家(うち)に帰ろう2
午前の一一時だった。真二はウェストブロックの事務所を出たところで、着ぐるみのポパイとオリーブ、そのエスコート役のクルーと出くわした。彼らはこれからエントランスに出て、ゲートを通り過ぎたゲストにグリーティングをするのだ。
ポパイたちはゲストにするように真二に手を振った。中のエンターテイナーは一旦着ぐるみを被った時点で、相手がパークの人間であれ、彼らはキャラクターそのものに切り替わるのだ。
真二は軽く手を上げた。
「暑いね。頑張って」と真二はエスコートのクルーに声を掛けた。
この太陽で着ぐるみだと、すでにサウナ状態のはずだった。
直接キャラクターたちに労いの言葉を掛けたいところだが、キャラクターたちは声を発することができない。しかしキャラクターを被るエンターテイナーの殆どは女性だから、着ぐるみの匂いにさえ目をつぶることができれば、ダイエット希望の人にとっては丁度良いのかもしれなかった。
彼らとはその場で左右に別れた。彼らはファーストエイドとウェストブロックの間のクルー出入口からオンセットへ出る。今の時期は家族連れが中心だから、エスコートがそう気を揉むこともないはずだった。学生旅行のシーズンには、学生の団体が仲間内で調子に乗って、キャラクターのヘッドを後ろから外してみたり、いたずらが過ぎることがある。キャラクターを被っているとエンターテイナーたちの視界は極端に狭くなるので、エスコートの責任は重大なのだ。
真二はハリウッド大通りへの出入口からオンセットに出た。『メルズ』までハリウッド大通りの歩行者道を歩いた。以前ネームタグをつけたクルーが何げなく道路の中央を歩いていたことがあり、怒ったゲストがインターネットのパーク関連ホームページに書き込み、標榜するホスピタリティには程遠いと大事になったのだった。
『メルズ』前に至ると、スペースに収まり切らないゲストが道路まで出てステージを取り囲んでいるのが見えた。
ステージ上の『ハリウッド・ハイ・トーンズ』は男女二人づつ白人四人のオーソドックスなオールディーズを歌うグループで、ランダムに選んだゲストの出口調査でも、評判は悪くなかったし、ジャズでなくとも真二自身も気に入っていた。
彩もきっと気に入るに違いなく、そして『メルズ』の中では彩が立ち居働いているはずだった。真二は振り向いてレストランの中を覗いてみた。まだ昼食前なので混雑していなかったが、彩を確認することはできなかった。
真二はしばらくゲストの後方から、『ハリウッド・ハイ・トーンズ』のパフォーマンスを眺めていた。一人が真二に気付いて歌いながら目配せをした。名前は確かトミーだった。真二は親指を立ててグッド!と合図した。トミーは歌いながら嬉しそうな笑顔を作った。
そろそろその場を離れようと歩きだしたとき、ダディと呼び止められた。『メルズ』のワードローブに身を包んだ彩だった。
「ダディと呼ぶなと言ってるだろう」
「私を探しに来てくれたのかと思って」
「まさか」
彩の年齢の娘は誰でも自分中心に世界は回っているのだ。
「職場を離れて大丈夫なのか?」
「すぐ戻るもの」
「可愛いでしょ。このコスプレ」ピンクのワードローブは愛らしかった。
「誰が着ても可愛らしく作ってあるんだ。その格好じゃゲストに目立つからすぐに戻った方がいいな」
「上司が店員と話してるように見るわよ」
「どうかな」
「似合ってるでしょ」
「一九五〇年代のファッションなんだ」
「褒めてるの?」
「もう戻れ」
『メルズ』は『アメリカン・グラフィティ』の舞台なんだということなど、今ここで説明し始めると長くなるのだ。
「マミーはどうしてあんな言い方なのかしら。ねえ、ダディの演奏聴きに行ってもいいわよねえ」
「ああ、多分。僕から言ってみる」
「約束よ」
「ああ。しばらく時間をくれ」
彩は背を向けてレストランの中にスキップするように戻っていった。
水曜日、いつものように真二はクラブに出掛けた。木島と加納はまだ来ていなかった。カウンターにはオーナーと蝶ネクタイをした野島がいた。真二はステージにギターをセットしてからカウンターに腰掛けた。
真二が切り出すまでもなく、オーナーは美里のことを言った。父親を知るかもしれない人の情報を美里には携帯で連絡してあり、その内何人かには既に連絡を取っているようだった。
「どんな人を紹介したんですか?」
「そんなに知りたいか?」
「そんなに知りたくはないです」
「じゃあ言わないさ」
真二が沈黙するのに、
「昔の音楽仲間さ」とオーナーは言った。
「見つかりそうですか?」
「どうかな。過去の彼女の父親を知る人は見つかるだろう。今どこにいるかが分かるかどうかだな」
「そうですか」
「一緒に探してやらなくていいのか?」オーナーは真二を見ずに言った。
「僕がですか?」
「そうだ、真二がだ。実は彼女に紹介した人間の中には少しやばいメンバーもいる。お父さんは金に困っていた可能性もあるから、実は音楽仲間だけでなく俺が付き合いのあるその方面の人種も紹介した」
「本当ですか」
「彼女の父親は今でも金に困ってる可能性はあり、その筋から逃げ回っているとすれば、彼女は飛んで火にいる夏の虫になるかもしれないな」
「どうしてそんな人を紹介したんですか?」思わず真二は声を荒らげていた。
「それでもいいかと彼女には言った」
野島がいつものように真二の前にビールを置いた。自分がどうしてそんなに気に病む必要があるのだ、真二は何とか気持ちを鎮めた。
「今日、彼女来るかもしれないな。真二の演奏を聴きたいと言っていた。さて、何を演奏するかな」とオーナーが聞いた。
「オーナーのやりたいものでいいですよ。オーナーのやる曲なら大抵僕も気に入ってます」
「真二が何かやりたい曲があるかと思ったんだが」
「ないです。特に」真二はビールを飲んだ。
気にしていないつもりが、美里が来ると聞いてから自分が落ち着いていないのが分かっていた。
どうして美里は今になって自分の前に現れたのだ。偶然の再会が、どうしてそれで終わらないのだ。例え父親を探す伝手が他にないにしても、どうして自分の演奏の日にまたやって来る。例えそれが橋渡しをしてくれた人間に対する、状況の説明や、恩の印だとしても・・・ことは全て偶然で、美里に何の他意がないにしても・・・
かといって、美里とのことが自分の胸をかき乱しているわけではない。敢えて言えば胸の奥に刺さった、ほんの小さな棘のようなものに過ぎないのだ・・・
オーナーは何かを真二に喋っていた。けれど手の平に落ちた雪のように、オーナーの声は耳に届いた途端に熔けて消えるようだった。真二はオーナーの顔をちらちら見ながら相槌だけを打っていた。
入り口のドアが開く音がした。ドアの開け方だけで、木島や加納か、あるいは客が入って来たのか、真二は聞き分けることができていた。今回は少なくとも彼らではなかった。そしてそれは、遠い昔に聞き慣れた音のようだった。オーナーがドアの方に口元を緩めて会釈した。真二はおもむろに振り向いた。
美里はすっとカウンターの方に歩いてきて、軽く頭を下げた。オーナーが手で真二の横に座るよう仕草し、美里は腰を下ろした。
「手掛かりはあったのか?」と真二は美里に聞いた。
「イエス、アンド、ノー」
「どういうことだ?」と真二は言った。オーナーは何も言わなかった。
「昔の父を知る人はいても、今どこでやっているか知る人がいないの」
「探偵にでも頼んだ方がいいかもしれない。やはりプロはプロだから」と真二は言った。
「いずれそうするかもしれないわね」
「どうして今じゃないんだ」
「そうね・・・」美里はオーナーを上目遣いに見てから視線をカウンターに落とし、しばらく考え込むようにした後に真二を向いた。
「私がこうして探し、会わしてくれるのならば運命がきっと会わしてくれるって気がするから。会わしてくれないならその後にあなたの言うように探偵にでも頼る」
「よく分からない。父親に会いたいのが目的なのであれば」
オーナーは何も言わず美里の前にビールを置いたあと、空のグラスを拭き続けている。
「変?」
「変じゃないさ」とオーナーが口を挟んだ。
真二と美里はオーナーを見た。そのとき入り口のドアが開く音がした。真二は音で加納だと分かった。加納のあとにベースを抱えた木島が入ってきた。
美里を見て二人は微笑み、「いらっしゃい」と加納が言った。
二人はそのままステージに向かい、木島はベースをセットし、加納はドラムをチェックしたあと、カウンターに戻ってきた。
「駅で丁度一緒になったんだ」と加納は言いながら真二の隣に、木島は美里の隣に座った。
「見つかったの?」と木島は美里に聞いた。
ウェストブロックの二階のオフィスに彩が訪ねて来たとき、真二はマットの部屋にいた。
オフィスのメンバーは『メルズ』のワードローブを着ていた彩を、間も無いクルーが飲食の事務所と間違って入り込んできたのだろうという視線で見ていた。
デスクから立ち上がった啓太が彩に声を掛けた。
「飲食の事務所はコーナーブロック、ハリウッド大通りを挟んだ向かいだよ」
「父が忘れ物をしたので届けに来ました」
しばらくして合点がいった啓太は大きく頷いた。
「君のお父さんは僕を啓太と呼ぶので、啓太と呼んでね」
通りかかった高橋正美を啓太が留めた。
「真二さんのお嬢さんだ」
あら、と彼女は目を大きくした。
「可愛らしいお嬢さん」
「初めまして」
「こちらの方は?」妙に大人びた口調で彩は啓太に尋ねた。
「高橋正美お嬢さんだ」
「お嬢さんって何よ」と高橋正美は言った。
「お嬢さんというのは何だかくすぐったいんだってさ」と啓太は彩に言った。
「他の人に言われたら心地いいのよ。ところであなたのお父さんは今ミーティング中なの」
「何なら僕が預かっておこうか?」と啓太が言った。
「こんな人に何か預けたら危ないわよ。私が預かっておいてもいいわよ」正美の言葉に、
「待たしてもらうことはできますか?」と彩が言った。
不思議そうに二人は彩を覗き込み、
「じゃあ、そこの休憩室に行きましょう」
正美は彩を促した。
「お姉さんは父の何なんですか?」
その言い方に啓太と彼女は吹き出した。
「私はお父さんの部下よ」
「そして僕はお父さんの部下のようなものだ」
「そうですか・・・」
「何だと思った?」
「さあ」
「コーヒー飲む?奢るわ」
「いいです」
「どうして?」
「じゃあいただきます」
正美と啓太はまた笑った。
休憩室に入った。正美は自販機にコインを入れて振り向いた。
「アイスコーヒーでいい?」
「ええ。ありがとうございます」
正美は紙コップのコーヒーを彩に手渡し、
「じゃあ、ゆっくりしててね。私は行かなきゃ。お父さんが戻って来たら連絡してもらうわね」
「ありがとうございます」と彩は言った。
「あなたはまだいいの?」高橋正美は啓太に聞いた。
「大丈夫」
「この人に変なことされたら大声で叫ぶのよ」と彩に言った。
「馬鹿」と啓太は言った。
正美は彩にウィンクして休憩室を出て行った。
しばらく座って啓太は彩に聞かれるままに会社での真二を語った。話は真二がマットや啓太とパーティーで披露した演奏に及んだ。真二がギターで『ランブル・ビート』とセッションしたことにも。
「『ランブル・ビート』を『ロンバーズ』で聴いたんでしょ。どうだった?」と啓太が聞いた。
「良かったです。『卒業写真』とかもあって」
「あの頃の生き方を、あなたも忘れないで・・・」啓太が口ずさんだ。
「そんな歌詞なんですか」
「知らないの?お父さんのギターが入るともっといいだろうね。どんな曲でもね」
「家で弾くの以外聴いたことないから」
「それは残念だね。クラブで毎週弾いてるのに」
「お酒を飲むところだから駄目だと母が言うんです」
「お母さんも一緒に行けばいいのに」
「何だかいやがるんです」
「そう・・・だったら僕が一緒についていってもいいよ」
「『ランブル・ビート』のメンバーもそうしてくれるって言ってくれました」
休憩室のドアが開いて真二が入ってきた。
「じゃあ、親子水入らずでどうぞ」と啓太は立ち上がり、
「またね」と彩に言った。すれ違いに、真二は啓太の肩を軽く叩いた。
「どうしたんだ。僕が忘れ物なんかしたか?」と真二は立ったまま彩に聞いた。
「ダディの仕事場を見たかったの」
「何だそれは。ただそれだけか」
「もしかして機嫌悪い?勝手に私が来たから?」
「そう見えるか。ミーティングのあとはいつもこんなものなんだ」
「大変ね」
「そうでもない」真二は自販機でホットコーヒーを買い、机を挟んだ彩の向かいの椅子に腰掛け、足を組んだ。
「こんな暑い日にホットコーヒー?」
「腹が冷えるからな」
「ジジくさい」
