第三章 軍神との邂逅
天文19年(1550年)
翌朝、直江が来た。
「炎を見せてもらう」
「……どこで」
「城内の炉だ。ついてこい」
灯真は立ち上がった。
廊下を歩きながら、昨夜のことを考えていた。
「面白い男だ」と上座の人物は言った。
しかしあれは、信用したわけではないだろう。
珍しい獣を見る目に近かった。
逃げもせず、媚びもせず、ただ正直に話した男を——どう使えるか、まだ測っている。
そういう目だった。
研究者として言えば、自分も今、同じことをしている。
(この城で何が起きているのかを、まだ掴めていない)
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城内の炉は、鍛冶師の小屋のものより大きかった。
武具の手入れや修繕に使う炉で、城に常駐する鍛冶師が管理していた。
直江のほかに、武者が二人いた。
見張りか、それとも灯真が逃げた時のための備えか。
どちらでもいい、と思った。
炉の前に膝をついた。
火を見た。
燃焼の状態を確認する。
燃料は炭。空気の流れはそこそこ安定している。温度はまだ低い。
「何をしてほしいのか、教えてもらえますか」
直江が腕を組んだ。
「炎を制御できると言った」
「言いました」
「証明しろ」
「具体的には」
「この炉で、刀を焼き入れろ」
灯真は炉を見た。
焼き入れは自分でやったことがない。しかし原理はわかる。
温度管理と、タイミングの問題だ。
「刀と水桶を用意してください。それから——この炉、少し手を入れてもいいですか」
直江の眉が動いた。
「手を入れる、とは」
「空気の取り込み口を調整したい。今の状態だと温度が安定しない。焼き入れには均一な熱が要ります」
直江がしばらく灯真を見た。
それから城の鍛冶師に目配せした。
鍛冶師——名を才助といった——が無言で道具を持ってきた。
「好きにしろ」
許可、というより試験の続きだった。
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一刻ほどかかった。
炉の構造を観察して、空気の流れを読んで、手を入れる箇所を決める。
昨日の勘七の炉より規模が大きい分、調整も細かくなる。
才助が横で見ていた。
最初は腕を組んで黙っていたが、灯真が炉壁に細工をし始めると、少し前に出てきた。
「……なぜそこに穴を開ける」
「ここから入った空気が、炉の底を回ってここで出ていく。そうすると炎が均一になります」
才助が唸った。
「試したことがあるのか」
「似たような構造の炉で。ただここは少し形が違うので、加減が要ります」
「お前、鍛冶師か」
「違います。炎を研究してきた者です」
才助がしばらく考えてから、「続けろ」と言った。
直江は何も言わなかった。
壁際に立って、ただ見ていた。
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温度が安定してきた頃、才助が刀を持ってきた。
「やってみろ」
灯真は受け取った。
刀の扱いには慣れていない。しかし今は刀の技術ではなく、炉の管理が問われている。
刃を炉に入れる角度。温度の見極め。引き上げるタイミング。
炎の色が変わる瞬間を、灯真は目で追った。
(もう少し)
炎が、橙から白に近づいていく。
(今だ)
引き上げて、水桶に入れた。
ジュッ、という音がした。
蒸気が上がった。
才助が刀を取り上げて、刃を見た。
長い沈黙があった。
「……悪くない」
直江が才助を見た。
才助が頷いた。
「均一に入っている。こいつの言った通りだ」
直江が灯真を見た。
値踏みの目は変わっていなかった。
しかしその奥に、何か別のものが加わっていた。
「もう一本、やれ」
灯真は頷いた。
炉の前に戻った。
(さあ、もう一度)
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三本目を終えた頃、廊下に気配がした。
才助と直江が、同時に姿勢を正した。
灯真は気づかなかった。
炉の温度を確認していた。
「……やっているか」
声がした。
昨日、広間で聞いた声だった。
灯真は顔を上げた。
廊下の入り口に、甲冑姿の人物が立っていた。
長尾 景虎——と、灯真は昨夜から仮称していた。
