこれまで通りに仕えろ」


「……はい」


灯真は答えた。


振り返らずに、答えた。


---


部屋を出た。


才助が廊下で待っていた。


「どうだった」


「傷は塞がりました。深くはなかった」


「景虎様は」


「大丈夫です」


才助が息を吐いた。


「……お前、顔色が悪いぞ」


「そうですか」


「中で何かあったか」


「手当てをしました」


才助がしばらく灯真を見た。


それ以上は聞かなかった。


灯真は動かなかった。


廊下の端に立って、外を見た。


雪が降っていた。


音もなく、ただ白く、城の庭を埋めていた。


---


(なぜ、この人はこんな重いものを一人で背負っているのか)


問いが、頭の中に残っていた。


答えは出なかった。


出す必要もない、と思った。少なくとも今夜は。


炎の声が言っていた女のことを考えた。


砕けそうになっている、と言っていた。


(……そうか)


何かが、繋がった気がした。


確信ではない。


しかし、仮説として保留するには十分な感触だった。


今夜わかったことは、一つだけだった。


この人は、一人だ。


甲冑の下に、誰にも見せられないものを抱えて、一人で立っている。


それがどれほど重いことか——灯真には、想像しかできなかった。


しかし想像するだけの手がかりは、今夜、得た。


雪が降り続けていた。


城の庭が、静かに白くなっていった。


灯真はしばらくそこに立ってから、部屋に戻った。


行灯の火を見た。


炎が、静かに燃えていた。


いつもと同じ炎だった。


しかし今夜だけは、その炎を見ながら、灯真は何も考えなかった。


ただ、見ていた。


燃えていることを、確かめるように。


---


翌朝、景虎は何事もなかったように広間にいた。


甲冑を纏い、直江なおえと何かを話していた。


灯真が通りかかると、景虎が一瞬だけ目をやった。


何かを確かめるような目だった。


しかしすぐに、景虎は直江の方へ目を戻した。


灯真も、廊下を歩き続けた。


これまで通り、だった。


景虎が言った通りに、これまで通りだった。


しかし昨日と今日の間で、何かが変わっていた。


それが何かを、灯真はまだ言葉にできなかった。


言葉にしなくていい、とも思っていた。


炉の前に行った。


火を入れた。


炎が上がった。


今日も、炎の前で仕事をする。


昨夜のことは、誰にも言わない。


景虎が言った通りに、忘れる——ふりをする。


それが今の灯真にできる、唯一のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