「そうかもな」
真二はコーヒーに口をつけた。
「パイロ、パイロって分かるか?火薬だ。火薬が高い、コスチュームが高いってボスがうるさくてね。普段はいいものを作るのが仕事だ、と言って後先考えずに金を使う。そして予算管理の部署からコストオーバーを指摘されると手の平を返してどうしてコスト管理をしていなかったんだと部下を責める。また予算管理の部署の連中は計数管理のプロでね。こっちをただの小遣い帳付けと思っている。どうしてそれくらいのことができないんだと思っている・・・まあ彩にこうして愚痴を言っても仕方ないな」
「それで本当に楽しいの?」
「楽しいこととやりがいとは違うんだ」
「分からないわ・・・でもダディの職場の人はいい人ばかりね」
「そうかな」
「そうじゃないの?」
「じゃあ、そうかもしれない」
「何だか安心した」
「何にだ?」
「ダディとあの高橋正美さんとはできていないわ。おそらく誰ともダディはできていない」
「一体何を言い出すんだ」真二は呆れて苦笑した。
「はっきり分かるわ」
「そうはっきり分かると言われるのも寂しいものだ。男の色気が微塵もないと言われているようなものだから」
「そうかな」
「そうさ」
「安心した。ダディがきちんとここにいる。ここに根付いているってことが分かる」
「何が言いたい?」
「ダディは何だかふわふわして見えた。ふっと空気のようにいなくなってしまいそうな曖昧さが気になってた」
真二はコーヒーを口に運んだ。
「前にも同じようなことを言ってたな。僕は彩の父親だぞ」
「信じたいわ」
「不思議な子だ」
「・・・私はね、マミーの代わりなの。私の心配はマミーの心配」
「彼女はそんな心配はしていないさ」
「そうかしら・・・そうかもしれないわね。忘れ物と言うのはね、ダディの演奏を聴かせてくれるって話。どうなったか家で聞けなかったから」
「聴きにくればいいんだ」と真二は言った。不意に美里の顔が浮かんでいたが顔には出さなかった。
「本当?マミーはいいって?」
「聞いてない」
「何だ。だめじゃない」
「いいさ、既成事実というやつだ。聴きにきてしまえばいい」
「だめよ」
「どうして」
「そんなことをしたら、マミーは私が勝手にマミーから離れて行くと思ってしまう」
「考え過ぎだ」
「ダディが鈍感なのよ」
「僕は彩より長く彼女を知っている」
「私はマミーと血が繋がっている。ダディはマミーと血は繋がっていないわ」
溜め息をついた真二に彩は言った。
「とにかくマミーにちゃんと言ってね。もう行くわ。『メルズ』が私を待っている。何度見ても似合ってるでしょ。このワードローブ」
彩は休憩室を出ていった。真二はコーヒーを飲み終えてから部屋を出た。自分の机に戻ってきたら啓太がやってきた。
「娘さんはもう帰ったんですか?」とパーティションに手を掛けながら啓太は聞いた。
「ああ」と真二は椅子に腰掛けた。
「聡明そうな子ですね」そう言えば全ての親が喜ぶと思っているように啓太が言った。
「そうでもない。何しろ僕の娘だから」
「いや、トンビが鷹をということですよ」
「馬鹿」
「しっかりしてます」
「大人びたい年頃なんだ」
「また来てと言っておいてくださいね」と啓太は笑顔を作った。
次の出番の水曜日、真二はギターを持って電車でクラブに向かっていた。車で行けばビールを飲めなくなるので面倒だが電車を利用していたのだ。江坂駅から難波まで乗り換えなしで行けるのも好都合だった。
見慣れた車窓からの景色は、電車が地下に潜って見慣れた闇になった。美里のことが気になっていた。
新たな情報が入っていれば、もう現れないかもしれない。けれどそれでいいのだ。そもそも美里は自分の目の前からすぐに居なくなってしまうべきだったのだから・・・
美里が居なくなることで胸のつかえが取れるというわけではない。そもそも胸のつかえなど存在はしない。それは敢えて言うなら、足の裏に出来たまめのようなものだ。放っておけば自然に治癒するのが明らかな、まめのようなものだ。ただすっきりしたい、それだけだ・・・
ところがクラブの扉を開けてみれば、真二の望みとは裏腹の光景を目にすることになった。そしてそれは予期していたことでもあった。カウンターの中には美里が入っていた。
「いらっしゃい」と美里が言った。
「そんなに驚いた顔をしないで」
真二はギターを抱えたまま立っていた。
「君のそのコスチュームを初めて見たから」美里はボーイッシュに髪を後ろで束ね、白いシャツに黒の蝶ネクタイをしていた。
「野島が辞めたから急遽手伝ってもらってるんだ」と奥からオーナーが出て来た。
「いつからですか?」と真二は言った。
「昨日だ。あいつ急に辞めるって言いやがって」
「お手伝いは今日だけですよ。私は接客業になど向いていませんから」と美里は言った。
「難しい仕事じゃないよ、そしてホステスをするわけじゃない。ウェイトレスだ」とオーナー。真二は美里がかつて企業の受付嬢をしていたことを思い出した。
否定も肯定もせずに美里は唇を緩めた。
真二はいつものようにステージにギターをセットし、カウンター席に戻って座った。
「ビール出してあげて」オーナーは美里に言った。美里はコースターを真二の前に滑らせ、その上にビールの入ったグラスを置いた。
真二は少し乱暴に一口飲んだ。美里がその様子をじっと見ているのが分かった。
「それで見つかったのか?」とグラスを置いて真二は聞いた。
「父を知る人は。ホテルでピアノを弾いていたことも。そして今はもう大阪にはいないだろうということも分かったけどね」美里はいくつかの耳慣れたホテルの名を口にした。
「そうなんだ。でもどこに行ったかは分からない?」
真二は自分の声に少し刺があるのに気付いた。
「多分九州、そして多分福岡」
「そこまで分かってるんだ。もう九州に行くのか?」
「さあ、まだ分からないわ」
「どうして?」
「過去に父にもう少し近づいておきたい」
「ホテル代もかかってしょうがないだろう」
「そのくらいの蓄えはあるの」
「いいじゃないか。ずっといてこの店を手伝ってくれてもいい」とグラスを拭きながらオーナーが言った。オーナーは真二の表情の変化を見て、どこか楽しんでいる風にも思えた。
真二は黙ってビールを飲んだ。そうこうするうちに加納が、続いて木島が現れた。カウンターを挟んで美里が居て、オーナーと仲間が美里を取り囲んでいた。美里が笑い、回りが笑う。真二は昔いつも目にしていた光景を思い出さずにはいられなかった。あの当時とは、一緒に演奏するメンバーも自分自身も年齢がまるで違っているにも関わらず・・・
色あせたはずの過去が、光を取り戻して現実にすり替わったような幻覚に襲われた。
演奏を始めれば、美里はカウンターを出て立って聴いていた。美里がかつて向けた視線を真二はやはり思い返さずにはいられなかった。
美里は客が手を上げればオーダーを聞きに行き、オーダーの品が用意できればステンレスの盆で客のテーブルまで運ぶ。新しい客が来ればステージ前の席に案内し、おしぼりを手渡し、オーダーを聞く。美里はミネラルとウィスキーボトルを盆に、もう片手にアイスを持って戻り、起用にテーブルに並べていた。
真二は演奏に集中しようとすればするほど、目の端に入る美里の動きが気になって仕方がなかった。
一回目の演奏が終了した。メンバーはオーナーを含めカウンター席に座った。カウンターの中に戻った美里が「お疲れさま」と言ってメンバーの前に順にビールを置いた。
「どうだった?」とオーナーが美里に聞いた。
美里は笑顔で、親指を上にした拳を強く突き出した。
皆が笑った。「うれしいな」とオーナーが言った。
この光景はいつまでも続くわけではない、今日だけだ、そう真二は思った。オーナーがどう茶化してみても、美里は大阪を離れるだろう。次にクラブに来た時には、もう美里の姿はないはずだ。今日だけ・・・美里の笑顔を見ることも、今日でなくなるはずだ。永遠になくなるのだ・・・
きまぐれのように突然自分の目の前に現れてみた美里は、幻だったようにまた自分の前からいなくなる。それでいい。そして自分はまたすぐに忘れて行くのだ。美里が現れたのは、最後に美里の記憶から決別するために必要なプロセスだったに違いない・・・
二回目の演奏が始まって、ステージ前の客が手を上げて美里を呼ぶのが見えた。美里は客からコースターを受け取っていた。美里はピアノを弾くオーナーに近づいてきて、コースターをピアノの上端に置いた。馴染みの客はリクエストする際、コースターの裏に書いて渡すのが習慣になっていた。
一曲目が終わり、オーナーはコースターを見た。リクエスト曲は何かとオーナーを向いた真二たちに、『ムーン・リバー』とオーナーは言った。
彩はシフトに入る前など暇を見つけては、『ランブル・ビート』のリハーサルに出掛けているようだった。
いつかばれるだろうから、と啓太が真二のところに来て打ち明けたのだ。
椅子に座っていた真二は啓太を見上げて聞いた。
「どうして彩にリハーサルのスケジュールが分かったんだ?」
「すみません。僕が渡してついて行きました」と啓太は予想通りの応えをした。
「オフサイトにはピアノがあるし、丁度ダンに教えてもらうことができますから」
「彼らはそんなに暇じゃない。自分たちのことで精一杯なんだ。彩のために時間を割かせるべきじゃないな」
啓太は真二の堅い言葉に少々驚いているようだった。
「すみません・・・」
「彼らは僕の娘だからと気を使っているかもしれないんだ」
「そんなことないでしょう」
「いや、そんなことがありえる」
啓太は黙り込んだ。真二は奥に置いてある空いた椅子を出し、啓太が座るのを待った。
「どうしてだと思う?」と真二は聞いた。
「・・・真二さんがミュージシャン仲間だから」
「そうだろうか」
「違いますか?」
「それだけなら、僕も嬉しい。けれど多分違う。僕は予算を担当している」
「そんなことが関係あるんですか」
啓太は非難するような声を出した。
「あるかもしれない。予算担当者が、予算の関係で彼らを切りましょう、そうマットに進言すればそうなる」
「真二さんは本当にそんなことをするんですか?」
「しないさ」
「じゃあ、どうして」
「少なくとも、彼らはそう思うんだ。僕はマット側の人間だと。そして僕がそう思っていないにしても」
「何だかいやですね」
「彼らが演奏に加えた『卒業写真』のアレンジが『ロンバーズ』に相応しいかマットに判断するよう言われた。そして僕は素人だとしても少しは音楽が分かることにもなってしまった」
「真二さんは本当に音楽が分かるじゃないですか」
「素人だ」
「真二さんがそんな人だとは思わなかったです」
「そうか・・・」
「そうです」
「僕もそんな人だとは思われたくなかった。君にもすぐに分かるときが来る、こんな物言いをしなくてはならなくなるのは避けたかった。本当に才能のあるミュージシャンなんて毎日違うミュージシャンに会っていてもそう遭遇するわけじゃない。大半の人間は凡人なんだ。けれど彼らはミュージシャンとして生活していかないといけない。僕が予算の担当でなかったり、マットの側でないとすれば、手の平を返したように彼らは僕に興味を失うだろう」
今度は啓太が呆れたように頭を振った。
「彼らはもっと単純なんじゃないですか」
「さあどうだろうな」
「三村さんのようなことを言いますね」
「彼はそういうことを言うのか?」
「そうです」
「彼は君のボスとして言うべきことを言ってるだけだろう。僕も君のボスならもっと早く言っていた」
「真二さんは真面目すぎるんじゃないですか」
「そうかな」
「仮に『ランブル・ビート』の連中がそう思ってるにしても、それはそれでいいじゃないかと思います。結局、真二さんは彼らを敬ってるんだと思います。敬い過ぎてるんだと思います」
「かもしれないな」
「それから、ファンに慕われるのは嬉しいはずですよ。特に彩さんのように可愛い娘ならなおさら」
「あの子はまだ子供だ。相手がどういう状況でもずっと居座ってしまって、彼らの邪魔になっているとしても気付かない。大人の、プロの、外国人たちの中にいる。背伸びして、背伸びして、まだまだ背伸びできると思う、そんな年頃なんだ」
「だとしたら、彼らのところに行く場合は必ず僕がついていますよ」
真二は啓太を見た。啓太はじっと真二を見返した。
「それに真二さんのギターは決して素人じゃないですよ。そしてその血を彩ちゃんは受け継いでいる」と啓太は言った。
午後の二時を回っていた。ステージが終わって『ロンバーズ』の二階でくつろぐ『ランブル・ビート』を真二は訪ねた。
部屋に入ると、椅子に腰掛けコーヒーを飲んでいた三人はハーイと手を上げた。
