【余談】橘灯真の記録帳より——越後統一まで、あるいは俺が来る前のこと——
天文20年(1551年)春、春日山城にて。
越後に来て一年あまりが経った頃に書いた覚え書き。
知識として持っていたことと、実際に見聞きしたことを、整理しておく。
研究者の習慣として、知っていることと知らないことを区別しておきたい。
俺は現代から来た人間なので、この時代の出来事をある程度「知っている」。
しかし「知識として知っている」ことと、「目の前にある現実として理解している」ことは、全く別物だと、越後に来てから痛感している。
だから書く。
知識を、目の前の現実と照らし合わせるために。
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・長尾景虎という人物について
俺が越後に来る前——つまり現代の俺が知っていた「上杉謙信」は、川中島で武田信玄と戦った軍神だった。
越後の龍。義の武将。敵に塩を送った人。生涯不敗に近い戦績を持つ、戦国最強の一人。
その程度の知識だった。
しかし今の俺の目の前にいる景虎は、二十歳の人間だ。
川中島はまだ先の話で、「上杉謙信」という名前にもなっていない。
まだ「長尾景虎」として、越後をまとめたばかりの若い領主だ。
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・景虎が越後をまとめるまで
少し整理しておく。
景虎の父・長尾 為景は、越後の守護代として実権を握った人物だった。しかし晩年は家臣の離反が続き、混乱の中で没した。
跡を継いだのは兄の長尾 晴景だったが、病弱で統率力に欠けた。越後の国人衆は次々と離反し、景虎の父の代から続く内紛が繰り返された。
この混乱を収めたのが、景虎だった。
天文17年(1548年)、景虎は十八歳で栃尾城主として頭角を現し、国人衆の反乱を次々と鎮めていった。
そして天文19年(1550年)——俺がこの世界に来た年——に実権を掌握し、翌天文20年(1551年)に正式に家督を継承した。
これが今の状況だ。
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景虎が越後の主になるまでの道は、単純ではなかった。
幼い頃、景虎は春日山城ではなく栃尾城で育てられた。父の側ではなく、一城主の元に預けられた形だった。
なぜか、については、今の俺には深く立ち入る知識がない。
ただ——景虎が「何も持たなくていい場所」として林泉寺を必要としている理由が、その孤独な幼少期と無関係ではない気がしている。
これは俺の推測だ。記録としては参考程度に留める。
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・越後の地理と塩について
越後は日本海に面した国だ。
米が豊かで、塩の産地でもある。
内陸の甲斐(武田の国)とは正反対で、越後にとって塩は輸出品になりえる。
今俺が改良を進めている塩田の件も、この地政学的な優位を活かすためだ。
塩が余れば、それは財政基盤になる。
そしていつか——敵が塩に困った時に、止めないだけでいい。
それが義にもなり、利にもなる。
景虎はこの話を聞いた時に黙っていた。
海を見ていた。
あの時の横顔を、俺はまだ覚えている。
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・ 直江実綱という人物について
ここで一つ、現代の読者がよく間違える点を書いておく。
「直江」といえば、現代では「直江兼続」が有名だ。
「愛」の前立の兜。上杉景勝の腹心。「直江状」で徳川家康に正面から喧嘩を売った男。
しかし今の春日山城にいる直江は、実綱という別人だ。
兼続はまだ生まれていない。実綱の娘婿として後に直江家を継ぐ人物だが、それはまだずっと先の話だ。
今の直江実綱は四十一歳。
景虎の筆頭家老として、この城を実務で支えている。
俺を最初から警戒していた。今もどこか警戒している。
しかし時々、「礼くらい言う」と言って礼を言う。
あの人が礼を言う時の顔は、鬼の顔より人の顔をしている。
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・川中島について
天文22年(1553年)——つまり来年——から始まる予定の、武田信玄との一連の戦いについては、俺は詳細を知っている。
計五次にわたる川中島合戦。
その中でも天文24年(1555年)の第二次、永禄4年(1561年)の第四次が特に激しかった。
第四次では景虎が単騎で信玄の本陣に斬り込んだ、という逸話が残っている。
今の景虎を見ていると——そういうことを、本当にやる人だと思う。
止められないとわかっていても、止めたくなる。
これは研究者としての客観的な記録ではなく、個人的な感情だ。
記録帳に感情を書くべきではないが、書いておく。
正確な記録のためには、自分の立場を明示しておく必要があるから。
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・俺がここにいる理由について
炎の声は「そばにいろ」と言った。
信玄は「軍神を人に返してやれ」と書いてきた。(これはまだ先の話だが)
俺が自分で考えていることは——景虎という人間の全部を、まだ知らない、ということだ。
知識として持っていた「上杉謙信」と、目の前にいる「景虎」は、重なる部分もあれば重ならない部分もある。
重ならない部分の方が、今は多い気がしている。
それを確かめるために、ここにいる。
そういうことにしておく。
少なくとも今は。
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以上、天文20年(1551年)春の記録。
次の記録は塩田改良の工事進捗について。そちらは別の帳面に書く。
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