第九章 塩の道 第9-1話 塩田の職人
天文20〜21年(1551〜1552年)
宇佐美に話を通したのは三日前だった。
「塩田を見てきたい」
「ほう」
「越後の塩の精製が非効率だと聞きました。改良できると思います」
宇佐美が将棋の駒を手に取った。くるくると指の間で回した。
「どれくらいかかる」
「一週間、見せてもらえれば」
「才助を連れていけ。道中は任せろ」
それだけで許可が出た。
宇佐美は毎回、理由を聞かない。
灯真がそれをありがたいと思っていることを、宇佐美はたぶん知っている。
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海岸までの道は、半日かかった。
才助が「灯真さん、海、見たことありますか」と道中ずっと聞いた。
「ある」
「越後の海は初めてですか」
「初めてだ」
「綺麗ですよ。夕方がとくに」
才助が嬉しそうに歩いた。
灯真は道の両側の景色を見ていた。
夏の終わりの越後。山が近く、空が広かった。
海の匂いがしてきたのは、昼を過ぎた頃だった。
潮の、重い匂い。
灯真は少し足を速めた。
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塩田は、海岸沿いに広がっていた。
砂浜を区切って、幾つもの区画に分けられている。砂の上に海水を引き込み、日光と風で蒸発させる構造だった。
職人たちが数人、黙々と働いていた。
「弥助さん、おられますか」
才助が声をかけた。
奥から、がっしりした体つきの男が出てきた。
四十がらみ。日焼けして、目が鋭かった。
「誰だ」
「春日山城から来ました。塩田の改良の話をしたいと——」
「要らん」
弥助が即座に言った。
「よそ者が何を言う。ここの塩田は儂が何十年もかけて作ってきた。改良が必要なら、儂が考える」
才助が困った顔で灯真を見た。
灯真は弥助を見た。
「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「この区画の向きは、誰が決めましたか」
「……儂だ」
「なぜこの向きにしたのですか」
弥助が少し目を細めた。
「海風が一番よく当たる向きだ。それくらい知っとる」
「そうですね。ただ——この時期の午後の風向きは、そこから十五度ほどずれています」
「何」
灯真は懐から紙を出した。
数日前から計算していた、風向きと蒸発効率の関係を書いたものだった。
弥助がそれを受け取った。
しばらく、黙って見ていた。
「……なんだこの算術は」
「蒸発の速さと、風が当たる角度の関係です。角度を変えるだけで、同じ面積でも効率が上がります」
弥助がまだ紙を見ていた。
目の色が、変わっていた。
「……こんなこと、誰も考えたことがなかった」
「物理の計算です。誰でも思いつきます」
「思いつかんから言っとる」
弥助が紙から目を上げた。
「お前、どこで学んだ」
「炎と熱を研究していました」
「塩と何の関係がある」
「蒸発は熱の問題なので」
弥助が鼻から息を吐いた。
才助が横で「灯真さんて、すごいんですよ」と言った。
「知っとる」
「あ、知ってるんですか」
「だから腹が立つ」
弥助が腕を組んだ。
「なぜ腹が立つのですか」
灯真が聞くと、弥助が「お前か」と言った。
「はい」
「儂が何十年もかけてやってきたことを、こんなあっさり言いよるから腹が立つんじゃ」
「……すみません」
「謝るな。もっと腹が立つ」
才助が小さく「うっ」と言った。
弥助がまた紙を見た。
長い沈黙があった。
「——続きを、聞かせろ」
低い声だった。
命令だった。
しかしそれは、灯真が一番聞きたかった言葉だった。
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帰り道、才助が「弥助さん、怒りながら協力してくれましたね」と言った。
「そうだな」
「怒ってたのに、なんでですかね」
「怒っている人は、実は一番興味がある人だ」
才助が「そういうものですか」と首を傾げた。
「興味がなければ、怒らない。無視する」
「……なるほど」
才助がしばらく歩いて「じゃあ、最初から怒鳴ってくれる人は脈があるってことですか」と言った。
「何の脈だ」
「いや、なんというか——お糸さんは、俺に無関心なんですよ。それって、興味がないってことですよね」
「弁当をくれただろう」
「……あ」
才助が止まった。
「弁当は、無視じゃないですよね」
「無視じゃない」
才助がまた歩き出した。
少し、顔が明るくなっていた。
灯真は前を向いて歩いた。
海の匂いが、まだ服に残っていた。




