第二章 雪の越後
冷たかった。
骨の芯まで冷たいのに、なぜか生きている。
橘 灯真は目を開けた。
空が見えた。
灰色の、重い空だった。
雪が降っていた。音もなく、ただ白く、世界を塗り潰すように。
(……ここは)
声が出た。白い息が、灰色の空へ溶けていった。
体を起こそうとして、全身が悲鳴を上げた。
背中が痛い。腕が痛い。顔が痛い。
研究所の壁に打ちつけた背中の痛みとは違う。これはもっと広い範囲の、もっと根深い痛みだった。まるで高いところから落ちてきたような。
(落ちた、のか)
記憶を辿る。
炉が爆発した。熱風で吹き飛ばされた。炎の中に声を聞いた。そして——
そこで記憶が途切れている。
雪を握った。
本物の感触だった。冷たくて、細かくて、指の間から零れていく。
夢ではない、と判断した。
研究者として、まず目の前の事実を確認することにした。
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周囲を見渡す。
木が生えている。
松の木だろうか。雪を乗せた枝が、重そうに垂れ下がっている。
遠くに山が見える。
その山の稜線が——どこかで見たような気がした。
いや、見たことがある、はずがない。灯真は登山の趣味など持っていない。
しかし確かに、どこかで。
(写真か。資料か)
脳の引き出しを探っていると、答えが出てきた。
上越地方の山岳写真。
戦国時代の研究資料に挟まっていた、越後の風景を撮った一枚。
(……まさか)
その「まさか」を打ち消す根拠を、灯真は持っていなかった。
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立ち上がろうとして、また転んだ。
足が感覚をなくしかけている。
どれくらいここにいたのか。雪の上に仰向けになっていたのだとすれば、体温がどれほど奪われたか——計算しかけて、今はそれより先にやることがあると判断した。
まず動く。動いて体温を上げる。
木の幹に手をついて、なんとか立った。
着ている服が、研究所のものではなかった。
(いつの間に)
白衣ではない。厚手の綿の着物のようなもの。足元には草鞋。
転生の演出か、と思った。
思ってから、「転生」という言葉を自分の思考の中に見つけて、少し驚いた。
(俺は転生を信じているのか)
信じていない。
しかし代替案が思いつかない。
ここが日本の現代ではないことは、積雪の深さと山の形と服装と草鞋の感触と、灰色の空の質感から、研究者としての観察眼が告げていた。
だとすれば、何か。
炎の中の声が言っていた。
*——ある女が、砕けそうになっている*
(……まず、人を探すべきだな)
状況の把握より先に、そういう実務的な思考が出てきた。
炎に引っ張ってこられた以上、ここに来た理由があるはずだ。
その理由を知るためには、まず生き延びる必要がある。
自分でも少し呆れながら、灯真は雪の中を歩き始めた。
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人の気配がしたのは、それから半刻ほど後のことだった。
気配、というより、声だった。
男の声が複数。
灯真は木の影に身を潜めようとして、遅かった。
「いたぞ!」
怒鳴り声が飛んできた。
雪を踏む音が近づいてくる。
灯真は逃げることを考えた。
しかし足が凍えていて、まともに走れる気がしなかった。
観念して振り返った。
三人いた。
農民か、と思った。服装が粗い。顔が日焼けしている。一人は鍬を持っている。
「落ち武者か!」
「いや、着物が違う。商人か」
「どこから来た」
三人が口々に言いながら近づいてくる。
灯真は両手を上げた。
武器は持っていない、という意思表示のつもりだった。
「——落ち着いてください。俺は危険な人間じゃない」
三人が立ち止まった。
「なんだその言葉は」
「訛りがない」
「訛りがないというより、なんか……変だ」
(現代語が通じている。しかし違和感を覚えている。なるほど)
灯真は頭の中で状況を整理した。
言語は通じる。ただし発音や語彙が微妙にずれている。
相手は自分を警戒している。当然だ。
こちらが先に情報を出した方がいい。
「俺は灯真という者です。昨夜、山で道に迷って倒れました。近くに里はありますか」
三人が顔を見合わせた。
「春日山城下なら——」
「黙れ、権兵衛。なんで見知らぬ者に城を教える」
「しかし凍え死にしそうだぞ」
「それはそうだが」
三人が囁き合っている。
灯真は待った。
急かすより待った方がいい、という判断だった。
相手の会話に「春日山城」という言葉が出ていた。
越後。長尾家の城。
(……越後、か)
炎の声が連れてきた場所が越後だとして、それが何を意味するのかはまだわからない。