「久しぶり」と真二は言った。
「アヤがこの間リハルームに来たよ」とダンは言った。
「ああ、啓太から聞いた。皆に迷惑をかけてすまない」
「迷惑なんかじゃないさ。僕たちも勉強させてもらっている」とバーノン。
「勉強?」
「日本のポップスでジャズをやるには何がいいだろう、って彼女に相談してるんだ。『卒業写真』が思った以上に日本人のゲストには好評なんでね」とバーノン。
「そうか。確かに選曲は大切だな。日本の古くからの歌謡曲や民謡などジャズでやってもゲストはポカンだろうし。アメリカの場末のバーでやっているカントリーをラジオ・シティで歌うようなものだから。例えが相応しくないかもしれないが」
「だからアヤが原曲とジャズアレンジされた曲をCDにコピーしてくれることになっている。彼女から聞いてないか?」
聞いていないと真二は言った。
「良い曲があれば、また君にここ『ロンバーズ』で演奏するのに相応しいか判断してもらう。まあ君の娘さんの推薦曲だから、問題ないだろうが」
「おこがましい。僕や彩にそんな能力はない。けれど曲を決める前に教えておいてほしい。ライセンスの問題があるから」
「いつかその曲をアヤやシンジと一緒にやれればいいな」とダンが言った。
「彩がピアノを占領してしまえば君が弾けなくなる」
「連弾で弾くさ」
「楽しみだ。アヤのピアノは悪くないから」とスティーブは突然言った。
「そう思うか?」真二は聞いた。
「ああ」とダン。
「僕もそう思う」とバーノンも言った。
「プロでやれるくらいに?」
「やれるさ。やれるに違いない」とスティーブ。
「俺たちのような中途半端じゃない、本物になれるさ」とスティーブは付け加えた。
中途半端という言葉にダンとバーノンの身体がピクッと止まった。時折スティーブは若さゆえの思慮に欠けた言葉を使う。
バーノンが息をふっと吐いてから言った。
「シンジのステージを見たいってアヤが言っていた。一緒に行ってくれとも」
「僕も聞いた」と真二は応えた。美里のことが頭に浮かぶ。けれど彼女はもう現れることはないのだと思った。そして仮に姿を見せたところで、今の自分にはもう関係ないのだと。
「いつがいい?」
「君たちの都合のいい時でいい」
「来週はあいにく予定がある。再来週でどうだ」
「かまわない。僕が奢るよ」と真二は言った。
真二はクラブの入り口のドアを開け、足を踏み入れた。
カウンター席で背を向けている木島と加納を超えて、「似合うでしょ」と声がした。
クラブにまだ美里はいた。相変わらず黒の蝶ネクタイにシックな白のシャツ、黒のパンツでカウンターの中にいた。
「どうしたんだ?」と振り向いた木島たち越しに真二は言った。
「働いてるの」
「見れば分かる。どうして働いてる」険のある口調を隠すことよりも怒りが勝った。
キッチンからオーナーが出てきた。
「俺が頼んだんだ。次の人がまだ見つからないから」
真二の態度で木島と加納の横顔に怪訝の色が浮かんだ。
「まあギターを置いてこいよ」と加納が言った。
カウンターに戻って木島の横に腰掛けた真二に、美里はビールを置いた。髪を後ろで束ね、あらわになった美里の頬がほんのり火照って見えた。
「心配しなくても、私はあなたのストーカーじゃないわよ」
「そんなことは分かっている」真二の応えに、
「そりゃそうだ」と木島が言った。
君はどうして僕の前に居続けている。君はもう、ずっと前に僕の前から居なくなったはずだった。どうして君の気まぐれに僕が付き合わないといけないのだ・・・
「じゃあ問題ないわね」
「ああ、問題ないさ」とオーナーが言った。
「ありがとうございます」と美里はおどけて応え、真二を見た。真二は目を逸らしてビールを飲んだ。味がしなかった。オーナーはカウンターを出てステージに行った。
「おいしい?」と美里が聞いた。
「ああ。いつでもビールはおいしいさ」と真二は言った。
「演奏が終わった後だともっとおいしい?」
「ああ」
「私にも演奏ができたら・・・」
「やればいいのに」と加納が言った。
真二は急に彩のことを思い出す。美里の知らない、真二の世界の存在を思いだした。
「僕の娘もピアノをやっているんだ」
「そう・・・上手?」
「どうだろう」
「私にも娘がいたなら、ピアノをやらせていたわ」
「それは残念だ。いれば良かった」と真二は言った。
「私、流産したから」
皆が黙った。
「それは悪かった」と真二は言った。
「うそよ」
何だ、と皆が安堵のような溜め息をついた。
「よくない冗談だ」と真二。
「そうね、ごめんなさい・・・あなた幸せそうね」
「幸せなんだろうね」
「自分では分からない?」
「分かるさ」
「あなたたちも幸せそう」と美里は加納と木島に言った。
「分かる?」と木島。
「分かるわ」と美里が応えた。
オーナーが美里の横に戻って来た。
「真二の外国人仲間はあれ以来現れないな」とオーナーは言った。
「また来たいと言ってましたよ。オーナーのピアノが最高だと」
「そうか。ぜひまた来てもらってくれ。サービスするから」
「社交辞令ですよ。彼らは特に調子がいいから」
「何だ、そうか」オーナーは真に受けた。
「冗談です。本当にオーナーの演奏が気に入ってるようでした」
「一体どっちが本当なんだ」
ねえ、とオーナーは美里を向いて言った。美里は笑った。
働きたいのならば働けばいいのだ。何ならいつまでもこのクラブで。美里が何も気にならないように、僕は気にしない、きっと何も気にならないに違いない・・・
美里の笑顔を見ながら、彩をここに連れて来ようと心の内で真二は決めていた。
『ランブル・ビート』と一緒に連れて来るのだ。美里が何も気にならないように、僕も何も気にならない。君の気まぐれに付き合おう。君は僕の世界を見ればいい。僕の確たる、幸せな生活を見ればいい。美里の前で、美里の世界と現実とをきっちり差し替えてみせよう・・・禁じ得なかった憤りは雲が引くように薄らいでいく。
そのとき真二の脳裏を圭子の顔がよぎった。かつて圭子は新宿のクラブで、メンバーと一緒に写っている美里の写真を目にしている。もし圭子が今のこのクラブに来ることにでもなれば、圭子は気付くだろうか・・・あの小さな写真に写っていた女が、店のウェイトレスと同人物と気付くだろうか。
真二は軽く頭を振り、オーナーを向き、美里の顔を見ずに言った。
「今度『ランブル・ビート』を連れて来ます。娘も一緒に」
「ほう、娘さんも」
「『ランブル・ビート』のメンバーに仲良くしてもらってるらしいので。僕の奢りで」
「楽しみだ。娘さんの名前はなんだっけ」とオーナー。
「彩です。いろどりの彩」
「真二の彩りか。真二の夢を彩る彩ちゃんか」
オーナーは中空に視線を投げ、名前を何度か口に出して反芻した。皆がオーナーに倣って彩の名前を口にした。
「僕の娘だからといって甘やかさないでください。自分中心に世界が回っている年頃なんです」と真二は言った。
「自分中心に世界が回る時期は、回ればいいのよ」と美里が言った。真二の目に控え目な美里の笑顔が映った。
店がひけたあと、帰路を使って少し話したいと美里に言った。美里は不思議そうな笑みを浮かべて頷いた。美里が更衣室で着替えを終えるのをカウンターで待った。その間に木島と加納を見送った。美里が出てくるとオーナーに見送られてクラブを後にした。
道頓堀を御堂筋に向かって歩いた。美里と話をするのにこれから喫茶店やバーに入るのは気乗りがしなかった。
「何か話があるの?」と美里が聞いた。
「心斎橋まで歩いていいか?」と真二は聞いた。
美里は頷いた。
「ギター重くない?」
「重くないさ。どうして大阪にずっと残ってるんだ?」真二は前を向いたまま聞いた。
「言わなかったかしら?」
「本当のところを知りたいんだ」
「父親の足跡を時間をかけて見たかった、それは本当よ。でもそんなに長い時間が必要なかったのも本当・・・あなたに偶然出会うまでは」
「・・・今更それを言うのか」
「母が亡くなったとき、実の父に会いたいと思った。やり残していたことをやりたい、やらなければと思った。でも大阪に来て、あなたをパークで偶然見掛けるとは思わなかったわ・・・」
真二は何も言わなかった。美里が言葉を紡ぐことが分かっていたからだった。
「あれから私は何度かパークに入って歩いた。あなたを探して。当然だけど今度は会えなかった。でもあなたがどんなところで働いているのかは歩きながら、ショーを見ながら少しでも分かるような気がした・・・」
「どうしてあのとき、君は離れていったんだ」これまで決して口に出たことの無い言葉に、真二は自分で少なからず驚いていた。
「離れていった・・・」美里はつぶやいた。
「昔言ったわよね、好きな人が出来たと」と美里は言った。
「ああ、でもそれは、そうなる理由がその前にあったからそうなった、つまりそういうことだろう」
美里は肘を持ち上げるように腕を組んで歩いていた。御堂筋に突き当たり、右に折れた。
「母は父に捨てられた。それから母は音楽そのものを憎み、音楽をやる人を憎んだ・・・だけど私は音楽がしたかった。そう言ったし、そうしようともした。すると母は言ったわ。自分にはその才能はないのと。そしてその才能を理解する能力もないのと。私が音楽に引かれれば引かれるほど、自分から離れていってしまう気がするの、母はいつか泣いてそう言った」
「だから・・・だから音楽をやっている僕を離れていった」
「自分の血が入ったはずの娘なのに、父親にばかり似る。自分がどれだけ愛しても、娘は父親についていく。離れていってしまう。自分は一体何なの。私の血を拒否するみたいに」
「だから・・・」
「私のため・・・そういうこと。私は自分のためにあなたを離れた・・・そういうこと」と美里は言った。
「最初は君の言葉どおりに、君に好きな人ができた。僕は単純にそう思い込んだ。そして、僕自身がそう思いたいんだということに行き着いた」
「じゃあ私が本当はどうだと思ったの?」
「見限った・・・僕の才能を。心の底ではそう思っていた」
「違うわ」と美里は口調を強くした。
「何が違う」
「私はそうは思っていなかった。私はあなたが才能あると信じていた。私はあなたのギターを愛していた。あなたに人生をそつなくこなすだけの商才があるかは分からなかったにしても。どれだけ音楽の才能があっても、この世界でやっていくにはもしかすると商才の方が大切なのかもしれないとは思っていたにしても・・・結局、私は自分が可愛かっただけ。あなたとの生活が苦痛になる、自分がそう思う、そんな日が来るのが怖かった。それだけ・・・」
しばらく二人で黙って夜の並木の下を歩いた。
「私は静かな生活を望んでいた。だからあなたとなら得られないはずの生活を選んだはずだった。だけど・・・結果を見れば、今の私とあなたを見れば、私が望んだ生活を私は何一つ手に入れてはいない。そしてあなたの今の生活は、私が望んでいた生活そのものだった・・・」
「人が羨むほどの価値のある生活とは思えないが」
「羨んではいないわ。私は私自身の思慮のない判断を憎むの・・・私ストーカーのようでしょ。ホラー映画のように、あなたの周りをうろついて、あなたの家族を壊していく怖い女に見えるでしょう」
しばらく間を置いて真二は応えた。
「不思議なんだ。君が何をしたいのか分からない。僕は記憶を過度に美化してはいないが、君がそんなことをするとは思えない」
「あなたにとって、私はもう過去の人間だということはもちろん知っているわ。あなたがおそらく信じてくれているように、私は何をするわけでもないわ。だったら・・・あなたは何も気にせず、普段通り水曜日になったらギターを弾きにきてくれない?私がいようといまいと、そして私がいついなくなろうと、気にせずにいてくれない?」夜空の下で、美里は真二を覗き込むように言った。
「好きにすればいい、僕に何が言えるわけでもない」
「ありがとう」と美里は言った。
ソファから滑り降りて座った圭子は、紅茶カップを横に置き、パソコンで翻訳作業をしていた。真二と彩は二人ともヘッドフォンをつけ、彩はピアノに、真二はギターに指を走らせていた。
彩が鍵盤から手を離し、ヘッドフォンを首に降ろした。真二もヘッドフォンを外して首に掛け、スコッチの水割りに手を伸ばした。
「『ランブル・ビート』に曲を探してるそうだな」
「何だ、知ってたの。啓太さんから聞いたの?ダディを驚かそうと思ってたのに」
「ライセンスのことがあるから僕は知ってないといけないんだ」水割りを飲んだ。
「そうなんだ」
