第八章 越後の春 第8-3話 仙桃院来訪
仙桃院[※景虎の姉。長尾政景の妻。景虎より七歳ほど年上。柔らかい目をしているが、見るものは鋭い。]が春日山城を訪れた。
政景[※長尾 政景。坂戸城主・上田長尾家当主。景虎の義兄にあたる。反骨と実力を兼ね備えた人物で、景虎とは度々衝突する。この時二十六歳。]が景虎への挨拶に来たついでだと、才助が教えてくれた。
「仙桃院様って、景虎様のお姉様ですよね」
「そうだ」
「政景様の奥方ですよね」
「そうだ」
「お会いになるとどうなるんですかね、景虎様」
「知らない」
才助が「見に行きたいですね」と言った。
「仕事をしろ」
「はーい」
才助が渋々、作業に戻った。
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昼過ぎ、廊下を歩いていると、人の気配がした。
角の手前で、灯真は足を止めた。
声が聞こえた。
「……ご無事で」
直江だった。
低く、硬い声。
「あなたこそ」
女の声だった。
灯真は角を曲がれなかった。
覗くつもりもなかった。
しかし足が、止まったままだった。
沈黙があった。
長くはない。しかし——詰まった沈黙だった。
足音がして、一人が去った。
直江の足音だとわかった。
灯真は少し待ってから、角を曲がった。
廊下に、女が一人立っていた。
二十代後半だろう。
景虎に少し似た、しかし景虎より柔らかい目鼻立ちをしていた。
仙桃院だと、すぐわかった。
仙桃院が、直江の去った方向を見ていた。
灯真に気づいて、目を戻した。
目が合った。
灯真が会釈をした。
仙桃院が小さく頷いて、景虎の部屋の方へ歩いていった。
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廊下に、一人残った。
(……ご無事で)
直江の声が、頭に残っていた。
あの声の色は、灯真が聞いたことのあるものではなかった。
政務の声でも、警戒の声でも——忠義の声でもなかった。
もっと古い場所から来た声だった。
(あの人は、景虎様の姉だ)
確認するように思った。
(そして、直江殿は——)
続きが出てこなかった。
続きを考えることが、あの二人に対して失礼な気がした。
廊下を歩いた。
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翌日、才助が「灯真さん、薬草園に千代さんっていう娘がいるの、知ってますか」と言った。
「知らない」
「医師の娘なんですけど、手当てが上手いって評判で。城の人たちがよく頼んでるみたいですよ」
灯真は少し考えた。
「従軍に使えるかもしれない。連れてきてくれ」
「え、俺がですか」
「お前が知っているなら」
「……わかりました」
翌日、才助が連れてきた。
小柄な娘だった。
落ち着いた目をしていた。怯えもせず、かといって媚びることもなく、灯真の前に立った。
「薬草の目利きと、手当てができると聞いた。従軍の際に医療の人手が欲しい。景虎様に話を通すが、それまでに一度、手当ての腕を見せてほしい」
「わかりました」
千代が答えた。
怯えも媚びもない、短い返答だった。
同席していた斎藤朝信[※上杉四天王の一人。知略に優れた智将。この時十八歳前後。]が——黙っていた。
話し合いが終わって、千代が下がった後も、朝信は壁を見ていた。
才助が後で「灯真さん」と小声で来た。
「何だ」
「朝信様、千代さんを見てから全然喋らなくなりましたね」
「……そうか」
「気づいてましたか」
「なんとなく」
「恋ですかね!!」
「うるさい」
「すみません!!」
才助が縮んだ。
灯真は記録帳を開いた。
千代の手当ての技量。薬草の知識の範囲。従軍への適性——。
書きながら、朝信の横顔を思い出した。
壁を見ていた目。
何も見ていない、あの目。
(……そういうものか)
思って、記録の続きを書いた。
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仙桃院が帰る日の夕方だった。
廊下で、目が合った。
仙桃院が、足を止めた。
灯真も止まった。
「……あなたが灯真殿ね」
「はい」
仙桃院が灯真をしばらく見た。
値踏みというより——確認するような目だった。
「景虎をよろしく」
言って、廊下を歩いた。
「——仙桃院!」
景虎の声が来た。
横の部屋の戸が開いて、景虎が廊下に出てきた。
しかし仙桃院はすでに角を曲がっていた。
景虎が角の向こうを見た。
灯真を見た。
「……何を言った」
「景虎をよろしく、と」
景虎の目が、少し動いた。
何かを言いかけて——言わなかった。
「……余計なことを」
小さく言って、部屋に戻った。
戸が閉まった。
灯真は廊下に一人残った。
仙桃院の去った方向を、少し見た。
(景虎をよろしく)
頼まれた。
頼まれたことに、灯真は違和感を覚えなかった。
もともと——そのつもりでいたから。
炉場に向かって、歩き出した。
春の夕方の光が、廊下を橙に染めていた。




