家(うち)に帰ろう1
家に帰ろう
石川 安泰
まもなく真二たちの出番だった。明かりの落とされたステージ二二の中に、数本の光の矢の直線が伸びた。明かりの輪に、MC兼通訳の高橋正美の姿が浮かび上がった。彼女は日本語で喋り始め、英語で喋り、そのあとに自ら英語に訳した。
年に一度の二月に行われる懇親会には、パークに所属する殆どのエンターテイナーが集っていた。外国人と日本人は半々程度だったが、まだら模様のように入り乱れ、みぞれ落ちる建物の外とは対照的に、湯気が立ちのぼるような熱気に満ちていた。
会場にはミュージシャンやシンガーも多くいた。彼らの前で裏方スタッフが演奏するということに気後れする真二をよそに、エンターテイメント部長のマットにその様子は全く見られなかった。出演の要請を受けたときに真二は躊躇したが、どうしてだとマットは心から不思議そうに聞いた。
プロの料理人の前で料理するようなものだ、そう応えた真二に、日本人だな、とマットは呆れたように言ったのだった。
そうは言ってもこれから演奏するメンバーはそれぞれミュージシャンくずれだった。真二は本来ギタリストだったが、マットがギターとリードボーカルを引き受けると言った。マットがその担当を譲るはずはなかったので、若い啓太は彼なりに気を利かせて真二ならギターだけでなくキーボードもできるとマットに進言したのだった。
高橋正美は真二たちの即席バンドを紹介し、ステージに上がってくるように促した。
マットがギターを肩に掛け、ステージの階段を軽やかに上った。啓太、隆介が続き、最後に真二が上り、大きな拍手と熱いスポットライトの光りに包まれた。
啓太はドラム、隆介はベース、真二はキーボードとそれぞれが位置についた。マットがスピーチした。マットは契約期間を終えてパークを離れていくエンターテイナーをねぎらい、これから少なくとも一年間をパークで過ごす後進たちを励ました。いかにもスピーチ慣れしたアメリカ人らしい、滑らかなスピーチだった。
元々プロのバンドマンだったというマットは、アメリカの場末の酒場で酔客相手に日銭を稼ぐ類いであったのだろう、真二は彼の背を眺めながら改めてそう思う。
マットは日頃ことあるごとにホスピタリティという言葉を口にする。だからこの慰安会では自分たちがエンターテイナーたちをもてなすのだ、そう言った。啓太や隆介は真に受けた。彼らは二人とも二〇代後半だった。四〇を過ぎ、彼らよりもマットと年齢の近い真二は彼らと同じようには思えなかった。
スピーチを終えたマットは振り向き、真二たちに合図した。「ア・ハード・デイズ・ナイト」だった。続けて三曲を演奏した。リハーサルした通りの、まずまずの出来だった。アンコールの声が上がった。用意していた曲を演奏した。啓太のドラムはロック向きの縦の直線的な乗りだった。隆介のエレキベースもやはり、聞き慣れた柔らかく拡幅していくようなアコースティックの音ではなかった。けれど悪くはなかった。そして取り立てて良くもなかった。
真二はオフの日、行きつけのジャズクラブでピアノトリオに加わってギターを弾いていた。そのときとは勝手が違った。楽器とメンバーと聴衆と空気が違ったのだ。
演奏が終わり、高橋正美が再びステージに上ってこようとしたとき、マットがステージ下すぐ近くの数人の団体を指さした。
カモン、カモン、とマットはステージに上がって来るように促していた。彼らは『ロンバーズ』などのテーブルレストランで食事するゲストにジャズを聴かせる、白人だけで構成するピアノトリオ『ランブル・ビート』のメンバーだった。
何度かゲストに交じってマットと演奏をチェックしに行ったことがあった。オフサイトビルでリハーサルをする彼らを聴いたこともあった。メンバーは三人ともアメリカ人だった。やはり彼らも町外れのバーで見かけるバンドマンの域を出てはいなかった。少なくとも、ニューヨークの『ブルーノート』や『ヴィレッジ・バンガード』に出ることのできるレベルではなかった。
マットが執拗に上がってこいと繰り返すので、当のバンドマンたちは困惑気味にステージに上がってきた。歓声が大きくなった。マットはギターを置き、真二たちを向いて「交代だ」と言った。
啓太はドラムのスティックをスティーブに、隆介は肩に掛けていたエレキベースをバーノンに譲った。
「エレキは大丈夫か?」と隆介がバーノンに言った。
バーノンは普段レストランではウッドベースを弾いていたのだ。
「まかしておけ。たまにはエレキも弾きたくなる」とバーノンが応えた。
真二はキーボードをダンと代わった。
「いつものピアノとは勝手が違うだろうけど」と真二はダンに言った。
「ダイジョウブ」とダンは日本語で応えた。
「真二さん、ギター弾いたらどうですか?」
啓太は真二がオフの日にジャズクラブでギターを弾いていることを知っていた。真二のギターを聴きにそのクラブを訪れてきたこともあったのだ。