「僕たちは何をするにしても、その新しいことを始める前に不都合がないかすべて洗って潰す。キャスティングはもちろん、そのためのお金はあるのか、設備に許認可が必要なものではないのか、さっきのライセンスの問題はないか、いつから始めるのか、どうやって告知するのか、あらゆることを。それが僕たちの仕事なんだ。だから彩も彼らの邪魔にならないようにしないといけないな」
「分かってるわ」
「どうかな。『ランブル・ビート』だけでなく啓太にしても忙しいんだから」
「そんなに自分の娘が信じられない?」
「信じたい」
「じゃあ信じるのよ。ねえ、マミー」彩は首を回して圭子に言った。
「どうでしょうね」圭子はパソコン画面に視線を向けたまま応えた。
「私もイベント会社で働いてたから。仕事というものがよく分かるの」
「マミーはどうして翻訳会社の仕事に変えたの?イベント会社とかじゃなく」
圭子は紅茶を飲んで顔を上げた。
「そうね・・・大阪には製薬会社が多いの。備後町のあたりに特に。だから製薬関係の翻訳のオーダーがいくらもあるの。それだけ」
「楽しい?」
「さあ、どうかしら」
真二が口を挟んだ。
「新薬の開発状況がよく分かるだろ。だからその情報でその開発している会社の株を買えば大もうけできる。だからやってるんだ」
「本当なの?」と彩。
「うそよ。そんなことすればインサイダーで逮捕されるわ」と圭子が言った。
「なーんだ。ダディはうそばっかり」
「そんなうまい話は世の中にないということだ。で、どんな曲にするんだ?」と真二は聞いた。
「内緒よ」
「ヒントくらいはくれないか?」
「サザン、山下達郎、竹内まりや、そしてユーミン。やっぱりこの中かな。私の年代には合わないけど」
「名曲が多いということだ。いいんじゃないか。『愛しのエリー』なんか若い子でも知ってるだろう。レイ・チャールズだって歌ってる」
「候補に入れておくわ。ダディも一緒にやる?」
「考えておくよ」
「相変わらず気のない返事」
彩はぷいと立ち上がり、リビングを出て行った。真二はギターを抱えたままでいた。
「『ランブル・ビート』もそうだけど、ケイタさんって最近よく話に出て来るわね」
「ラインは違うけど、よく慕ってくる。慕ってくるというより、気安いんだろうな。威厳が僕には全くないから」
「幾つくらい?」
「三〇の手前かな」
「大丈夫?」
「何がだ」
「いろいろ」
「いろいろ大丈夫だ」
「でもいろいろと気遣って」
二人で吹き出した。
「今度クラブに彩が来たいと言ってる」と真二は切り出した。
一呼吸置いて、「大丈夫なの?」と圭子が言った。
「『ランブル・ビート』のメンバーも、啓太も一緒に来たいと言ってる」
「そう」
「君も一緒に来ないか?」
「メンバーが多いみたいだから。今度にするわ」
「そうか」
「あなたのライブに誘ってくれたのは久し振りね」
「君は誘っても来なかった」
「誘わなかったんじゃない?」
「いや、誘っても来なかったから誘わなくなった」
「彩が演奏することにでもなれば行くわ」と圭子は言った。
真二はギターを置いた。
美里はまだクラブで働いていた。啓太は来られないと聞いていた。彩は『メルズ』のシフトが入っていたので、『ランブル・ビート』のメンバーと待ち合わせて来ることになっていた。
木島は既に来ていた。真二はいつものようにギターをステージにセットしてカウンター席に戻り、木島の隣に座った。
「パークのお仲間は一緒じゃないの?」美里は真二の前にビールを置きながら言った。
「直接パークから来ることになっている」
「オーナーが彩ちゃんが来るって何度も言うの。プレッシャー、プレッシャー、って何かモンスターが現れるみたいに。木島さんだってね」美里は木島に目配せした。木島ははにかむように笑った。
「オーナーは?」
「ちょっと出てる。すぐ戻ってくるわ」
やがて加納がドアを開ける音、しばらくして今度はオーナーと分かる音がした。
「仲間はまだか?」とオーナーは美里と同じ質問をした。真二は美里にしたのと同じ応えをした。
演奏の始まる少し前に彩たちはやってきた。真二は立ち上がって出迎えた。
「良かった。一回目のステージに間に合ったわ。スティーブが待ち合わせに遅れて」と彩が言った。
カウンター椅子から立ち上がった木島と加納の後ろから、「ウェルカム」とオーナーが言った。『ランブル・ビート』のメンバーはハーイと皆に手を上げて応えた。
彩はピョコンと頭を下げ、「父がいつもお世話になってます」と皆に言った。
真二はカウンターの前のボックス席に促した。ステージから一番遠い席で、客が身内の場合に気兼ねなく喋るには最適なのだった。ステージに向かって彩はダンと並んで、その前にスティーブとバーノンが座った。
カウンターから出て来た美里がメニューを二つ差し出した。
「僕の奢りだから何でも頼んでくれ」と横に立っていた真二は言った。
「じゃあ、私はビール」と彩が日本語で言った。
美里が驚いた顔で真二を見た。ダンたちも彩が何をオーダーしたか察した。
「冗談だ。少なくとも僕の前でアルコールは飲まない約束をしてある」と英語で真二は言った。
皆が笑った。ダンたちもつられて笑った。クラブは急に賑やかになった。
彩は「ダイエットコーク」、バーノンは日本語で「とりあえずビール」と言って、ダンとスティーブも同調した。
つまみは適当に頼んでと彩に言われた真二は、サンドイッチやピザ、ソーセージの盛り合わせ、オイルサーディンなどを美里に通した。
「つまみがなくなったら何でも追加してくれ。メニューは彩が翻訳するから」
「さあ行こうか」オーナーの声で木島と加納が立ち上がった。
「エンジョイ」真二はそう言い残してステージに向かった。
「ダディもね」と彩が見送った。
その彩を眩しそうに見る美里の横顔が真二の目に入った。
「彼らの飲み物がなくなったら何がいいか聞いてやってくれ」真二は美里に言った。
「了解」と美里は応えた。
スティーブはステージ正面を向くために手前の空いているボックス席に移った。バーノンは身体を回し、背もたれに片腕を掛けてステージを見ていた。その奥から、ダンと彩が並んで見ていた。
演奏が始まった。ステージの真二は彼らの視線を感じていた。ずっと以前にも、このように視線を浴びたことがあった。その中に、一つの視線、美里の視線があったことを思い出す。
今も、このクラブのフロアーに美里はいた。しかし、かつてのその視線のそばに、今は彩のものがあった。
ようやくこれで、現実に入れ替わったのだ・・・
自分の指先で紡ぐ音色は、淡い安心感になって真二の身体を包み込むようだった。
翌週の水曜日にも、美里はまだクラブで働いていた。木島と加納はまだ来ていなかった。
「福岡には行かないでいいのか」とカウンター席に座った真二は挨拶のように聞いた。
「そろそろ考えているわ」ビールをいつものように真二の前に置いたあと、美里はカウンターの中でグラスを拭いていた。オーナーはいなかった。
「彩ちゃん、可愛いわね。どうしてあの外国人メンバーとも親しいの?」
「この夏休みの期間、娘はパークで働いているんだが、『ランブル・ビート』が演奏する『ロンバーズ』レストランに二人で食事に行った。その後ちょくちょく彼らを訪ねているらしい」
「そうなんだ。パークで働いてるんだ。あの場所で。あなたの職場を見たかったのかもね」
「どうかな」
「働いていたはずの場所を見る。それだけでいい。それまで空気のようにあやふやだったものが陽炎のように揺らめき始め、やがて形を帯びてくる。そして安心できる・・・」
「君の親父さんと僕は違うだろう」
「彩ちゃんは今度いつ来るの?」
「さあ、どうだろう」
「また会えるかしら」
「さあ、どうかな」
演奏中、美里はいつものようにカウンターを出て、じっと立ってステージを見ていた。いつになく客の姿はまばらで、美里に飲み物をオーダーしたりリクエスト曲を託すためテーブルに呼ぶ客もいなかった。いつもなら室内の紫煙で霞んで見えるはずの美里の姿は、今はくっきりと夜の中に佇んでいた。
三回のステージを終え、ギターをケースに収めて帰り支度を始めた真二に、
「途中まで一緒に帰らせて」と美里が近付いてきて言った。
「私の住まいは今、新大阪なの。だから一緒の電車でしょ」
「何の話だ?」
「この間はあなたが話があると言った。今度は私」
美里は新大阪駅近くのウィークリーマンションを借りたらしかった。
「まだホテル暮らしかと思っていた」と真二は言った。
「自分でも本当にウィークリーマンションに移ることになるとは思わなかったわ。不思議ね」
ウィークリーマンションに移るということは、美里がまだしばらく大阪に残ることを意味していた。
「どうして新大阪なんだ?」
「新大阪だったら、いつでも思い立ったときに新幹線に飛び乗ることができるでしょ」と美里が言った。
木島たちは、聞こえていないか聞こえていても興味のない様子で片づけを続けていた。
真二はカウンターで美里が着替え終わるのを待った。木島と加納は既にクラブを後にしていた。客も一組を残して帰っていた。
美里が更衣室から出てきた。勘定を済ませた最後の客たちを見送ってから、真二はギターを肩に掛けた。オーナーに挨拶をして美里と一緒にクラブを出た。
ネオンの道頓堀を歩いた。人込みは随分と落ち着いて見えた。ずっと昔、こうして美里とクラブが引けてから新宿を歩いたのを真二は思い返しつつ、こうしてかつてを思い出すような夜を、今後迎えるつもりもなかった。
「実を言うと父親が大阪にいないことはずっと前から分かってた」と美里は言った。真二は歩調を変えなかった。
「そんな気はしてたよ」
「福岡にいることも分かってたの」
美里は下を見ながら黙って歩いていた。
「出戻りだと言ってたけど、どうして別れたんだ?」と真二は聞いた。
「喋りたくないわ」
「そうか。なら聞かない」
「流産したの」美里は静かに言った。
「前にも君はそんなことを言った。そしてウソだと言った」
「そうだったわね」
「・・・本当なのか?」
「本当よ」
御堂筋に突き当たり、左に折れた。道幅が狭くなった。ラーメン屋の前に差しかかった。酔った様子のスーツの男たちが立ち食いしていた。
「新宿で昔よくラーメン食べたわね」
「食べるか?」
「食べない。太るから」
「僕も同じだ」
狭い階段で地下に降りた。美里が前を歩いていた。
「流産したから別れたのか?」と真二はその頭に向かって言った。
「違うわ」とその頭が応えた。
階段を降りきり、並んで歩き始めると美里が口を開いた。
「流産したとき、以前にも流産したことがあることがバレて、それから夫との関係がおかしくなったの」
「以前にもあった?」
「そう・・・」
「その以前にもそういう相手がいたんだな」
「いたわ」
黙って歩いた。好きな人ができた、かつて美里は自分にそう言った。その相手に違いなかった。
地下鉄の切符を買って、改札を通った。並んで階段を降りた。ホームについて、電車の止まる表示のところで待った。後ろに酔った何人かの男女が立ち、大声で喋っていた。
電車が滑り込んで来た。
「母のためだけになら、ああはしなかった・・・」美里が独白のように言った。
美里が続けて何かを言った。けれど美里の声は電車の音で聞こえなかった。
電車が停車するのを待って聞き直した。
「何でもないわ」
「さっき母親のためだけにならああはしないと言った」
「そんなこと言ったかしら」
電車に乗り込んでドアのそばに並んで座った。真二はギターを股の間に挟むようにして置いて立てた。二人の前に人は立っていなかった。向かいの席では女性を中心に三人組みの男女が話に夢中だった。その隣りには酩酊した背広姿の男二人が、互いに耳の遠い者に喋り掛けるように大声で喋っていた。
電車は地下から地上に出た。突然広がった窓外の闇は、重いヘドロのようだった。
「こうして車両が地中から地表へ出る、この瞬間が私は好き」美里は人越しに見える暗いドアの外に目をやっていた。
「その男はどんな人だったんだ?」
「どの人?」
「どの人?僕から乗り換えた相手だ」
「そんな言い方はやめて・・・普通の人。普通のサラリーマン」
「そうか」美里の応えで人物の輪郭は浮かんで来なかった。
「本当にそんな人はいたのか?」
「いたわ」
美里は強い声で言った。
もしいなかったとすれば、ふとそう考えた。
流産を二度したと美里は言った。だとすれば最初の流産は誰との子供だったのだ、続けてそう考えた。
新大阪駅が近付いてきた。
「流産をしたというのは本当なのか?」
「本当よ。ウソじゃないわ。もうすぐ私の降りる駅。お別れね。私はあなたのギターが好きだった。本当に」
電車は新大阪駅に到着した。じゃあ、と口元を無理に緩ませて美里は真二を見た。真二も頷き、じゃあ、と返した。
