第一章 炎の中の声
午前二時十七分。
国立エネルギー研究所、第三実験棟。
橘 灯真は、炉の前に立っていた。
計器の数字が、ゆっくりと上昇している。
温度。圧力。燃焼効率。
灯真の目はその三つを、一秒ごとに追っていた。
今夜で三十七回目の実験だった。
(また、上がりすぎている)
内心で呟いて、バルブを微調整する。
燃焼炉の内壁温度が安定するまで、あと十五分はかかるはずだった。
それまでの間、灯真にできることは待つことだけだった。
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研究所の深夜は静かだ。
廊下の蛍光灯が一本、定期的に瞬いている。
それ以外の音といえば、炉の燃焼音と、灯真が椅子を引く音と、それからコーヒーメーカーが老いた機械のように唸る音くらいのものだった。
同僚の神田は今夜も付き合うと言い張ったが、二十三時を過ぎた頃に机の上で眠り込んでいた。
灯真はそっと毛布をかけてやって、そのまま実験を続けた。
神田の寝顔を見ながら思ったのは、この男には帰る家があるということだった。
自分には、あまりそういう感覚がない。
研究所が家だ。炉が家だ。
燃焼という現象が、灯真にとって最も落ち着ける場所だった。
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炉の内部で、炎が揺れている。
灯真は観察窓の向こうに視線を固定したまま、メモを取り続けた。
火というのは、つくづく不思議な存在だと思う。
熱力学の教科書を開けば、そこに答えは書いてある。
酸化反応。発熱。光の放出。
しかし、それだけでは説明できないものが、炎にはある。
古来から人間が火を恐れ、崇め、神聖視してきた理由が、灯真にはわかる気がした。
炎は、見つめているとどこかに連れていかれそうな気がする。
(……馬鹿なことを考えている)
首を振って、計器に目を戻す。
温度が、また上がっていた。
(おかしい)
設定値を超えている。
バルブを絞る。しかし数値は下がらない。
(なぜだ)
灯真の指が、制御パネルの上を走る。
燃料の流量。酸素の供給量。炉壁の熱伝導率。
すべてを確認する。
計算が合わない。
これだけの燃料量で、この温度は出ないはずだった。
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警告音が鳴った。
甲高い、耳を刺す音だった。
灯真は反射的に非常停止ボタンに手を伸ばした。
その瞬間だった。
炉の観察窓の向こうで、炎が——形を変えた。
(何だ)
思考が、止まった。
炎が、人の形をしていた。
正確には、人の形に似た何か、だった。
輪郭が揺らいで、掴みどころがない。しかし確かにそこにいる。
炎の中に、誰かがいる。
(幻覚か。疲労か。睡眠不足か)
研究者としての灯真は、即座に原因を列挙しようとした。
しかしその思考は、次の瞬間に止まった。
炎の中の「何か」が、こちらを見たのだ。
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目があった、と思った。
炎には目がない。
しかし確かに何かと視線が交わった、と、灯真の脊髄が告げていた。
「……誰だ」
声が出た。
自分でも気づかないうちに言葉になっていた。
炉に向かって話しかけるなど、普通は恥ずかしくてできない。しかし今夜の灯真は、そういう判断が働かなかった。
炎の中の何かが、揺れた。
答えているように見えた。
(俺は疲れている。帰って寝るべきだ)
頭ではそう思っていた。
しかし足が動かなかった。
炎が、美しかった。
これほど美しい燃焼を、灯真は見たことがなかった。
燃焼効率が高すぎる。これでは理論値を超えている。ありえない反応だ。
そんな分析をしながら、同時に、目が離せなかった。
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炉の内壁温度が、さらに上昇した。
警告音が二度目を鳴らした。
灯真の指が、停止ボタンを押そうとした。
その瞬間、炉が——爆発した。
爆発、というほどの衝撃ではなかった。
ガラスが割れる音がして、熱風が吹いた。
灯真は後ろに吹き飛ばされ、コンクリートの壁に背中を打ちつけた。
(神田が——)
最初に思ったのはそれだった。
爆風で神田が怪我をしていないか。
しかし体が動かない。
天井が見えた。
蛍光灯の光が、白く、遠く、揺れていた。
炎の熱が、まだ顔に当たっている。
(……熱い)
それが最後の感覚だった。
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炎の中に、声があった。
声、と言っていいのかどうか、わからない。
音というより、意味が直接頭に流れ込んでくるような感覚だった。
灯真は夢の中にいるのか現実の中にいるのかわからないまま、その声を聞いていた。
*——お前を、呼んでいた*
誰が、と問おうとした。
*——炎の子よ。お前は炎に親しみを持って生きてきた。だから選んだ*
意味がわからない、と思った。
*——ある女が、砕けそうになっている。そばにいてやってほしい*
女、と思った。
*——神の器として完璧に作られた女だ。勝ちすぎた。感じなくなりすぎた。このままでは、器が割れる*
それは困る、と誰かが言っている。
その誰かが自分なのか別の誰かなのか、灯真には判断できなかった。
*——行ってくれるか*
どこへ、と聞こうとした。
答えは言葉ではなく、炎として返ってきた。
熱が、全身を包んだ。
痛みはなかった。
ただ——温かかった。
燃焼炉の前に立つ時とは違う温もりが、灯真の全身に浸透していった。
意識が、遠のいていった。
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最後に見えたのは炎だった。
最後に聞こえたのは炎の声だった。
最後に感じたのは炎の熱だった。
橘 灯真、二十九歳。
国立エネルギー研究所の燃焼工学研究者。
炎を研究対象として選んだ男が、炎に選ばれた夜だった。
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神田 朔が目を覚ましたのは、それから三十分後のことだった。
実験室に煙の匂いがした。
観察窓のガラスが割れていた。
灯真の計器が、全て止まっていた。
そして、灯真がいなかった。
「先輩?」
返事はなかった。
廊下を探した。トイレを確認した。屋上まで見にいった。
どこにもいなかった。
消えていた。
研究所の防犯カメラには、炉が爆発する瞬間が記録されていた。
灯真が後ろに吹き飛ぶ瞬間が、記録されていた。
しかしその後——神田が目を覚ますまでの三十分間——灯真がどこへ消えたのかは、カメラにも、記録にも、何にも残っていなかった。
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翌朝、神田は警察に届けを出した。
行方不明者届。
手が震えていた。
受理してくれた担当者は、三十代の男性で、申し訳なさそうな顔をしながら言った。
「一晩で届けが出るのは早い方なんですが……まずは、探してみます」
神田は頷いた。
頷きながら、思っていた。
先輩は死んでいない、と。
根拠はなかった。
しかし神田には確信があった。
橘灯真は、どこかにいる。
ただ——ここではない、どこかに。
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その確信を、神田は十年以上持ち続けることになる。
研究所の変人として笑われながら。
「あいつは死んでいない」と言い続けながら。
その答えが返ってくる日まで。
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*炎の向こうに、雪があった。*
*白く、深く、果てしない雪が。*
*橘 灯真は、雪の中に落ちていた。*




