表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
越後の軍神に愛された男〜軍神の正体は女性でした。傍に居続けたのは俺だけです〜  作者: 大夢虎鈴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/18

【余談】橘灯真の記録帳より——越後統一まで、あるいは俺が来る前のこと——

天文20年(1551年)春、春日山城にて。

越後に来て一年あまりが経った頃に書いた覚え書き。

知識として持っていたことと、実際に見聞きしたことを、整理しておく。



研究者の習慣として、知っていることと知らないことを区別しておきたい。


俺は現代から来た人間なので、この時代の出来事をある程度「知っている」。


しかし「知識として知っている」ことと、「目の前にある現実として理解している」ことは、全く別物だと、越後に来てから痛感している。


だから書く。


知識を、目の前の現実と照らし合わせるために。


---


・長尾景虎という人物について


俺が越後に来る前——つまり現代の俺が知っていた「上杉謙信」は、川中島で武田信玄と戦った軍神だった。


越後の龍。義の武将。敵に塩を送った人。生涯不敗に近い戦績を持つ、戦国最強の一人。


その程度の知識だった。


しかし今の俺の目の前にいる景虎は、二十歳の人間だ。


川中島はまだ先の話で、「上杉謙信」という名前にもなっていない。


まだ「長尾景虎」として、越後をまとめたばかりの若い領主だ。


---


・景虎が越後をまとめるまで


少し整理しておく。


景虎の父・長尾ながお 為景ためかげは、越後の守護代として実権を握った人物だった。しかし晩年は家臣の離反が続き、混乱の中で没した。


跡を継いだのは兄の長尾ながお 晴景はるかげだったが、病弱で統率力に欠けた。越後の国人衆は次々と離反し、景虎の父の代から続く内紛が繰り返された。


この混乱を収めたのが、景虎だった。


天文17年(1548年)、景虎は十八歳で栃尾城主として頭角を現し、国人衆の反乱を次々と鎮めていった。


そして天文19年(1550年)——俺がこの世界に来た年——に実権を掌握し、翌天文20年(1551年)に正式に家督を継承した。


これが今の状況だ。


---


景虎が越後の主になるまでの道は、単純ではなかった。


幼い頃、景虎は春日山城ではなく栃尾城で育てられた。父の側ではなく、一城主の元に預けられた形だった。


なぜか、については、今の俺には深く立ち入る知識がない。


ただ——景虎が「何も持たなくていい場所」として林泉寺りんせんじを必要としている理由が、その孤独な幼少期と無関係ではない気がしている。


これは俺の推測だ。記録としては参考程度に留める。


---


・越後の地理と塩について


越後は日本海に面した国だ。


米が豊かで、塩の産地でもある。


内陸の甲斐(武田の国)とは正反対で、越後にとって塩は輸出品になりえる。


今俺が改良を進めている塩田の件も、この地政学的な優位を活かすためだ。


塩が余れば、それは財政基盤になる。


そしていつか——敵が塩に困った時に、止めないだけでいい。


それが義にもなり、利にもなる。


景虎はこの話を聞いた時に黙っていた。


海を見ていた。


あの時の横顔を、俺はまだ覚えている。


---


・ 直江実綱という人物について


ここで一つ、現代の読者がよく間違える点を書いておく。


「直江」といえば、現代では「直江兼続なおえかねつぐ」が有名だ。


「愛」の前立の兜。上杉景勝の腹心。「直江状」で徳川家康に正面から喧嘩を売った男。


しかし今の春日山城にいる直江は、実綱さねつなという別人だ。


兼続はまだ生まれていない。実綱の娘婿として後に直江家を継ぐ人物だが、それはまだずっと先の話だ。


今の直江実綱は四十一歳。


景虎の筆頭家老として、この城を実務で支えている。


俺を最初から警戒していた。今もどこか警戒している。


しかし時々、「礼くらい言う」と言って礼を言う。


あの人が礼を言う時の顔は、鬼の顔より人の顔をしている。


---


・川中島について


天文22年(1553年)——つまり来年——から始まる予定の、武田信玄との一連の戦いについては、俺は詳細を知っている。


計五次にわたる川中島合戦。


その中でも天文24年(1555年)の第二次、永禄4年(1561年)の第四次が特に激しかった。


第四次では景虎が単騎で信玄の本陣に斬り込んだ、という逸話が残っている。


今の景虎を見ていると——そういうことを、本当にやる人だと思う。


止められないとわかっていても、止めたくなる。


これは研究者としての客観的な記録ではなく、個人的な感情だ。


記録帳に感情を書くべきではないが、書いておく。


正確な記録のためには、自分の立場を明示しておく必要があるから。


---


・俺がここにいる理由について


炎の声は「そばにいろ」と言った。


信玄は「軍神を人に返してやれ」と書いてきた。(これはまだ先の話だが)


俺が自分で考えていることは——景虎という人間の全部を、まだ知らない、ということだ。


知識として持っていた「上杉謙信」と、目の前にいる「景虎」は、重なる部分もあれば重ならない部分もある。


重ならない部分の方が、今は多い気がしている。


それを確かめるために、ここにいる。


そういうことにしておく。


少なくとも今は。


---


以上、天文20年(1551年)春の記録。


次の記録は塩田改良の工事進捗について。そちらは別の帳面に書く。


---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