美里は立ち上がった。真二の横のドアが開いた。ホームに降りる美里の背中を目の端に捉えたが、真二は振り返らなかった。じゃあ、と言ったときの美里の顔が脳裏から離れなかった。お別れね・・・美里はもうクラブに現れないかもしれない気がした。ウィークリーマンションというのもウソに思えた。ようやくこれで自分の望んだ通りの結果になる。望んだ通りの・・・
ギターを握って真二は突然立ち上がっていた。閉まるドアを擦り抜けるようにして真二はホームに立っていた。
驚いて目を大きくした美里が立っていた。
「どうしたの?」と美里は言った。
「君こそどうしてここに残っているんだ」
「あなたの背中を見送ろうと思って。あなたはどうして」
「確かめたいことがあった」
「私のようなストーカーに何を聞くの」
「歩こう。とにかく」
真二が促すのに美里が従った。
「終電がなくなるわ」
「タクシーに乗ったらいい」
「悪いわ」
階段を降りながら強く真二は言った。
「そんなことはどうでもいい」
美里は黙って立ち止まった。真二も足を止めた。後ろから来た人が二人を避けて降りていった。
「どうでもよくないわ。一体どこまで来るの?」と美里が言った。
「流産をしたと君は言った」
「ええ」
「誰の子だ」
「さっきも言ったわ」
「ウソだ」
美里は黙って歩きだした。真二も後を追った。美里は改札を出た。真二も改札を出て美里に並んだ。
「僕のか」
「何が」美里は前を向いたまま言った。
自分は何を言おうとしているのだ・・・
「僕の子供だったのか」
立ち止まって一瞬の沈黙した後、美里は言った。
「そうよ、あなたの子供よ。でも安心して。この世に誕生することはなかったわ」
「どうして流産したんだ」
「その日の朝は特に寒い日だった。会社に向かう途中、凍った道路に足を滑らせて、私は転倒したの。あのときのことは今でも夢に出てくるわ。地面が目の前に迫った瞬間、私は本能的にお腹を庇っていた。でも、私は自分がどうなるのか同時に悟っていた。そして私は流産した。それであなたとのことを終わりにする決心をした。けれど私は元々が気をつけないと流産しやすい身体だったのね。それを証明するように、あなたと別れた後の二度目も流産をした」
「どうして僕に言わなかった。僕はなにも知らなかった」
二人の横をまた人々が不思議そうに見つめながら行き過ぎていった。
「僕は器用な人間だった。君が思っている以上に」
「そうね、今のあなたを見れば分かる。当時の私にはそれが分からなかった・・・」
「いや本当は、僕は昔から器用だったかどうか自分にも分からない。あのとき僕は何といっても若かったのだから・・・」
「寒い日が続く二月だったわ、こんなに暑い日じゃ思い出せないくらいに」
美里の言葉で、美里と連絡が取れなくなった時節が蘇った。美里が歩き始めるのを追った。
「子供が出来たと分かったとき、あなたに言えなかった。どうしていいか分からないまま、時間だけが過ぎていった」
階段を上って地上に出た。
「私は結局、望んだものを何一つ手にすることはできなかった・・・でもそれは仕方がない。私はあなたを、あなたの取り巻く人生を信じることができなかった。それだけだった」
「その通りだ。今更どうしようもない。君は僕を、僕の人生から、自ら去っていった」
「あなたの質問に応えたわ。どこまでついて来るの?」と美里は言った。
「分からない。だがついて行っているわけではない」
「あなたが分からなくても、私は自分のウィークリーマンションに戻って眠るだけよ」
「ああ、分かってる。君の部屋の前まで行く。そして帰る」
「そう、面倒なことをするのね」
来るなとは美里は言わない。
二人で夜空の下を歩いた。かつてこうして真二のアパートに帰ったものだった。激しく吹き上がってきた過去の記憶は、現実を侵食し、瞬く間に覆い尽くしてしまうようだった。
マンションの下につき、自動ドアをくぐった。マンション内側のドアを開けるために、美里がバックから鍵を出した。
「寄っていくの?」美里が聞いた。
「そうはしない」
「そうね。冗談よ」
じゃあ、きびすを返した真二は強く腕を掴まれていた。引きずられるようにして、開いたドアの奥に入っていた。
美里はそのまま真二の手首を引き、一階つきあたりの部屋の前まで導いた。部屋のドアを開けて明かりを点けた。真二の後ろでドアは閉まった。美里に続いて部屋に上がった。
美里はクーラーのスイッチを入れ、「お茶を入れるわね」と抑揚なく言って、玄関横のキッチンに立った。
細長くて狭い部屋だった。正面奥にはクリーム色のカーテンが引かれ、その左に小さな白いベッド、左に小さなテレビ、濃いアイボリーのワークデスクが壁に添って置かれていた。
ベッドの手前の一つのボストンバックが目に留まった。能面のように冷たく、寂しい部屋に見えた。
真二はかつての安アパートの部屋を想っていた。真二はギターを爪弾き、美里が両膝を抱えて畳に座り、窓を開ければブロック塀がすぐに迫っていた。美里が居て、ギターがあった。貧しくて、夢だけがあった。けれど、今のこの部屋には夢がなかった。一つもなかった。
どうしてこんなところに・・・真二は振り返った。
「座っていて」ミサとは背を向けたまま言った。
美里の小さな肩がより小さく見える。
美里・・・一体今まで何をしていたんだ・・・一人で・・・たった一人で・・・
美里の肩がすぐ目の前にあった。その首元がとても細かった。部屋の明かりが美里の黒い髪に光の輪となって降りていた。
真二は美里に近づいた。美里の首に両腕を回した。美里の髪の匂いが鼻の奥をくすぐった。
「何をしているの」美里が身体を硬くするのが分かった。美里のむき出しの腕を感じる。
自分は何もしようとしていない・・・
そして急に、崩れるように美里の身体は柔らかくなった。
美里はくるりと身体を回転させ、顔を上げていた。そして唇を押し付けてきた。美里の腕がギターと真二の身体の間に滑り込んできた。真二は崩れないように抱き止めた。
唇が僅かに離れ、美里はささやくように言った。
「私のあなた・・・」美里は真二を見ていた。懐かしい、そして本当は片時も忘れたことのない美里の香りが真二を包んでいた。
自分は何もしていない・・・
美里が真二の片目の端を指で拭った。
「どうして泣いているの?」
「泣いてなどいないさ」
真二は美里を抱いたまま、そして「すまない」と言った。
「何が」
「帰る」
「・・・分かっているわ・・・私はどうしたらいい」美里の吐息が首にかかる。
「分からない」
「しばらく大阪にいてもいい?」
「分からない。多分、いない方がいい」
やかんが音を鳴らして沸騰したことを告げていた。
真二は美里から静かに身体を離した。美里が身体に回していた腕を降ろした。
美里はキッチンに向いて火を消した。
「お茶飲んでいく?」と背中を向けたまま美里が聞いた。
「やめておく」と真二は応えた。
「じゃあね」と美里は背中で言う。
「ああ」と真二は言った。真二は美里の傍らを通り、ドアを開けて外に出た。美里は見送りに来なかった。
真二はマンションの二つのドアを通り抜けて夜空の下を歩いた。ギターがひどく重かった。何度もギターを抱え直して真二は歩いた。
そのときリビングにはいつものように三人でいた。
彩の選んで録音してくる日本のポピュラー曲は『ランブル・ビート』に好評のようだった。けれど彩によれば、もっぱら彼らの興味を引くのは圭子の推薦したサザンではなく、竹内まりやだった。
その理由を聞いた真二に、ピアノトリオに馴染みやすい曲が多いのだろうと彩はCDを持って来た。圭子はいつものようにパソコンに向かったままだった。彩は特に『ランブル・ビート』のお気に入りだという、ジャズにアレンジされた曲をかけた。
これが『恋の嵐』よ、と彩は言った。続けて『けんかをやめて』『家に帰ろう(マイ・スウィート・ホーム)』と、彩は曲がスタートするたびに真二と圭子に教えた。
どれも原曲よりテンポが速く、ピアノは言うに及ばずドラムとベースの歯切れの良さに、奏者の演奏の様子が目に浮かぶようだった。
「どう?」と彩は曲が終わるごとに聞いた。
「悪くないわね」と圭子は顔を上げずに言った。
「ベースもドラムも悪くない。楽器全ての音がいい。当たり前のようでいて、そんな曲は多くないし、そんな演奏はそうないんだ」と真二。
「私にも弾ける?」と彩。
「弾けないものなどはないさ。きっと僕でさえ弾ける」
「そうよね。ダディだったら何でも弾ける」
何でも弾ける・・・その響きには聞き覚えがある。かつて美里が何度も口にした言葉だった。
美里が言えば真二は不思議に何でも弾けたものだった。美里の言葉は真二の前に線路を敷いて、真二の背中を前に押し出すようだった。線路が見えなくなると、目をつぶる。するとどこからかまた線路と枕木が現れる。そのマジックを実現するのは美里の言葉だった。
美里とはあれ以来連絡を取っていない。連絡を取ろうにも美里の携帯の番号を聞いていなかった。そして番号を知らないことで、胸を締め付けられるような、安堵のような、奇妙な思いに真二は捉われた。
今度クラブに行ったときには美里はもう大阪を離れているだろう、そのはずだと願い、果たしてその願いが本心なのか自分でも判然としなかった。
ヘッドフォンをした彩は再びピアノに向かい、懸命に竹内まりやの曲を練習していた。夏休みが終わる前にマスターしたいと言う。『ランブル・ビート』と一緒に演奏したいのだ。
その後ろで圭子はパソコンに翻訳した文章を打ち込んでいる。真二は椅子に座ってギターを抱えたままスコッチを口に運び、彩と圭子と自分が三角形になっていることを何だか不思議に思う。今の生活は幸せなのに違いない。
美里は・・・どうしてあんなに空々しく白い部屋に、たった一人でいるのだ・・・
君は勝手に、自ら離れて行って、一人になったのだ。
美里・・・例え隣りでピアノを弾いている彩が君の娘になっていても、何もおかしくはなかったのだ。
真二は時折スコッチを口に運び、ギターの弦をつま弾いてはいるが全く集中できなかった。
彩がヘッドフォンを外した。
「ヘッドフォンなしで弾いてみたいわ」
「弾けばいい」と真二。
「だめよ。もう遅いもの」と圭子が後ろから言った。
「冗談さ」と真二。
「ダディのクラブで弾いてみたいわ。この間あそこで自分も弾いてみたいと強く思った」
「お金を取るところだからな」
「『ランブル・ビート』のメンバーと一緒ならいいでしょ」と彩。
「どうかな」と真二。
「彼らでもお金取れないの?」と彩。
「取れるだろうな」
「じゃあ私はダンと連弾するわ」
「前にも言ったな。あまり彼らの邪魔をしてはいけない」
「分かってるわ」
「私も行くわ」突然圭子が口を挟んだ。
真二と彩は振り向いた。圭子はパソコンの画面から目を離していなかった。
「これまでどれだけ誘っても来なかったのに」
彩は真二を向く。
「ダディ、良かったわね。マミーも来るって」
「彩が弾くならよ」と圭子。
「そう・・・オーナーは弾かせてくれるかしら」
「どうだろうな」と真二。
「どうしてなの?」と圭子が今度は怒ったように言う。
「クオリティの問題なんだ。店のクオリティを下げてしまうようなことがあると客は目に見えて訪れることはなくなる」
「シビアなのね」軽蔑したように圭子は言った。
「そうだ」
「『ランブル・ビート』と一緒でも駄目なのかしら」
「オーナーに聞いて見るさ」
今度は彩が口を開いた。
「ダディの口利きなら何とかなるわよね。バーノンが言ってたわ。『卒業写真』はダディのクオリティチェックでゴーが貰えたって」
「僕はそんなに偉くない。クラブでもただで弾かせてもらっているんだ」
「なーんだ」つまらなそうに彩は言った。
「どうしても自分の娘には甘くなる。だから僕がいくら客観的なつもりでも、身びいきになる。オーナーには彩の演奏を聴いてもらう機会を作ってもらうよ」
「分かった。じゃあ練習しとくわ」
彩がリビングを出て行ったあとで、パソコンを打っている圭子に真二は言った。
「彩には才能があると『ランブル・ビート』のメンバーが言っていた」
「本当にそうなの?」圭子が手を休めた。
「多分。でも自分が客観的に見れているという自信がない。自分の娘だからそう思いたいのかもしれない、その不安が拭えないんだ」
「だからオーナーに託すの?」
「そうだ」
一呼吸置いて、「いいんじゃない。でもどうしてそんなに全部をオーナーに頼るの?」と圭子は言った。
「オーナーに頼ってるんじゃない。オーナーを借りて運命を託しているんだ」
「何だか一緒に聞こえるわ」
「そして彩にはきちんと音楽を勉強させてその道に進ませてやるのがいいのかもしれない。ジャンルは何にしてもいい。音大に行ってもいい。ジャズを本当にやりたいのならバークレーに行ってもいい」