長尾家に関わる人物がいるのか。それともただの偶然か。
偶然という言葉が今の状況に当てはまるかどうかも、わからなかった。
「……とりあえず来い。庄屋に判断してもらう」
一人がそう言った。
鍬を持ったままだったが、灯真を打つ気はないようだった。
灯真は素直に頷いた。
「ありがとうございます」
三人がまた顔を見合わせた。
「礼儀正しい落ち武者だな」
「落ち武者じゃない、と言ってる」
「着物が変わってるしな」
そんなことを言いながら、三人は灯真を先導し始めた。
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村は小さかった。
茅葺きの家が十軒ほど。
雪かきをしていた老人が、灯真の顔を見てぎょっとした。
子どもが一人、灯真の後ろをついてきた。
庄屋の家に通された。
炉端に火があって、灯真は内心でほっとした。
体の感覚が少しずつ戻ってきた。
庄屋は五十がらみの、がっしりした男だった。名を弥左衛門といった。
話を聞きながら、じっと灯真を見ていた。
「どこから来た」
「遠いところから」
「遠いとは」
「うまく説明できないんですが——本当に遠いところです」
弥左衛門が眉を寄せた。
「都か」
「都よりもっと遠いです」
「異人か」
「違います。ただ……事情が複雑で」
弥左衛門はしばらく黙っていた。
それから「飯を食え」と言った。
灯真は礼を言って、出てきた粥を食べた。
味が薄かった。しかし温かかった。
体の芯から、少しずつ人間に戻っていく気がした。
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飯を食いながら、灯真は考えていた。
ここが戦国時代の越後である、という確証はまだない。
山の稜線が資料の写真に似ていた。春日山城という名前を聞いた。手がかりはその二つだけで、いずれも薄い。
炎の声は「ある女が砕けそうになっている」と言っていた。
その女が誰で、どこにいるのか——説明はなかった。
(あの声というのは、説明が雑だ)
粥を飲み込みながら、そう思った。
とはいえ、まず信頼を得ることが先決だろう。
信頼を得るには、役に立つことだ。
役に立つためには、自分に何ができるかを把握することだ。
現代の研究者として持っている知識——熱力学、燃焼工学、火薬の化学、塩の精製、鉄の熱処理。
ここがどの時代であれ、このうちのどれかは使えるはずだった。
(火薬か。鍛冶か。塩か)
「……なにを考えている」
弥左衛門が言った。
「飯を食いながら黙って考えている男は、大抵ろくなことを考えていない」
「失礼しました」灯真は頭を下げた。「この辺りで、人手を必要としているところを探していました」
「職を探しているのか」
「はい」
「何ができる」
「火を扱うことと、金属の加工が少し。それから塩の作り方を知っています」
弥左衛門の眉が動いた。
「塩の作り方を知っている、と言ったか」
「ええ」
「……ここから少し行ったところに鍛冶師がいる。腕はいいが、炉の調子が悪くて困っていると言っていた」
「炉の問題なら、見てみることはできます」
弥左衛門はしばらく灯真の顔を眺めていた。
「……顔が、柔らかい」
「はあ」
「武者の顔じゃない。かといって商人でもない。学者か」
「そうかもしれません」
「まず鍛冶師のところへ行け。炉を直してやれれば、それが口利きになる」
「口利き、というのは」
「城下に伝手がある。腕の立つ者を探している向きが、ないわけでもない」
弥左衛門は短く言った。
「今夜はここに泊まれ。明日、案内してやる」
「ありがとうございます」
弥左衛門は鼻を鳴らした。
「礼が丁寧な流れ者は珍しい。大抵は図々しいか卑屈かのどちらかだ」
灯真は何も答えなかった。
火が、炉端で静かに燃えていた。
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夜、藁の上で眠りながら、灯真は天井を見ていた。
茅葺きの屋根の隙間から、星が一つ見えた。
(俺は、何をしに来たのか)
炎の声の言葉を思い出す。
*——ある女が、砕けそうになっている*
女。
長尾家に関係する女、ということになるのか。
しかしそれもまだ、ただの推測にすぎない。
(証明されたわけじゃない)
研究者の思考が言う。
(そもそも今がいつなのかも、わかっていない)
同じ声が続ける。
ここが越後らしいということはわかった。
春日山城という名前も聞いた。
しかし今が何年で、誰が城主で、何が起きているのか——権兵衛の話だけでは輪郭しかつかめていない。
明日、城下でもう少し話を聞く必要がある。
(まず情報だ。仮説は後でいい)
もう少し丁寧な説明があっても良かった、と思いながら、灯真は目を閉じた。
星が一つ、屋根の隙間で瞬いていた。
