第四章 越後の冬
天文19年(1550年)冬
城での日々が始まった。
処遇は宙ぶらりんのままだった。
牢でもない。客間でもない。
城の端の一室に置かれて、「当面はそこにいろ」という状態が続いていた。
仕事は才助の炉を手伝うことで、それ以外に特に命じられることはなかった。
自由とも言えるし、どこにも属していないとも言えた。
(どちらでもいい)
灯真は炉の前に座りながら、そう思っていた。
炉があれば、考えることがある。
考えることがある間は、落ち着いていられた。
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城での立場を一番わかりやすく示していたのは、直江の態度だった。
毎朝、確認に来る。
灯真の仕事を見る。
何も言わずに去る。
それが毎日続いた。
信用していない。それは明らかだった。
いや——信用していない、というより、警戒している、という方が正確だろう。
灯真は観察しながらそう判断していた。
直江の目は、危険なものを見る目だった。
刃や火を見る時のような、距離を置いた目。
(俺は、あの男にとって刃か火に見えているらしい)
なぜそう見えるのか、灯真にはまだわからなかった。
炉の前で作業しながら、空いた時間にそれを考えた。
出した仮説はいくつかあった。
素性不明の男を城に置くことへの当然の警戒。
あるいは——何か別の理由。
答えはまだ出なかった。
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十日が経った頃、宇佐美 定満が炉を見にきた。
「才助、どうだ」
「……腕はある。ただ何を考えているのかよくわからん」
「灯真、お前は何を考えている」
「今は炭の熱量の計算をしていました」
「熱量」
「どれだけの炭でどれだけの温度が出るか、です。効率を上げたいので」
宇佐美が才助を見た。
才助が肩をすくめた。
「……そういう男なんです」
宇佐美が愉快そうに笑った。
廊下に立っていた直江が、無言で宇佐美の隣に来た。
「宇佐美殿、この男をこのまま置いておいてよいものか」
「なぜ」
「素性が知れない。炎の声を聞いたなどという話も——」
「信じていないのか」
直江が黙った。
「信じていないのと、信じられないのは、別だ」宇佐美が言った。「直江、お前はこの男が怖いのか」
「怖いとは——」
「刃が怖いのか。それとも、この男が何かを変えることが怖いのか」
直江が灯真を見た。
灯真は炉に向き直った。
この会話に割り込む気はなかった。
しかし宇佐美の言葉は、耳に残った。
(何かを変えることが怖い——か)
直江が何を守ろうとしているのか。
その輪郭が、少しだけ見えた気がした。
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直江が硝石の話を持ち出したのは、それから五日後だった。
朝、炉の前に来て、いつも通り腕を組んで灯真の作業を見ていた。
しばらくして、口を開いた。
「硝石を扱えると言ったな」
「はい」
「精製から、と」
「できます。材料があれば」
「越後の火薬は純度が低い。雨が続くと湿気て使えなくなる」
「硝石を一度溶かして再結晶させれば、純度が上がります。雨にも強くなる」
「……やったことがあるのか」
「似たことは。ここでやるなら少し工夫が要りますが」
直江がしばらく黙っていた。
「材料を用意する」
それだけ言って、去ろうとした。
「直江殿」
直江が足を止めた。
「何だ」
「精製の段階では爆発しません。念のため」
直江が振り返った。
「……なぜそれを言う」
「心配しているように見えたので」
沈黙があった。
「……用意する」
直江が廊下を去った。
才助が小声で言った。
「お前、直江様に何か言うのか。普通は言わんぞ」
「必要なことだったので」
「直江様は怖くないのか」
灯真は少し考えた。
「怖いとは思っていません。警戒されているとは思っていますが」
才助が複雑な顔をした。
「……変わった男だな、お前は」
「よく言われます」
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材料が揃うまでの間、灯真は炉の改良の記録をつけた。
どこをどう変えて、温度がどう変わったか。
炭の配置。空気の流れ。燃焼時間。
才助が横から覗いた。
「何を書いている」
「記録です。後で見返せるように」
「……お前、字が読めるのか」
「一応」
「どこで学んだ」
「遠いところで」
才助が「また遠いところか」と呟いた。
「それ以外に答えようがないんですよ」
「怪しいな」
「よく言われます」
才助が鼻を鳴らした。
「まあいい。腕があるなら出自は関係ない」
職人の論理だった。
灯真はそれが、少し気に入った。
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硝石の精製を始めたのは、材料が届いてから三日後だった。
工程は頭の中にある。しかし道具が違う。火力の調整が違う。
現代の実験室と、ここは、同じ反応でも全く別の作業だった。
一回目。結晶が粗すぎた。
二回目。温度が上がりすぎて焦げた。
三回目。ようやく安定した結晶が取れた。
才助が横で見ていた。
「……できたのか」
「一応」
「何回やり直した」
「三回」
「お前、諦めないな」
「失敗しないと次に何をすべきかわからないので」
才助が腕を組んだ。
「鍛冶と同じだ」
「そうですか」
「刃を打つのも、最初から上手くいくことはない。何度も焼いて、叩いて、形にする」
才助が灯真の手元の結晶を見た。
「……お前の炎の見方は、鍛冶師に近い」