また一呼吸して、「それでいいんじゃない」と圭子が言った。
「本当にいいと思うのか?」
「娘が最も幸せであろう道に進むのを歪める権利は私にはないわ」
「何だか君は変わった」
「そうかしら。私は娘に恵まれたの。あれだけ優しい娘はいない。私にはもったいないくらい。あのくらいの年齢だともっと自分中心で、親に逆らって、非行に走ってもおかしくないわ。自分の回りのもの全てに腹が立ってね」
「これからそうなるのかもしれないさ」
圭子は真二の言葉を受け流した。
「あなたが以前言ったように、彩がその世界の天才になる必要はないんだと思う。どの世界に生きる人も大半は凡人だものね」
「それでいいのか」
「いいのよ」
「僕が自分の夢を彩に託そうとしていると思うか?」
「夢のない人などいないわ」と圭子が言った。
けれど実は自分が夢というものを思わなくなって久しいことに、真二は気が付いていた。
「彩を通じて、あなたは二度目の人生を歩めばいい。あなたが彩に期待する限り、あなたがどこかに行ってしまうことはない、彩は繊細にそう感じ取っているんじゃないかしら」
「僕が一体どこへ行くというんだ」
「だから私も彩のやろうとすることは助けるわ」と圭子は言う。
通勤帰りの電車の車窓から闇に包まれた外を眺めながら、真二は新大阪駅が近付くと美里のマンションの方角を窺っていた。もう九時を過ぎていた。
その日、朝の電車の中でも美里のマンションの方角を向いていたのは、列車に乗り込んだ際に偶然そちらの吊り革の前が空いていたからだった。
美里のマンションの部屋を思い出した。けれどその真二のイメージの中に、美里の姿はもう存在していなかった。
美里はすでにマンションを引き払い、大阪を離れているに違いなかった。美里はあれほど白い空間に一人で居てはいけなかった。
新大阪駅が近付いてきた。
あのときは急に胸が苦しくなり、思わずギターを抱えて電車を降りていた。同じように胸が締め付けられるようには、今回はならなかった。
電車のドアが開き、乗客がばらばらと降りていく。気が付くとその流れに押されるようにして、真二はまたホームに立っている。あのときと同じなのは、ただの偶然だった。少し胸が楽になっているような気がするのも、偶然だった。回りの人々と同じように階段を降り、改札を通る。以前美里と歩いた同じ道を歩き始める。
マンションの下についている。一つ目のドアをくぐり、部屋番号を押して、ベルを鳴らすつもりはなかった。マンションの前に着いたからといって、何をするつもりでもなかった。空っぽになったはずの美里の部屋を思い浮かべてから、きびすを返した。
すると、美里が目の前に立っていた。
「驚いた」ようやく真二は言った。
美里はマンションのドア奥から漏れ出る明かりを受けている。
「こっちのセリフよ。どうしたの?」
「君こそいつまでここにいるんだ」
「悪い?」
「君の勝手だ」
「そう。私の勝手・・・クラブのオーナーがまだ週に何度か手伝ってくれって言うの」
「じゃあ今日はクラブだったのか?それにしては早いな」
「パークに行ったの。あなたも以前会ったでしょ、友達とその娘に。今日はその友達と二人で行ったの。偶然あなたに出会うことはなかったわ。残念なことに」
買い物袋を提げたサラリーマン風の男が現れた。男は真二と美里のどちらがマンションの住人か決めあぐねるように、曖昧に会釈をした。男は鍵を出してドアの奥に入っていった。
「暑かっただろう」と真二は言った。
「暑かった。汗をかいた。だからシャワーを浴びたい」
「そうか。じゃあ僕は帰る」
「来てくれて嬉しいわ」
「君に会いに来たわけじゃないんだ」
「そう。とにかくあなたは来てくれた」
「僕はストーカーじゃないんだ」
「寄っていけば?」
「やめておく」
「そうね。でもお茶だけでも飲んでいったら」
「やっぱりやめておこう」
急に美里は抱き着いてきた。美里の匂いがした。
「ずっとこうしてるわよ。また誰かが通るかもしれないわよ。見られたくないでしょ」
美里は身体を離し、真二の腕を取ってマンションの一つ目のドアを開けて引き入れた。二つ目のマンションのドアを抜けて、三つ目の部屋のドアを過ぎた。
二人の前にあった全てのドアを抜け、玄関のところで美里がまた抱き着いてきた。美里は電気を点けなかった。ずっとそうしていた。美里は身体を離した。美里は靴を脱いで上がった。美里はカーテン越しの薄い月明かりに背を向けて立っていた。
「今度も帰るの?」と美里の影は言った。真二は靴を脱いでいなかった。
「ずっとそうしているの?」と再び影が聞いた。
真二は壁に手を伸ばして部屋の電気を点けた。部屋の白さは何も変わっていなかった。
「お茶を入れてくれ」と真二は部屋に上がった。
美里がキッチンに立った。真二は一脚しかない椅子に腰掛けて待った。
マグカップのコーヒーを両手に持った美里は、一つを真二に手渡し、自分はベッドの端に腰をおろした。
「テレビ観る?」美里が聞いた。
真二は首を横に振った。そして二人で黙ってコーヒーを飲んだ。
コーヒーを飲み終わり、時間が過ぎた。
「もう一杯飲む?」と美里が聞き、真二は頷いた。
キッチンに立つ美里の後姿を見た。
二杯目のコーヒーを飲んだ。マグカップを持つ美里の手を見た。美里も真二の手を見ていた。真二は美里との距離を縮めなかった。そしてまた時間が過ぎた。
美里の部屋を出てから自動販売機でビールを買い、圭子に電話を入れた。連絡をしなかったことを圭子が訝しむ様子はなかった。帰り道で東京のときの音楽仲間から連絡があった、これからタクシーを拾って帰るとウソを言った。誰かと聞かれたら圭子の知らない名前を適当に応えるつもりだったが、圭子は何も聞かなかった。
真二は道路沿いに立ったまま缶ビールを飲み、街灯の明かりを透かして星の見えない暗く淀んだ空を見た。三台のヘルメットを被っていないバイクが爆音を轟かせながら近付いてきた。彼らが真二に視線を合わしているのが分かった。親父狩り、という言葉が真二の頭をよぎった。
自分から何かを奪いたいのであれば好きに奪えばいい・・・そう思う真二をよそに、彼らは興味を抱く様子も見せずに走り過ぎていった。
次の日に目が覚めてから始まった時間は、いつもと変わらなかった。
彩は夏休みの集大成とでも言わんばかりに練習に励んでいた。実現するのか決まっていない『ランブル・ビート』との共演を心待ちにしているのだった。
彩をリハーサルルームに連れていきその演奏を目にしていた啓太は、彩はとてもいいと真二の席に来て言った。
「そうか」と座ったまま素っ気なく応える真二に、
「気になりませんか」
「気にはなる。だけど客観的に見られないんだ」
「真二さんなら大丈夫と思いますよ」
「それはどうかな」
「それに身びいきになったっていいんじゃないですか」
「それは駄目だ。いい気になっていては将来が見えなくなる」
「それだけ真剣に考えているということですね」
「もし将来が見えるとするなら、少しでも見極めることができるようにしておきたいだけだ。用心していたからといってどうにもならないかもしれない。だけど用心しようと思っていれば、それだけで安心できる」
「為になります」
「話半分に聞いてくれ」
「大丈夫です。本気で聞いていません」
「なんだそれは」
啓太が笑うそばをマットが通りかかった。
「楽しそうだな」マットは真二のパーティションの中を覗き込んだ。
「何の話だ」
「シンジさんのドーターの話です」と啓太が言った。
「彼のドーターがどうしたんだ」
彩がピアニストだと啓太が説明した。
「シンジさんのギターもいいですけれど彼女のピアノもいいですよ」
マットは即座に興味を抱いた様子だった。ミュージシャンと聞くと彼の性分が捨て置くことができないのだ。
「ジャンルは何だ」マットは真二に聞いて、
「ジャズです」と啓太が応える。
「学生か?」とマットが真二に聞いて、
「ハイスクールの一年生です。けれど『ランブル・ビート』と対等には弾けますよ」と啓太が応える。
「やけに詳しいな」と今度マットは啓太に聞いた。
「今『メルズ』でシーズナルとして働いていますから。いずれニューヨークあたりで活躍しているかもしれませんよ」
「大袈裟なんですよ」と真二は口を挟んだ。
「聴いてみたいな」とマットは言った。
「聴かせるほどの腕前じゃないですよ」
「そうだ。また次の懇親会で演奏してもらおう。親子で演奏というのは悪くない」とマット。
真二の言葉はマットの耳に入らないようだった。
「だけどそれまで聴けないというのは残念だな」
「リハーサルルームで弾いてもらえばいいですよ。『ランブル・ビート』と一緒に。このところ一緒に練習してますから」と啓太が言った。
真二の困惑の色は啓太に見えないようだった。
「真二は知っていたのか?」
「ええ、彼らの邪魔をしないようには言ってあります。挨拶に行く程度ですよ」
「それは君のことだから心配していないが」
マットは気にしているのだ。彼は部外者がパークのミュージシャンの時間を無為にすることを許しはしない。ミュージシャンはそのパフォーマンスさえよければあとは何も関係ない、そう口にするマットの言葉を言葉通りに取ってはいけない。
「一度聴かせてもらって、ケイタの言うようにそんなにいいのなら『ロンバーズ』で『ランブル・ビート』と共演させてもいいな」とマットは言った。
マットの前で彩がピアノを弾く。彩は懇親会で演奏してはならない。彩は正真正銘のミュージシャンの前で演奏しなければならない。彩をマットの評価に晒すことはしてはならない。
マットは日本人にクリエイティブの仕事ができるとは考えていない。同じように日本人に音楽ができるとは思っていない。一方で彼は自身にクリエイティブの能力がないことを知っている。そしてアメリカ大陸の数々のタレントを抱えるプロダクションとコネクションを持っている。少なくとも日本人に持っていると思わせることが出来ている。
自分ならばいくらでもいい。自分が晒し者になる分にはいくらでもなる。でも彩はいけない・・・強い拒絶の気持ちが真二を襲った。
真二は何かを言った。マットが驚いた表情をしていた。隣の啓太も固まっている。まずい言い方だったことが分かった。
「娘はまだそんなレベルじゃない。もう少し育ててからにします」
「そうか」マットは強ばった表情を和らげた。取り繕ってはみたが、マットの心に何かが引っ掛かったに違いなかった。その小さなしこりは、最悪の場合自分のこのパークでの自分の運命を変えることになるかもしれない。けれどそれはそれで、なるべくしてそうなるだけなのだ。
マットが行った後、啓太が言った。
「真二さん、どうかしたんですか?」
「悪いことを言ったようだな」
「真二さん、どこか違うんですよね」
「どこも違わない。つんけんしているように見えるか?」
「いえ、違うんです。何て言うか、良い表現が出てこないんですけど・・・若くなったというか」
「若い?」ネガティブなことを言われると覚悟していたので拍子が抜けた。
「僕のどこが若い」
「生き生きしてるというか・・・エナジャイズド、そう、エナジャイズドと言えばいいかも」
「とにかく彩をあまり甘やかさないでくれ」
「分かっていますよ」
啓太には分かっていない。そして自分のことを若くなったと言う。自分の一体どこを見ているのだと真二は馬鹿馬鹿しくなった。
真二はいつもと変わらぬ具合に、ギターを抱えてクラブのドアを開けた。
美里はまだクラブにいた。いつもと同じように美里は出迎えた。どうしてまだいるんだ、そう真二は言わなかった。真二がギターをセットしてカウンター席に戻ってくると、真二の前にビールが置かれていた。
真二はビールを口に運んだ。
「おいしい?」と美里が聞いた。オーナーはいなかった。
「ビールはいつもおいしい」
「良かった。彩ちゃんは次いつ来るの」
「さあな」
「彩ちゃんのピアノは上達してるの?」
「このところダンたちとも練習してるようだ」
彩は家でもひっきりなしにピアノを弾いていた。
「彼女のピアノ聴いてみたいわ」
「オーナーが許してくれるレベルかどうかだな」
「私もオーナーに言ってみるわ」
「やめてくれ」
「どうして」
「さあ、どうしても」
少なくともマットに見せるくらいならオーナーの前で弾かせたい、その思いはあったが美里に言わせることではなかった。かといって自分で頼むとも言わなかった。
一回目の演奏途中に啓太が久しぶりにクラブにやってきた。一人でカウンター席に座り、美里が注文を聞いている様子がステージから見えた。これまでクラブに女性店員がいることはなかったから、美里と初対面の啓太は少し違和感を覚えているに違いなかった。