越後の冬の星は、遠くて、冷たくて、それでもやけに鮮明だった。
現代では見たことのない鮮明さで、天の川が流れていた。
---
翌朝、早かった。
雪は夜のうちに積み増して、村全体を白く静かに閉じ込めていた。
弥左衛門が用意してくれた防寒具を纏い、灯真は村の出口に立った。
案内役は権兵衛という、昨日の三人の中で一番若い男だった。
まだ二十歳になっていないくらいだろうか。人懐っこい顔をしていた。
最初に向かったのは、村から半刻ほど歩いた場所にある鍛冶師の小屋だった。
弥左衛門の言っていた男で、名を勘七といった。
六十がらみの、腕に傷だらけの男だった。
灯真が炉を見せてもらうと、おおよその原因はすぐにわかった。
空気の流れが悪い。炉の構造上、燃焼に必要な酸素の供給が不均一になっている。それが炉内温度のムラを生み、焼き入れの精度を落としている。
「……炉の壁に、穴を開けさせてください」
勘七が目を丸くした。
「穴を、開ける?」
「空気の流れを調整します。今の構造だと、炎が均一に当たっていない。刀の焼き入れには均一な熱が要ります」
「なんでそれがわかる」
「炎を長く見てきたので」
勘七はしばらく灯真の顔を眺めてから、「やってみろ」と言った。
二刻ほどかかった。
炉壁に細い穴をいくつか開け、空気の入り口と出口を作り直す。単純な改造だったが、効果は出た。
炉内の温度が安定した。
勘七が試しに焼き入れをして、刃を確かめた。
長い沈黙があった。
「……悪くない」
口数の少ない男だったが、その三文字に職人の本音が詰まっていた。勘七の目が、灯真を見る角度が変わっていた。
弥左衛門が約束した通り、勘七は城下の伝手に一筆書いてくれた。
灯真が帰り支度をしていると、勘七がぼそりと言った。
「……世話になった」
短い言葉だったが、口数の少ない男が絞り出した礼だとわかった。
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鍛冶師の小屋を出て、城下へ向かう道を歩き始めた頃、権兵衛が言った。
「あんた、本当に春日山城下に行くのか」
「行く」
「あそこはいま、少し物騒だぞ」
「何があるんですか」
権兵衛は少し躊躇してから言った。
「長尾のお殿様のことがごたごたしてて。家督をどうするとか、誰が継ぐとか。難しいことはよくわからんが、なんか物々しい」
「危険ですか」
「武者がうろうろしてる。よそ者はちょっと目をつけられやすいかもな」
「……なるほど」
権兵衛が少し声を落とした。
「庄屋さんは俺に、お前も気をつけろって言ってたんだが」
「巻き込んでしまいましたか」
「いや、まあ……俺が勝手についてきてるんだが」
権兵衛は頭を掻いた。
「なんかあんた、一人で行かせると心配でな」
灯真は少し考えてから言った。
「ありがとうございます。助かります」
しばらく雪道を歩いた。
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「今年は何年ですか」
権兵衛が足を止めた。
「……何年、って」
「年号がわからなくて」
権兵衛はしばらく灯真の顔を見てから、「大丈夫か、あんた」と言った。
「多分」
「天文の十九年だが」
「天文十九年」
「知らなかったのか」
「遠いところから来たので」
権兵衛は何とも言えない顔をしてから、また歩き始めた。
「……変わった人だな、あんたは」
妙に義侠心の強い若者だった。
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春日山城下は、想像よりずっと大きかった。
灯真は現代の資料で地図は見たことがあった。しかし実際に足を踏み入れると、その規模と熱量に少し圧倒された。
人が多い。声が多い。
荷を運ぶ者、武器を帯びた者、商いをする者。
その全員が、何か張り詰めたものを纏っている。
(城下全体が、緊張している)
権兵衛の言った通りだった。
家督問題の余波が、城下の空気にまで染み出している。
灯真は視線を上げた。
山の上に、城がある。
春日山城。
雪を被った山の頂に、静かに構えている。
(……あそこか)
何があるのか、誰がいるのか、まだわからない。
ただ、見ていると、何かが胸の奥で動いた。
炎が、目を向けろと言っている気がした。
「——そこの者、止まれ」
声が飛んできた。
振り向く前に、肩を掴まれた。
力が強い。
「見慣れない顔だ。どこの者だ」
武者だった。
三十がらみの、厳しい顔をした男だった。
灯真は落ち着いて答えた。
「橘 灯真と申します。職を求めて参りました」
「どこから来た」
「遠いところから」
武者の目が細くなった。
「答えになっていない」
「上手く説明できないんです」
「……怪しい男だ」
「そう見えますよね」
武者が仲間に目配せした。
