第八章 越後の春 第8-2話 炉場の視察
景虎が炉場に来たのは、昼の少し前だった。
護衛を連れていなかった。
甲冑ではなく、動きやすい小袖に、細い帯。刀だけ差していた。
「視察だ」と景虎が言った。
三郎[※五十がらみの鋳物師。無口だが本質を一言で掴む職人。灯真の実験に欠かせない協力者。「川の流れと同じか」という言葉で灯真の設計理論を理解した男。]が「お邪魔なら」と引こうとした。
「構わん。続けろ」
三郎が頷いて、作業に戻った。
景虎が炉の前に立った。
灯真は実験を続けた。
今日は焙烙の新しい形状を試していた。底の厚みを変えた試作品が三つ。それぞれに同量の火薬を詰めて、反応の違いを記録する。
計算書を書きながら、横目で景虎を見た。
景虎は炉の火を見ていた。
動かなかった。
視察という名目にしては、何も確認していなかった。
ただ、火を見ていた。
三郎が試作品の一つを台の上に固定した。
灯真が「少し下がってください」と景虎に言った。
「なぜ」
「爆発物の実験なので」
景虎が三歩、下がった。
実験をした。
鈍い音と、白い煙。
石の的に、新しい欠け方が生まれた。
灯真が欠けを確認して、記録した。
「……なぜ火が好きなのか」
景虎が言った。
「好きというより——研究対象です」
「同じことだ」
灯真は少し止まった。
「……そうかもしれません」
景虎がわずかに、表情を動かした。
笑ったわけではない。
しかし何かが——和らいだ。
「儂は、昔から火が好きだった」
静かな声だった。
景虎が「好き」という言葉を使うのを、灯真は聞いたことがなかった。
「……毘沙門天の炎を初めて見た時、安心した」
「安心、ですか」
「炎の前では、何も考えなくていい気がして」
灯真は記録帳を閉じた。
「俺も炉の前では余計なことを考えなくなります」
景虎が灯真を見た。
灯真も景虎を見た。
しばらく、二人が向き合った。
「……同じか」
「同じかもしれません」
景虎が炉に目を戻した。
灯真も炉に目を戻した。
火が揺れていた。
何も言わなかった。
言わなくてよかった。
ただ並んで、炎を見ていた。
三郎が静かに作業を続けていた。
道具の音だけがして、それが遠くに聞こえた。
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後から、なぜあの瞬間を覚えているのか、と思った。
特別なことは何もなかった。
並んで炎を見ていただけだった。
しかし——覚えていた。
炎の色。三郎の作業音。景虎の横顔。
全部が、記録帳に書いたわけでもないのに、頭に残っていた。
研究者として分析しようとした。
答えが出なかった。
炉場の外で、才助が「景虎様、よく来られますね」と言った。
「仕事の視察だろう」
「そうですかねえ」
才助が首を傾げた。
灯真は記録帳を開いた。
「……そうですかねえ」と才助がもう一度言った。
「うるさい」
「すみません」
才助が黙った。
灯真は記録を書き続けた。