啓太はいつもふらり演奏途中に現れて、演奏を終えたばかりで気分の高まった状態の自分たちをカウンターで出迎えるのが常だった。
「ブラーボー!」啓太はいつもと同じように手を叩きながらステージから降りた真二たちを出迎えた。
オーナーはカウンターの中に入って美里の隣に立ち、木島と加納は真二と啓太を挟んで座った。
「久しぶり」とオーナーが啓太に言った。
「真二の職場の啓太さんだ」とオーナーが美里に紹介した。
美里は頷き、「さっき聞きました。お噂はよくお聞きしてましたよ」と言った。
「このクラブに女性の店員さんがいることはないのでびっくりしました」
啓太はオーナーを向いて笑顔で続けた。
「お店のブランド変更ですか?」
「真二の東京時代の知り合いだ」
「そうなんですか」と今度は真二に驚いた顔を向けた。
美里が新宿のクラブを訪れる客だったこと、大阪に現れてこのクラブを手伝うようになった経緯をかいつまんで真二は話した。それは、母親を亡くしたことと幼くして別れた父親のことを美里が自分で説明する姿を、真二が見たくなかったからだ。
「じゃあ、今度は福岡に行かれるんですね。折角店が明るくなったのに」
「私のようなおばさんがいてもそんなに明るくはないわ」
「とんでもない。こんなおっさんばっかりのむさいところにバラが咲いたようです。いや、咲いたようではなくて、バラが咲きました」
皆が笑った。美里を取り巻くようにして、皆で笑った。その様子に、真二は再びかつての東京の日々を思い出さずにはいられなかった。移ろっていない記憶に気付かずにはいられなかった。そして後になっても、ギターを弾くときに、抱えたときに、いつも美里が心にどこかに居て、眠るように曖昧な平安があったことを悟らずにはいられなかった。
啓太はドラムを叩くようにテーブルを両手の一差指で打った。
「パークにいらっしゃいましたね?」
美里は困惑を交え、
「何度か行きましたよ」
「真二さんと言葉を交わしてらっしゃいましたよね」
「そうだったかしら」美里は中空を見つめて思い出す振りをした。
「髪をまとめて蝶ネクタイに白シャツで雰囲気が変わってたので気付きませんでした」
真二は黙ってビールに口をつけていた。
「真二さんのギターはどうでした?今と違いますか?」と啓太は聞いた。
「昔も今も変わりません」
「そうですか。良かった。そうだと思った」
真二は割り込んでいた。
「今日はどうして来たんだ?」いつもは前もって事前に相談がある。真二がクラブを休むこともあり得るからだった。
啓太はオーナーを向いた。
「真二さんの娘さん、彩ちゃんのピアノを聴いてみたくはありませんか?ここにも来たことがあると思うんですけど、『ランブル・ビート』とよく練習していて、彼女の夏休みが終わる前にオーナーに是非とも聴いてもらいたいんです」
「実はさっきもその話をしてたんです。私も聴いて見みたいわ」と美里が笑顔で同調した。
オーナーはビールを飲みながら、「聴きたいね」と応えた。美里が真二に目配せした。
「じゃあ、オーナーの時間を使って悪いですけれど、店が始まる前に聴いてもらえますか?『ランブル・ビート』と一緒に」と真二は言った。
「それには及ばない。真二がいいならそのまま出てもらっていい」
「オーナーに客観的に判断してもらいたかったんですが」
「私は真二を信じている。だからいい。そして私にはこの場所を提供することくらいしかできないんだ」とオーナーは言った。
「そうですか」真二は困惑しながらも謝意を口にした。
「ありがとうございます」と啓太も言った。
「どうして啓太が感謝するんだ」
「将来の妻と父親になるかもしれない人に代って感謝したんです」皆が笑って真二を見た。
「馬鹿を言う」真二の応えにまた皆が笑った。
その日、真二は美里と同じ地下鉄に乗って帰った。新大阪の駅で美里と降りることはなかった。美里が真二を引き留めることもなかった。啓太の口を通じて、店を皆で出た時間が彩に伝わることも考え得るのだった。
美里が降りてから、車窓を通して美里のマンションの方向を望んだ。真二は一人で部屋の明かりをつける美里を想っていた。
家に着くと、彩はリビングでまだピアノの練習をしていた。その背中の後ろで、圭子はパソコンに向かっていた。クラブで弾いていい、真二がそう告げると彩は喜んだ。『ランブル・ビート』も喜ぶと思うと彩は言った。そうだといいな、と真二は言った。良かったね、と圭子が言った。
夏休みのアルバイト期間が終わってしまえば、彩はパークにもオフサイトビルにあるリハーサルルームにも自由に出入りできなくなる。セッションを行う機会の有無に関わらず、『ランブル・ビート』との練習を大切にしている彩が愛しかった。彩の独りよがりの感傷が眩しかった。
「マミーも来るわね」と彩は圭子に聞いた。パソコンの画面から目を上げた圭子は、
「そうね。彩が演奏するなら行こうかしら」と圭子は応えた。
「何を演奏するつもりなんだ」と真二は彩に聞いた。
「いつも『ランブル・ビート』が弾いている曲よ」
「それだけか」
「それに竹内まりや・・・どう思う?」
「いいんじゃない」と圭子が言った。
「ダディはどう思う?」
「いいと思う」と真二も言った。
彩と『ランブル・ビート』のセッションは翌々週の水曜日にセッティングされた。客は大抵オーナーのピアノを当てにして来る。通常通りの時間にオーナーや真二のカルテットが演奏を行い、その合間に彩たちが入ることになった。
彩たちと交互に弾くんだったら恥ずかしい演奏はできない、プレッシャーだ、そのような社交辞令をオーナーは口にした。隣で聞いていた美里が、オーナーがそう言うのが逆に彩ちゃんのプレッシャーになりますよ、というようなことを言った。
日中、真二はリハーサルルームに『ランブル・ビート』を訪ねた。日程を告げると快く受けてくれた。
「近いうちの水曜日だろうと皆で言ってたんだ」とダンが言った。
「オーナーの演奏の合い間にやるのはプレッシャーだな」とバーノン。
「それを聞くとオーナーが喜ぶと思うよ」と真二は言った。
「シンジはオーナーとカルテットで出るのか?」とスティーブ。
イエスと真二が応えると、
「俺たちともやらないか?そうだ、やればいい」とダン。
「光栄だけど、遠慮しておくよ」
「どうしてだ。両方に出ればいい」とバーノン。
「彩と君たちの演奏を見たいんだ。自分が演奏するんじゃなくて」と真二は応えた。
「そんなものか」とスティーブが言うと、
「お前には分からないさ」とバーノン。
「じゃああんたには分かるのか。よく言うよ。娘に見向きもされない男が」とスティーブ。
気色ばんだバーノンに、
「カームダウン、カームダウン」とダン。
「何が落ち着けだ。日本にいる間に女房に逃げられた男が」スティーブは平然と言った。
今度はダンが殺気だった。
「カームダウン、カームダウン、一体どうしたんだ」真二は広げた両手を下にして、呆れ気味に言った。
「よくあることさ」ダンが深呼吸して言った。
「スティーブはいつもこうしてメンバーをからかって楽しんでるのさ」怒りを抑えるためか、そうバーノンは言い残してトイレに立った。
バーノンがリハーサルルームを出て行ったあと、ダンが真二に言った。
「バーノンは自分の娘に会うことはできない。彼は君の娘に自分の夢を託し、かなえられない夢を実現しようとしてるのかもしれないな」
「バーノンがどう思おうと、アヤはシンジの娘のアヤでしかない」とスティーブ。
「その通りさ」とダン。
「でもそれを面と向かって言わなくてもいいんだ」トイレに行く、ダンも扉を開けて出て行った。
真二とスティーブは二人きりになった。
「またトイレで俺の悪口を二人で言い合ってるに違いないな。さっきも言ったが、ダンは嫁さんに逃げられたんだ」
「本当なのか」
「この間キャストハウスでおれの部屋に突然ダンがやってきた。普段はお互いの部屋など行き来しないのに驚いたさ。アメリカの嫁さんに電話したら、別れてくれと言われたとダンは言った」
「君のところを訪れたんだな」
「どういう意味だ。バーノンでなくてどうして俺のところなんだ、ということか?」
「まあ、そんなところだ」
「はっきり言うんだな」
「君ははっきり言われることを好むようだから」
「ダンにはバーノンに対する変な優越感のような、一方でライバル意識のようなものがあるんだと思う。ダンが嫁さんに逃げられるのは二回目らしい。紳士ぶっているが女々しい男だ。だから逃げられる」
「彼に向かってあまりはっきり言わない方がいいな」
「言わないよ。独り言さ」
スティーブは深呼吸して笑った。
「ああ、すっきりした。でも心配しないでくれ。こんなシーンをアヤの前で繰り広げることはないよ。アヤが俺たちをつなぎ止めてくれているようなものだ。彼女がいなかったら、一年の契約期間も今の時点で解消しなければならなかったかもしれない」
「どのような形にしろ、少なくともアヤが君たちの邪魔をしてなくて良かった」
バーノンとダンが戻って来た。
「シンジにまで噛み付かないでくれよ」とダンはスティーブに言った。
早く仕事を終えてパークを出た日、真二は美里から聞いたホテルのロビーラウンジに一人でいた。北新地の繁華街を縫って歩いてたどり着くホテルだった。ずっと昔、美里の父親がピアノを弾いていたというラウンジだった。人いきれと居並ぶ白いテーブルの奥に、一つの奏者のいないピアノが静かに佇んでいた。閉じたピアノの上に、白い花が飾ってあった。
つい最近、美里もこのどこかの椅子に座ってあのピアノを見ていたはずだった。真二はコーヒーカップを口に運びながら、美里の視線と自分のものを重ね合わせ、美里の父親を想っていた。
次にやはり美里が口にした二つのホテルを真二は廻った。美里は近い将来に大阪を離れるだろうという確信があった。美里と視線を重ねる作業は、美里と呼吸を合わし、美里の過ごしてきた時間を共にする所作でもあった。
真二はロフトまで歩き、背の低い透明の花瓶に埋め込まれたイミテーションの白い花を買った。黄色いエプロンの店員に、花の名前を聞こうとはしなかった。
途中、圭子には遅くなるとメールを入れた。新大阪で電車を降り、美里のマンションを訪ねた。
二つ目のドアの前で部屋番号を押してみた。居なければ目に入った居酒屋に寄って時間をつぶしてから帰ろうと思っていた。居ないことを真二は願っていた。
けれど美里はいた。
「僕だ・・・」沈黙のまま二つ目のドアは開いた。通路を歩いて美里の部屋の前についた。ブザーを押すと三つ目の扉が少し開いた。真二は歩み寄って扉を引き、擦り抜けるようにして中に入った。相変わらず白い部屋に真二は上がった。
音のない空間に二人きりだった。
「テレビを点けようか?」と美里は言った。
「花を買ってきた。イミテーションの」真二は手に提げていた袋を前に突き出した。
美里は受け取り、袋から中を取り上げてデスクの上に置いた。
「どうして本物じゃないの?」
「枯れないから。どちらにするか悩んだんだが、枯れたあとの花を想うと買えなかった」
「そう・・・ありがとう」
音のない部屋でコーヒーを二人で飲んだ。美里はベッドの端に、真二は椅子に座っていた。少なくとも自分が居ることで、この白い部屋に美里が一人で居るわけではないことに安堵した。
「いつまでこうしているつもり。彩ちゃんや奥さんのことはいいの?」ともっともなことを美里は言った。
「よくはないかもしれない」と真二はコーヒーを口に運んだ。
「こうしていて、彩ちゃんや奥さんとはそのままでいられるの?」
「いられると思う」
「あなたはどうしたいの?何をしに来たの?」
「僕はどうしたらいい?」
「私の言う通りにする?」
「何をすればいい」
「一緒に福岡に行くの」
「ああ、そうしよう」
真二は自分の口をついて出た言葉がすぐには信じられなかった。だがその言葉は、口にしたことで生命を帯び、真二の胸の隅々まで染み入るようだった。
「ひどく簡単に言うのね。あなたは本当にそれを言いに来たの?」
「逆のことを言いに来た」
「だったら多分、あなたは家路に着いた途端に目を覚ます。そして今した私との約束をきっと反故にする」
「そう思うか?」
「ええ。そう思うわ」
「仮にそうなるのだとすれば、かつて君は僕を見限った、その贖罪なんだろう」
美里は身体をベッドから下ろし、真二の足元に擦り寄ってきた。美里は頭を真二の膝に乗せるようにした。真二は右手の平を美里の頭に置いた。
その右手に美里の鼓動が伝わってきた。その手を滑らせて頬に触れた。美里は頭を上げた。真二は覆うようにしてキスをした。顔を離すと、美里は真二の両足に腕を回し、再び頭を真二の膝に寝かせた。