「褒めていますか」
「褒めている」
今度は才助が先にそう言った。
灯真は少し意外に思いながら、「ありがとうございます」と答えた。
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精製した硝石を直江に渡すと、直江は無言でそれを見た。
「これが」
「純度を上げた硝石です。同じ量でも火力が上がります。湿気にも強い」
「証明できるか」
「比べてみれば分かります。今あるものと、これとを同量ずつ燃やせば」
直江がしばらく考えた。
「宇佐美殿を呼ぶ」
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宇佐美の前で、比較を見せた。
同量の旧来の火薬と、精製した硝石で作った火薬。
石の上に置いて、順に点火した。
結果は明らかだった。
宇佐美が顎に手を当てた。
「なるほど」
「さらに形状を工夫すれば、爆風の向きも制御できます」
「爆風の向きを」
「はい。今はまだ試していませんが、理屈の上では」
宇佐美が灯真を見た。
将棋の駒を眺める時と似た目だった。
「直江」
「はい」
「この男をもう少し自由に動かせ」
直江が灯真を見た。
「……よろしいのですか」
「役に立つ者を縛っておくのはもったいない。化け物かどうかはまだわからんが——役に立つことはわかった」
直江が一拍置いてから、頷いた。
「……わかった」
それが、城での灯真の立場が変わった瞬間だった。
しかし直江の目は、変わらなかった。
警戒の色が、一枚も剥がれていなかった。
(この男は、何を守っているのか)
灯真はまた、その問いを保留した。
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冬が深まっていた。
越後の雪は重く、朝、城の廊下に出るたびに景色が変わっていた。
昨夜積んだ雪の上に、また雪が積もっている。
果てしない、という感覚があった。
それでも灯真は、嫌だとは思わなかった。
雪の中に炉がある。
炉の中に炎がある。
炎がある場所は、どこでも落ち着いた。
研究所の炉の前にいた時と、何も変わっていない気がした。
場所が違う。時代が違う。
しかし炎は、同じように燃えている。
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ある夜、廊下を歩いていると、景虎とすれ違った。
甲冑姿ではなかった。
厚手の着物を纏い、一人で廊下を歩いていた。
護衛もいなかった。
灯真が頭を下げると、景虎が足を止めた。
「遅い時分に、何をしていた」
「炉の記録をつけていました」
「この刻まで」
「集中すると時間を忘れるので」
景虎が少し灯真を見た。
「……そなた、寒くないのか」
廊下は確かに寒かった。
「寒いです」
「炉の前にいれば温かいだろう」
「そこから離れないといけない用事もあるので」
景虎がわずかに目を細めた。
何を考えているのか、読めない顔だった。
「宇佐美が、そなたを評価している」
「そうですか」
「儂は、まだ判断していない」
「はい」
「……焦らないのか」
「焦っても仕方がないので」
景虎がまた灯真を見た。
「変わった男だ」と言った。
「よく言われます」
景虎の表情が、わずかに動いた。
笑った、とは言えない。
しかし何か、硬いものが一瞬だけ緩んだような。
「下がれ」
「はい。おやすみなさい」
景虎が歩き出した。
足音が廊下の先に消えた。
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部屋に戻って、行灯の火を見ながら今日を整理した。
「儂は、まだ判断していない」
信用も不信用も、まだ保留している。
宇佐美は「役に立つ」と言った。
才助は「腕がある」と言った。
直江は何も言わない。
景虎は判断していない。
(それぞれが、それぞれの目で俺を見ている)
当然のことだった。
灯真も、それぞれを別々に観察していた。
直江が守ろうとしているもの。宇佐美が測っているもの。才助が見ているもの。景虎が保留しているもの。
それらがどこかで繋がっている気がしていた。
しかしまだ、繋ぎ方がわからなかった。
炎の声が言っていた女が、この城にいる。
その確信だけは、日を追うごとに強くなっていた。
しかし誰なのか。どこにいるのか。
(もう少し、時間がかかる)
研究者として、それは許容できる状態だった。
仮説を立てる前に事実を集める。
焦らず、しかし怠らず。
目を閉じた。
越後の冬の夜が、静かに更けていった。
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その深夜、城の外から声が聞こえた。
急いた足音。武者の声が重なり合っている。
灯真が廊下に出ると、才助が走ってきた。
「灯真!」
「何がありましたか」
才助が息を整えた。
「……国境の方で小競り合いがあったらしい。景虎様が出ていて——戻ってきたんだが、直江様も宇佐美様も別の陣にいて、今夜中には戻れないと」
「怪我人がいるんですか」
「詳しくはわからん。ただお前に来てほしいと……手当てができるか」
灯真は少し考えた。
救急の知識は研究所の安全教育で学んでいる。
戦場の傷の手当てが同じかどうかは、わからない。
しかし行かない理由はなかった。
「見てみないとわかりません」
「来てくれ」
才助が走り出した。
灯真は後を追った。
廊下を走りながら、雪の匂いがした。
(落ち着いて、目の前のことに集中する)
研究者として、それだけを心がけた。
この先に何があるのか。
この時の灯真には、まだわかっていなかった。