まだ名前を確認していない。
「見てよいか」と景虎は直江に問うた。
「どうぞ」
景虎が部屋に入ってきた。
灯真の傍まで来て、炉を見た。
それから灯真を見た。
「そなたが調整したのか」
「はい」
「才助、どうだ」
「均一に入っております。三本、申し分ありません」
景虎が炉を見た。
炎が、静かに燃えている。
昨日より安定した炎だった。
「……なるほど」
景虎が言った。
独り言のような声だった。
それから灯真に目を戻した。
「名は」
「橘 灯真と申します」
「どこで学んだ」
「遠いところで。師匠というより、自分で試行錯誤してきました」
「試行錯誤」
景虎が言葉を繰り返した。
初めて聞く言い方だ、という顔をしていた。
「失敗しながら覚えた、ということです」
「……失敗を恐れないのか」
「失敗しないと、次に何をすべきかわからないので」
景虎が、わずかに目を細めた。
何かを考えているような、何も考えていないような、判断のつかない表情だった。
「直江」
「はい」
「もう少し置いておけ」
「……処遇は」
「追って決める」
景虎が踵を返した。
廊下に出て、足音が遠ざかっていった。
才助が小さく息を吐いた。
直江は無表情のままだった。
灯真は炉に向き直った。
(もう少し置いておけ、か)
追い出されるより、ずっとましだった。
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城での最初の十日間は、ほとんど炉の前で過ごした。
才助との関係が、少しずつ変わっていった。
最初は無言で見ていた男が、二日目には質問をするようになり、五日目には隣に並んで作業するようになった。
「お前、本当に鍛冶師じゃないのか」
「違います」
「なぜそれだけ炎のことを知っている」
「好きだから、ずっと見てきました」
才助が鼻を鳴らした。
「変わった男だ」
「よく言われます」
「褒めていない」
「わかっています」
才助が少し笑った。
最初に笑った瞬間だった。
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直江との関係は、変わらなかった。
毎朝確認に来て、灯真の仕事を見て、何も言わずに去っていく。
信用していない。しかし排除もしない。
その距離は十日経っても動かなかった。
ある夜、灯真が部屋で記録をつけていると——炉の調整の内容を、後で見返せるよう書き留めていた——直江が入ってきた。
「何を書いている」
「炉の記録です。どこをどう変えて、結果がどうだったか」
直江が覗き込んだ。
文字を見た。
「……読める字だ」
「一応」
「学のある男か」
「少しは」
直江が腕を組んだ。
「火薬を扱えるか」
灯真は手を止めた。
(来た)
「……扱えます。ただし材料によります」
「硝石はあるか」
「あれば、精製からできます」
直江が灯真を見た。
今までとは少し違う目だった。
警戒と、それと同じくらいの重さの——何かが混じっていた。
「明日、宇佐美殿に会ってもらう」
「宇佐美、というのは」
「この城の軍師だ」
直江はそれだけ言って——いや、それだけではなかった。
「……化け物か人間か、あの人が判断する」
そう言い置いて、部屋を出ていった。
灯真は筆を持ったまま、しばらく動かなかった。
軍師。
(どんな人物だろうか)
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宇佐美 定満に会ったのは、翌日の昼だった。
城の一角にある小さな部屋だった。
部屋に入ると、老人が縁側で将棋の駒を並べていた。
一人で並べて、一人で眺めていた。
灯真が入ってきても、顔を上げなかった。
「……座れ」
「失礼します」
灯真は向かいに座った。
宇佐美が駒を一つ動かした。
沈黙があった。
「名は」
「橘 灯真と申します」
「どこから来た」
「遠いところから」
「都か」
「違います」
「南蛮か」
「違います」
宇佐美がようやく顔を上げた。
七十に近い顔だった。
しかし目が——若かった。
鋭く、深く、何かを測り続けているような目だった。
「炎の声を聞いてここに来た、と聞いた」
「はい」
「信じると思うか」
「思いません」
「では、なぜそんな話をした」
「嘘をついても意味がないので」