「あなたの言うことが本当なら、彩ちゃんをこれからどうするの?」と美里は言った。
「できる限りのことをする」
「彩ちゃんは理解してくれると思う?」
「彩は決して僕を許してはくれないだろう」
「それでもいいの?」
「僕にできることは、彩が進みたい道があるなら、それを後押ししてやりたいだけだ」
「奥さんはあなたを、音楽を憎むようになる。私の母のように。あなたはそして、奥さんを愛してる」
「ああ、そうに違いない」
「それでもいいの?}と言って美里は沈黙した。膝に美里の息遣いがあった。
「あなたは今まで積み上げてきたもの全てを一瞬にして失うわ」
「いや・・・僕は積み上げてきたものを失いはしない」
「どういうこと?」
真二は美里の頬を撫でた。
「僕は君との約束を反故にするだろう。その前提で僕は独り言を言う・・・ギターを手にするたび、ギターを抱えるたび、それは電車の中であったり、クラブの中であったり、家のリビングの中でさえあった。人生の半分以上の期間を、静かに、こつこつと、時計が針を刻むように、きっと僕は君を想ってきた。その積み上げてきた自分の人生を、僕は失うわけじゃない」
真二の手を美里がまさぐって指を絡めてきた。
「彩ちゃんの演奏を聴いてみたいわ。彩ちゃんの作る音がこうして身体じゅうを飛び移る」
美里の空いた手の指が、真二の膝をくすぐるように跳ねていた。
「聴けばいい」
「いいの?」
「ああ、ぜひ聴いてくれ」
「ありがとう」美里は息をするようにか細く言った。
水曜日の夕刻、真二は用事があるからとギターを持っていつもより早めに出掛けた。彩は圭子と一緒に少し後から家を出ることになっていた。家族三人が一緒にクラブのドアを開ける姿が美里の目に映ることを真二は躊躇した。
真二は新大阪駅近くになると車窓を通して美里のマンションの方角を望んだ。もう部屋を後にしてクラブに向かっているはずだった。
いつものようにクラブのドアを開けると、カウンターの中に美里の姿はなかった。
「いらっしゃい」と代りにオーナーが言った。
「調子が狂いますね」とおどけて真二は言った。
「彼女まだ来てないんだが、連絡がないんだ。携帯も繋がらない。何か聞いてないか?」とオーナーは言った。
「いいえ。僕は知りません」息が詰まる。
「何か事故にでも巻き込まれたんじゃなければいいが」オーナーの言葉にさらに胸が苦しくなる。
美里から連絡のないまま、木島と加納が、続けて『ランブル・ビート』、彩と圭子が到着した。クラブは騒々しくなった。真二が圭子を皆に一通り紹介したあと、カウンターとその前の二つのボックス席に別れて座った。一つには彩と『ランブル・ビート』の四人で、もう一つには真二と圭子、オーナーの三人で座った。カウンターの木島、加納は椅子を回転させ、通路を挟む形で会話に加わった。
美里がいない分を切り盛りしなければならなくなったウェイターが、飲み物の注文を聞いて回った。
「真二の奥さんに初めて会えて良かった」とオーナーは言った。
「奇麗なお店ですね」と圭子が店を見回して言った。
「男所帯にしてはね。本当は女性の店員も一人いるんだけれど、今日はいなくてね」
「想像した通りの店でした」
「それは良かった」とオーナーは言った。
口に運んでいたビールが真二にはいつになく苦かった。
「主人が大変お世話になっています。しかも今日は彩まで」と改めて圭子が言った。
「こちらが世話になってますよ。私は場所を提供しただけですよ。ところでどうして今まで真二のギターを聴きに来なかったんです?」
「家でいつでも聴いてましたから」
彩たちは楽器をチェックしたいからと、立ち上がってステージに向かう。
オーナーは圭子に聞いた。
「でも大勢の客、いやここでは大勢とはいかないけど、客の前で演奏する姿を見たくはなかったですか?まあ、真二のそんな姿はもう過去に見飽きてるんでしょうけど」
「家で夫のギターを独り占めできてますから」
「そうですか。確かに、確かに」
オーナーの言葉に、真二はいつもノートパソコンのキーボードを後ろで打っている圭子を思い出す。
しばらくして入り口のドアが開いた。ドアの開く音が気になって仕方なかった。啓太だった。そして彼の後ろからマットと高橋正美が現れた。
マットは真二にハーイと手を上げた。真二は立ち上がって出迎えた。つられて皆が立ち上がった。
真二がマットたちに、オーナーと木島と加納、続けて彩を紹介した。
圭子は一度マットの家に呼ばれていて、正美とも面識があった。
「お久しぶり」とマットは圭子に言った。
彩と『ランブル・ビート』がステージから戻ってきて挨拶した。
「やっとシンジの娘さんに会えた」とマット。
「初めまして。やっと父のボスに会えました」と彩が言って、マットは笑った。
彩は高橋正美を向き、「お姉さん、お久しぶり。いつもお奇麗で」と言って、高橋が笑った。
日本語を解さず不思議そうな視線を向けるマットに、彩は自分が『メルズ』で働いていること、その前で繰り広げられる『ハイ・トーンズ』のハーモニーがすばらしいと英語で言って続けた。
「あのアトモスをアメリカから持ってきたのが父のボス、あなたなんですね」
マットが本当に喜んでいるそばで、啓太が真二に小声で告げた。
「すいません。今日彩ちゃんと『ランブル・ビート』が演奏すると言ったらマットも高橋さんも行くと言うので」
どうしてそんなことをマットに言ったのか、と言っても詮無いので黙って頷いた。
「どうぞ座ってください。『ランブル・ビート』と彩ちゃんは演奏を準備いただくとして」と啓太は言った。
客はまだステージの回りにまばらだった。
オーナーに促されて彩たちがステージに向かおうとした。
「タカハシさん、君がMCしたらどうだ」とマットが言った。
「急に言われても・・・」高橋は困惑の色を浮かべた。
「やって」と彩が言った。
すると「じゃ、やってみますか」と高橋は言った。
「いいのか」と真二は聞いた。
「実はここに来る途中にマットにやれと命じられてたの」
マットの性格を考えれば、是が非でもマット自身がスピーチしたいはずなのは分かっていたが、このまばらな人数では逆に彼に失礼なのも分かっていた。けれど、急に真二は思い立った。
「マット、あなたに少しスピーチしていただけると嬉しいですが」真二の言葉に、マットは少し驚き、考え込む仕草をした。
「あなたのスピーチがあれば、彩たちの演奏に花が咲くんですが」
「じゃあ少しだけ」とマットは笑顔を作って真二の肩を叩いた。真二はごめんと高橋に向かって手を合わした。
マットは高橋とステージに向かった。
「良かったんですか」と啓太が聞いた。
「いいんだ。このまばらなジャズ好きの客の前でもかまわないとマットが考えるのであれば」と真二は言った。
バーノンがベースを抱くようにして肩にもたせ掛けていた。ドラムの前にはスティーブ、ピアノの前にはダンと彩が並んで座っていた。
マットと高橋がマイクを持って前に立った。
「私どものテーマパークの中に『ロンバーズ』というレストランがあります。彼らはそのレストランでジャズを演奏しているアメリカ人メンバーと、可憐なハイスクール一年生の少女からなるグループです」
マットが喋って一呼吸置く間に、高橋が通訳していった。
―少女はこのセッションの後で演奏するギタリストの娘でもあります。ギタリストは私どものテーマパークでも働いておりますが、ギタリストとしてではありません。裏方として昼はテーマパークで働く彼は、こうして夜クラブに現れてはギターを奏でております・・・
―『昼顔』という映画をご存じでしょうか。その映画でカトリーヌ・ドヌーブが夜は貞淑な妻、夫のいない昼だけは娼婦を演じています・・・
期待していたいつもの歯の浮くような、そして気の利いたスピーチとは少々勝手が違って聞こえた。マットは続けた。
―ギタリストは昼は柔順にパークで働き、夜になるとギタリストとして出没します。彼にはどちらが秘事なのでしょうか。彼だけならまだしも、彼は自分の娘もその淫靡な世界に引き込もうとしています。アメリカ人トリオは、その少女をギタリストから救うために私どもが遣せた『三銃士』です。少女が、夜も、昼もピアニストであり続けるために・・・¦¦それではトリオ『ランブル・ビート』とピアニストの『アヤ』の演奏をお楽しみください・・・
まばらな客と真二の回りから大きな拍手が起こった。
彩とダンが鍵盤に手を置くのが見えた。ダンがバーノンとスティーブを振り向いて目配せし、音楽が始まった。
竹内まりやの曲だった。音楽に押し戻されるようにしてマットと高橋正美が帰ってきた。マットは親指を立てて真二に合図し、真二たちの前のボックス席に座った。
「どうだった?」
真二は力強く親指を立てて大きく頷いてみせた。
彩の紡ぐ音色は、透明で立体感があった。
電話がかかってきている、ウェイターがオーナーに手振りで示した。真剣に演奏に耳を傾けていたオーナーは舌打ちしながら席を立ってカウンターの奥に入っていった。
オーナーが呼んでます、今度ウェイターは真二に告げた。電話が誰からか真二には分かっていた。真二は立ち上がった。彩の演奏に釘付けになっている圭子に視線を走らせてから、真二は立ち上がった。
カウンターを通ると、オーナーが電話の受話器を真二に手渡した。
「もしもし」真二は受話器の奥に微かな吐息を感じた。
「ごめんね。行けなくなったわ」
「どうしたんだ」声を振り絞るようにして聞いた。
「今、福岡についたところ」
「良かった」何とか真二は言った。
受話器の奥の深い沈黙に向かって続けた。
「事故にでもあったのかと思った。本当に良かったよ」
「ジャズが聞こえるわ」
「彩たちが演奏してる」
「彩ちゃんのピアノね?」
「聞こえるか」
「よく聞こえる。音が飛び回っている。飛び跳ねてる。リズムセクションの音もいいわ。立体感があって」
「ダシのよく効いた味噌汁のようか」
「ええ、その通り」
「君に観せてやりたい」
「私は観ているの。踊るように鍵盤を叩く彩ちゃんの指の動きも何もかも。そして目を細めて観ているあなたの横顔もよく見える」
「・・・今どこにいるんだ」
「ホテルの部屋にいる」
「僕にも君が見える」
「見ないで」美里の強い物言いに真二は沈黙した。
「僕もその部屋にいるのが見える」
「・・・いいえ、あなたはここにはいないの。そう決まっていたの。あなたは私との約束を破ることになっていた。だから先にそうしたの」
君は昔から、何もかも自分一人で決めてしまう癖がある・・・
「君だけで決めることじゃない」
「彩ちゃん、可愛いわね。彼女は懸命に家族とあなたの奥さんを守ろうとしている。それが分かるわ」
「どういうことだ」
「あなたはその彩ちゃんの隣にいるのが見えるの。さよなら・・・」
電話の切れる音がした。
真二は受話器を耳に当てたまま、しばらく彩たちの演奏をカウンターを通して見ていた。
そうだ。言われなくとも僕には彩が可愛くて仕方がない。圭子が愛しくてたまらないのだ。
ところが、君はまた一人でいる。部屋の無機質な白い壁に囲まれて、また一人きりでいる。君の話したことは果たしてどこまでが嘘で、どこまでが本当だったんだろうか。すべてが嘘だったんだろう。君は君の存在までもが嘘だった。僕の前に気まぐれのように現れてみたのも、嘘だった。そんなことに僕が気付かないと君は思っていたのか。でも僕は気付いていた。一方で、君の方が気付いていないことがある。僕は君を愛してなどいなかった。時計が針を刻むように、刻々と、淡々と、地面を這うように、息をするように、僕は君を愛してなどいなかった。だから、君がわざわざ一人で福岡に先に旅立つ必要などなかったのだ。いずれにしても僕は約束を反故にしていたのだから・・・
受話器をゆっくりと置いた。カウンターの中で立っているオーナーの背を擦り抜けようとしたとき、オーナーは真二の肩を軽く叩いた。
ステージに見入っていた圭子は、真二を一瞥してほほ笑んだ。真二は圭子の隣に再び座った。ソファはとても深かった。
「この曲は何だったっけ?」と圭子が耳元で聞く。
「『家に帰ろう』だ」
ダンはしばらく指を止めて、彩に演奏を委ねている。スティーブのシンバルは切れ良く中空に撒かれ、バーノンのベースの低音は床の絨毯を伝って来るのが見える。彩のピアノは踊り狂うようにその音たちに飛び移っているのが見える。
彩の指の熱が耳にまで伝わってくる。耳から音は内部に染み出してゆき、真二の身体の芯が熱くなってくる。その熱いものは喉元を伝わり、鼻孔を抜け、目の前のステージにいる彩が、そして見えなくなる。
了




