第七章 毘沙門天の降臨 第7-3話 軍神の朝
儀式が始まった。
春日山城の広間。外は春の光。内は厳粛な静けさ。
橘 灯真は廊下から、広間の端を覗いていた。
正式には招かれていない。しかし宇佐美に「見ておいてもいいぞ」と言われていたから、遠慮なく見ていた。
広間に家臣たちが居並んでいた。
直江が最上座近くに控えていた。柿崎[※柿崎 景家。上杉四天王筆頭の猛将。先鋒として知られ、「鬼柿崎」と恐れられた。]。荒川[※荒川 長実。上杉四天王の一人。寡黙で堅実な将。]。斎藤朝信[※上杉四天王の一人。猛将型ではなく知略に優れた智将。この時まだ十八歳前後。]はまだ若い顔で背筋を伸ばしていた。宇佐美は少し離れたところに、静かに座っていた。
そして——景虎が入ってきた。
甲冑を身につけていた。
完璧な甲冑だった。傷ひとつない。磨き上げられた漆黒に、細かな飾りが入っている。
顔が、昨夜とは違った。
廊下で向き合った顔とは——同じ人とは思えなかった。
昨夜は疲れていた。
今日の顔には、疲れがない。
疲れがないのではなく——仕舞ってきた、とでも言うべき顔。
どこかに。一人で。
軍神の顔だった。
越後の主として、毘沙門天の器として、この場に立つべき者の顔。
研究者として分析しようと、灯真は思った。
思って——やめた。
分析するものではない気がした。
ただ見ていた。
「灯真さん」
小声で才助が来た。灯真の隣に並んだ。
「なに」
「今日の景虎様、すごいですね。別人みたいですよ」
「別人じゃない」
「え、でも顔が違いますよ」
「顔が違うだけだ」
「それって……別人じゃないんですか?」
才助が首を傾げた。
説明しようとして——やめた。
「……少し黙ってくれ」
「あ、すみません」
才助が黙った。
広間では儀式が続いていた。
どちらも本物だ、と灯真は思った。
昨夜の顔も景虎だ。今日の顔も景虎だ。
しかし——どちらの景虎が「景虎」なのかは、まだわからない。
炎の声は「そばにいろ」と言った。
今日の景虎を見ていて、少しだけ——引っかかるものがあった。
この人は昨夜の疲れを、一人で仕舞ってきた。
仕舞って、ここに立っている。
(……それは)
問いが出てきた。
答えは出なかった。
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儀式が終わった後、廊下で止まった。
「……灯真」
後ろから呼ばれた。
直江がいた。
護衛を連れていなかった。廊下の端まで来て、周囲を一度確認した。
「……お前が見たことを、忘れろ」
灯真が止まった。
直江が少し、間を置いた。
「あの夜のことだ」
灯真は直江を見た。
硬い顔。何か言いたそうな目。
しかし言わなかった。
「わかりました」
「……忘れろ」
繰り返して、直江が去った。
背中を見ながら、灯真は思った。
忘れる必要はない。
ただ、言わなければいい。
それが、この男の言いたいことだ。
口の立つ男ではないから「忘れろ」としか言えない。本当のことは——言うな、だ。
「わかりました」
誰もいない廊下に、もう一度だけ言った。
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夕方になった。
炉場に戻った灯真は、行灯に火を入れた。
記録帳を開いた。
筆が、止まった。
「灯真さん、今日の景虎様の顔、やっぱり別人みたいでしたね」と才助が言った。
「どちらも本物だ」
「どちらも、って——二つあるんですか」
「そうだ」
「難しいな」
才助がそれ以上は聞かずに、炉の前に座った。
炎が揺れていた。
行灯の、小さな炎。
(景虎様は今日から軍神になった)
灯真は炎を見ながら、思った。
(俺は——どちらの景虎様のそばにいるのだろう)
答えは出なかった。
しかし——どちらのそばにもいたい、とは思った。
どちらも景虎だから。
才助がいつの間にか眠っていた。炉の前で小さく丸まって、静かな寝息を立てていた。
春の夜が、静かに深まっていった。
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