第七半章 禅と炎 第7.5-1話 林泉寺の庭
天文20年(1551年)夏
夏になった。
才助が炉場に来て、開口一番に言った。
「景虎様が林泉寺に籠もっているそうですよ」
「そうか」
「毎年この時期に籠もるらしいですよ。禅の修行だって」
「知らなかった」
「俺も今日初めて聞きました。城の中の人は皆知ってるみたいですけど」
才助が手伝いの材料を置いて、また出ていった。
灯真は記録帳を閉じた。
なぜ閉じたのか、自分でもよくわからなかった。
林泉寺。
春日山城から半刻ほどの寺だ。景虎の幼少期に師事した和尚がいると、宇佐美から聞いたことがある。
(……禅の修行)
甲冑を脱いだ景虎を、一度だけ見たことがある。
あの夜の廊下で。
研究者として分析すれば——それは単なる偶然の場面だった。しかし灯真の頭には、あの夜の景虎の顔が、まだ残っていた。
疲れた、人間の顔。
(毎年、誰にも言わずに来ている場所か)
記録帳が、机の上にあった。
今日の仕事は、まだ残っていた。
灯真は立ち上がった。
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林泉寺は、山裾の静かな寺だった。
夏の木々が深く、参道の石畳が涼しい影の中にあった。
灯真は門の外で、少し立ち止まった。
来てしまった、とは思わなかった。
来るつもりはなかった、とも——正確には言えなかった。
門をくぐった。
境内は静かだった。
石畳を歩いていくと、本堂の横に、庭に面した縁側があった。
縁側に、人が座っていた。
灯真は足を止めた。
景虎だった。
甲冑がなかった。刀もなかった。
白い小袖に、薄い帯。髪を後ろに束ねて、縁側の端に結跏趺坐で座っていた。
目が閉じていた。
動かなかった。
庭の木が、夏の風に揺れていた。
(……この人は、こういう時間を持っている)
誰にも言わずに。毎年。
春日山城の景虎とは、違う。
軍神でも、越後の主でも、毘沙門天の器でもない。
ただの人の形をした存在が、庭の前で静かに座っている。
灯真は引こうとした。
来たことを悟られる前に、戻ればよかった。
踵を返した、その瞬間——。
「……なぜここにいる」
声が来た。
景虎の目が開いていた。
こちらを向いていた。
灯真は止まった。
「散歩していました」
「嘘をつくな」
間があった。
「……少し、気になって」
景虎がしばらく灯真を見た。
何かを考えているような顔だった。
怒ってはいなかった。かといって、歓迎しているわけでもなかった。
ただ見ていた。
「……入れ」
景虎が言った。
「よろしいのですか」
「二度言わせるな」
灯真は縁側に上がった。
庭に向かって、景虎の隣に座った。
木々の葉が揺れていた。
光が、葉の間から斑に落ちていた。
二人は並んで、その庭を見ていた。
景虎が何も言わなかった。
灯真も何も言わなかった。
(……ここに入れたことは、なかったはずだ)
灯真にはわかった。
宇佐美も直江も、ここには来ない。毎年、誰も来ない場所だと、才助が言っていた。
では——なぜ俺を入れた。
そう聞こうとして、やめた。
聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。
庭の石に、小さな蜥蜴が出てきた。
日向に出て、動かなくなった。
景虎の目がその石の上に向いた。
灯真も同じ石を見た。
蜥蜴は少し頭を動かして、また静止した。
「……ここは静かですね」
「毎年来る」
「禅の修行のために」
「それだけではない」
景虎が前を向いたまま言った。
「……ここでは、何も持たなくていい」
低い声だった。
灯真は景虎を見なかった。
庭を見ていた。
(何も持たなくていい)
甲冑も刀も、越後の主という名前も。
「そういう場所が、要るのですか」
「要らぬと思っていた」
「今は」
景虎が答えなかった。
答えの代わりに、静けさがあった。
蜥蜴が石の影に消えた。
夏の風が、庭の葉を揺らした。
灯真はその風を、黙って受けた。




