第八章 越後の春 第8-1話 城中の噂
天文20年(1551年)春〜夏
春が、深くなっていった。
越後統一からひと月が経った。
戦がなかった。
戦の気配がなかった。
城の空気が、少しだけ軽くなっていた。
灯真はそれを、炉場の仕事をしながら感じていた。
気配というものは数値化できない。しかし研究者として長年、実験の前後で「場の温度」が変わることは知っていた。
春日山城の場の温度が、今は穏やかだった。
才助は毎朝、噂を持ってきた。
今日は炉場に入るなり「灯真さん、聞きましたか」と言った。
「何を」
「政景様が昨夜また酒で暴れたそうですよ。厩の柱を一本折ったって」
「そうか」
「直江様が鬼の顔で怒鳴ってるって、台所の人が言ってました」
「そうか」
「昨夜、毘沙門堂の灯りが夜明けまでついていたって」
「そうか」
才助が「灯真さん、ちゃんと聞いてますか」と言った。
「聞いている」
「そうですか」と才助が言った。満足したらしく、作業の準備を始めた。
灯真は記録帳から目を上げた。
「……お前は忍びか」
「え、そんな大層なものじゃないですけど。ただ耳に入ってきて」
「全部入ってくるのか」
「なぜか入ってくるんですよね。不思議で」
才助が首を傾げた。
本当に不思議そうな顔だった。
「……才能だな」
「褒められてます?」
「褒めていない」
才助が「そうですか」と言って、鞴の点検を始めた。
灯真は記録帳に戻った。
才助の噂話は、しかし役に立つことがある。
直江が怒鳴っているということは、城内の何かが乱れているということだ。政景が酒で暴れるのは定期的なことだと聞いているが、頻度が上がっているなら理由がある。
(……毘沙門堂の灯りが、夜明けまで)
記録帳に線を引いた。
考えても、答えは出なかった。
昼過ぎに、才助が弁当を抱えて戻ってきた。
「灯真さん! お糸さんからもらいました!」
顔が赤かった。
「誰だ」
「城下の染物師のお糸さんです。以前から好きで、ずっと」
「言ったのか」
「言えないです。怖くて」
才助が弁当を灯真の前に置いた。
「これが証拠です。俺に弁当を作ってくれました。これは……そういうことですよね」
「どういうことだ」
「だから、その——好意というか」
「弁当は好意とは限らない」
才助が「えっ」と固まった。
「お世話好きな人が近くにいれば、弁当をくれることはある。研究者的に言えば、伝えなければ何も変わらないが」
「そういう問題じゃないんですよ!!」
「そうか」
「怖いんです。言って、もしお糸さんに嫌な顔をされたら、それからもう会いに行けなくなるじゃないですか」
才助が弁当の包みを見ていた。
「……今は会えてる。言わなければ、ずっと会えてる」
「それは会えていると言わない」
「灯真さん」
「そばにいるのと、傍観しているのは、違う」
才助が黙った。
しばらくして「……厳しいですね」と言った。
「事実を言っただけだ」
「事実でも、厳しいですよ」
才助が弁当の包みを開けた。
丁寧に結ばれた紐が、ほどけた。
中に、小さなおかずが並んでいた。
才助がそれを見て、また顔が赤くなった。
灯真は記録帳に戻った。
夕方、炉の火を落としながら、才助が聞いた。
「灯真さんも、好きな人とかいないんですか」
手が、少し止まった。
「……いない」
「そうですか」
才助が「そうですか」と言って、それ以上は聞かなかった。
灯真は炉を見ていた。
火が、静かに落ちていくところだった。
赤から、橙へ。橙から、暗い灰へ。
(いない)
言った言葉が、頭の中に残った。
正確には——いるのかどうか、わからない、だった。
しかし才助に説明することでもなかった。
炉の火が、消えた。