宇佐美が駒をもう一つ動かした。
「直江は化け物か人間か判断しろと言ったそうだが」
「そう聞きました」
「儂の答えを聞きたいか」
「聞かせてもらえるなら」
宇佐美が、初めて笑った。
皺の深い、しかし不思議と嫌みのない笑い方だった。
「まだわからん」
「……それは正直な答えですね」
「お前も正直な男だ。だから同じ答えを返してやった」
宇佐美が将棋盤から目を上げた。
「火薬を扱えると聞いた」
「はい」
「硝石の精製から、と言ったそうだな」
「直江殿から聞かれたので」
「どこでそれを学んだ」
灯真は少し考えた。
「燃焼の理屈から逆算しました。爆発も燃焼の一種なので」
宇佐美が眉を上げた。
「爆発を燃焼の一種と言う男は、初めて見た」
「概念としては同じです。酸化反応が急速に起きるか、緩やかに起きるかの違いで」
「……さんか、反応」
宇佐美が言葉を転がすように繰り返した。
「難しい話は後でいい。一つだけ聞く」
「はい」
「なぜ越後に来た」
灯真は答えた。
「炎に連れてこられました。理由はまだ、わかっていません」
「わかっていないのに来たのか」
「来てしまったので」
宇佐美が笑った。
今度は声に出して笑った。
廊下で待っていた直江が、怪訝な顔で顔を出した。
「宇佐美殿、いかがでしたか」
宇佐美は笑いながら駒を一つ動かして言った。
「化け物ではない。人間だ」
「では——」
「ただし」宇佐美が灯真を見た。「並みの人間ではない。……どこかで見たことのある目をしている」
「どこで」
「さあな」
宇佐美は将棋盤に目を戻した。
「もう行っていい。また話しかけに来い。面白い」
灯真は頭を下げて立ち上がった。
廊下に出ると、直江が小声で言った。
「……宇佐美殿に面白いと言われたのは、儂の知る限り、景虎様だけだ」
「そうなんですか」
「褒めていない」
「才助殿にも同じことを言われました」
直江が眉を寄せた。
何か言いかけて、やめた。
廊下を歩きながら、灯真は城の外を見た。
雪が、また降り始めていた。
越後の冬は深く、まだしばらく続くだろう。
(ここにいることになりそうだ)
炎の声が言った「女」が誰なのか、まだわからない。
この城にいるのか、あるいは別の場所にいるのか。
手がかりは何もなかった。
しかし不思議と、焦りはなかった。
炎に連れてこられた。
ならば炎が、いずれ教えてくれる気がした。
根拠のない確信だった。
研究者としては失格の態度だった。
それでも灯真は、そう思っていた。
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その夜、景虎が炉の前にいた。
灯真が記録をつけに行くと、甲冑姿の人物が一人で火を見ていた。
足音に気づいた景虎が振り返った。
灯真は頭を下げた。
「失礼しました。出直します」
「構わぬ」
景虎が炉に目を戻した。
「用があるなら済ませろ」
「……記録をつけるだけなので、少しだけ」
灯真は炉の状態を確認して、紙に書き留めた。
景虎は何も言わなかった。
ただ炎を見ていた。
静かな人物だった。
広間で見た時も、炉の傍で見た今も、余計な動きがない。
無駄がない、というより——消耗していないのかもしれない。
(何かをずっと背負っている人間の立ち方だ)
灯真はそう思ってから、自分がなぜそう感じたのか分析しようとして、うまくいかなかった。
「……お前は、炎が好きか」
景虎が言った。
不意の問いだった。
「好きです」
「なぜ」
「ずっと見ていられるので」
景虎が少し間を置いた。
「飽きないのか」
「同じ炎は二度とありません。形も温度も色も、常に変わっている。見ていて飽きる暇がない」
景虎が炎を見た。
灯真も炎を見た。
二人で、しばらく炎を見ていた。
「……そうか」
景虎が静かに言った。
それが感想なのか、独り言なのか、灯真には判断がつかなかった。
ただその声は、広間で聞いた時と同じで——聞いていて、疲れなかった。
少し経って、景虎が立ち上がった。
「邪魔をした」
「いえ」
景虎が部屋を出ていった。
足音が廊下に消えた。
灯真は炉に向き直った。
炎が揺れていた。
さっきまで二人で見ていた炎と、同じ炎だった。
しかし何かが、違う気がした。
なぜそう感じるのか、問おうとして——やめた。
今夜は、答えを出さなくていい気がした。