権兵衛が「あっ」と言って後退りした。
灯真は逃げなかった。
逃げる意味がないと思っていた。
むしろ——この流れは、悪くないかもしれない、と思っていた。
城に繋がる可能性がある。
(研究者として言えば、仮説と実証は近道を選ばない方がいい場合もある)
「来い」
武者が言った。
「どこへ」
「城だ」
灯真は頷いた。
権兵衛が「あんた!」と叫んだ。
「大丈夫です」
振り向かずに言った。
大丈夫かどうかはわからなかった。
しかし、怖くもなかった。
炎に連れてこられた男が、炎の向こうに何があるかを怖がっても仕方がない。
---
城の中は、城下より更に張り詰めていた。
長い廊下を歩かされた。
両側に武者がいる。
灯真は視線を正面に固定して、足音だけに集中した。
広間に通された。
広い。
上座に何人かの武者が座っていた。
中央の一人が、灯真を見た。
灯真も、その人物を見た。
(……)
思考が、止まった。
一瞬だけ、止まった。
甲冑を纏った人物だった。
黒い甲冑。長い黒髪を兜の中に収めている。
目が——鋭かった。
刃のように鋭い目が、灯真をまっすぐに見ていた。
感情が読めない。
何を考えているのか、表情からは一切わからない。
ただ、見ている。
灯真を、ただ静かに見ている。
(……この人物が)
何者かはわからない。
しかし炎が連れてきた先に、この人物がいた。
その一点だけが、妙に確かな気がした。
「……名を言え」
声が来た。
低く、静かな声だった。
広間の空気を変えるような声だった。
「橘 灯真と申します」
「どこから来た」
「遠いところから。うまく説明できません」
隣にいた武者が口を開いた。
後から聞いた名は、直江といった。
「遠いところとはどこだ。都か。南蛮か」
「どちらでもありません。うまく言葉にできないんですが——炎の中で声を聞いて、気づいたらここにいました」
広間がしんと静まった。
直江の目が細くなった。
「炎の中で声を聞いた、と言ったか」
「はい」
「何と言っていた」
灯真は少し迷った。
全部話すべきかどうか、判断がつかなかった。
しかし嘘をついても意味がない、という結論は変わらなかった。
「——誰かを助けに行け、と」
「誰を」
「それは聞けませんでした」
「どこへ行けと」
「それも。気づいたら越後にいました」
沈黙があった。
直江の表情は変わらなかった。しかし目の温度が、少し下がった気がした。
「……頭がおかしいのか」
「そう聞こえますよね」
「聞こえるどころか、そうとしか受け取れない」
「否定はしません。ただ、俺にはそう聞こえた。それは本当のことです」
直江が腕を組んだ。
「炎の中で声を聞いた。誰かを助けに来た。だから越後に現れた——それが言い訳か」
「言い訳ではありません。説明です。信じてもらえるとは思っていませんが」
「では何のためにそんな話をする」
灯真は少し考えた。
「嘘をついても意味がないので」
広間にいた武者の何人かが、小さく笑った。
直江は笑わなかった。
上座の人物も、笑わなかった。
ただ、見ていた。
「——炎を扱えると言ったか」
上座の人物が口を開いた。
「長くやってきました」
「証明できるか」
「機会をいただければ」
また沈黙があった。
長い沈黙だった。
「……面白い男だ」
断罪でも歓迎でもなく。
ただ、そう言った。
灯真はその言葉を聞きながら、研究者として一つの観察をした。
この人物の声は——聞いていて、疲れない。
威圧がある。しかし消耗させる種類の威圧ではない。
それはなぜか。
答えはまだ、出なかった。
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その日の夜、灯真は城の端の一室に押し込まれた。
追い出されたわけでも、厚遇されたわけでも、ない。
「当面の処遇は追って沙汰する。それまでここにいろ」
直江にそう言われた。
部屋は狭かったが、藁より畳の方がずっとましだった。
灯真は行灯の火を見ながら、今日を整理した。
春日山城に来た。
上座にいた人物が誰なのか——名前はまだ聞けていない。
直江と呼ばれていた武者が側についていた。甲冑を纏い、広間を仕切っていた。城主か、それに近い立場の人物だろう。
炎の声が言っていた女が、この城にいるのかどうかも、まだわからない。
(わからないことが多すぎる)
研究者として言えば、仮説を立てる前に事実を集める段階だった。
ただの直感を、保留のまま持っておくことにした。
行灯の火が、揺れた。
炉端の火を見ると、どこか落ち着く。
ここが戦国時代だろうと、炎は炎だった。
燃焼という反応は、五百年前も五百年後も変わらない。
(変わらないものが、一つでもある)
灯真には、その事実で十分だった。
目を閉じた。
雪の越後の最初の夜が、静かに更けていった。