「真二さんのギターはすばらしいんだ」啓太は何を思ったかしきりにバンドマンたちに強調した。
「ジャズも出来るのか?」
ダンが意外そうに真二に言い、真二の代わりに啓太が応えた。
「真二さんの本職はギターだ。彼のジャズギターはすばらしい。君たちも絶対に聴くべきだ」
「曲は何ができる?」ダンの質問に、
「少なくともスタンダードならどれでもできる」とまた啓太が応えた。どうして彼がそんなに自分に弾かせたいのか真二には理解できなかった。
「じゃあ、おれたちが普段演奏している曲はどれでもできるな」とバーノンが口を挟む。
自分はそんなレベルではないと真二は首と手を横に振り、ステージを降りようしたところを、話を聞いていたマットがギターを貸してやると言う。
「シンジ、やるんだ。おれはジャズはできないから」
ミュージシャンを見ればそのレベルを見極めずにはいられない質のマットは、これも仕事だ、と言わんばかりに自分のギターを真二に押し付けた。
真二は困惑した。会場の明かりは落ちたままだった。ステージ下のエンターテイナーたちをこれ以上待たせることはできないし、断ることもできそうになかった。
マットは大抵、その演奏が自分の想像に違わなかった場合は安堵し、想像を越えた場合は自分がエンターテイナーたちを操る立場にいること、彼らと比べ物にならない自分の報酬の額を想い、また安堵するのだ。
面倒だな、真二はマットのギターを受け取って肩に掛けた。マットたちはステージを降りていった。
「何がいい?」とバーノンが真二に聞いて、
「君たちが普段演奏しているものでいい。それ以外でもいい。入れそうなところから入るから」
「オーケイ。じゃあ」
ライトが再び真二たちを照らした。
キーボードのダンがマイクに向かって英語で喋った。
「いつも『ロンバーズ』で演奏している曲をやります。ゲストが会話と食事を楽しむための香辛料のようなものです。だから皆さんもかしこまらなくて、会話したり食事をしたりしながら、聴いてください。スペースを使って踊ってくれてもかまいませんよ。それから、いつもの自分たちの楽器と違いますから、とちるかもしれません。飛び入りでシンジさんもギターで参加してもらいますが、今まで一緒に合わせたこともありません。どうなろうとも、ご愛嬌ということで大目に見てください」
日本語訳はなかったが、歓声が上がった。マット、啓太、隆介がステージ下からビールのグラスを持った手を上に上げ、乾杯のジェスチャーを真二たちに送っていた。
始まったのは『ペニーズ・フロム・ヘブン』だった。ダンのキーボードが良かったので真二は演奏に参加せずに聴いていた。
これまでのロックからいきなり曲調が変わったことに面食らったような聴衆の空気だった。その聴衆の期待を裏切ることは微かな快感だった。
キーボードもしかり、エレキのベースでは微妙なスウィング感が出ていなかった。それでもそれほど悪くはなかった。スティーブのドラムは、黒人ドラマーのような弾丸のような力強さはなくとも、間違いなく彼の身体とスティックがドラムの上を波打って踊っていた。
『アイ・キャント・ギブ・ユー・バット・ラブ』のファンキーなタッチも悪くなかった。どうして入っていかないんだ・・・マットの訝しげな、啓太の非難めいた視線は分かっていたが、真二はダンのメロディーを壊したくなかった。
その次は『酒とバラの日々』だった。真二はダンに促され、ようやくメロディーラインに入っていった。
聴衆のあちらこちらでは、会話と食事が再開されていた。真二はすぐに演奏に集中していた。多くは曲が変わったことで再び演奏に耳を傾け始めた。
次の曲は『イパネマの娘』だった。真二はこのボサノバを弾くと、けだるい午後の陽光に煙るブラジルの砂浜を思い浮かべた。思い浮かべることが出来れば、演奏の出来も大抵は悪くないのだった。この時も例に違わず砂浜が脳裏に現れた。
『時のたつまま』では映画『カサブランカ』のモノクロ画面に映る北アフリカの強い陽光を想い、『オーバー・ザ・レインボウ』では何故か『ティファニーで朝食を』のセントラル・パークの歩道を想った。『ティファニーで朝食を』で流れるのは『ムーン・リバー』なのにだった。
演奏が終わり、高橋正美がステージに上ってきて挨拶をした。会場に明かりが灯るのと入れ替わりにステージを降りると、啓太が真二に「良かったですよ」と言った。マットは「グッド・ジョブだ」と親指を立てて言った。
「そろそろ君にはジョブ・ローテーションが必要だと思っていた。今度はミュージシャンになってもらう。君もエンターテイナーの仲間入りだ」
マットは真顔で言ってから破顔し、真二の肩を叩いた。
真二は普段、エンターテイメント部のファイナンス・チームの長としてショーコストの管理に当たっていた。啓太や隆介はショー運営のグループに属し、真二とはラインが異なっていた。
元々ファイナンスのバック・グラウンドが真二にある訳ではなかった。ファイナンスのプロには到底かなわないものの、手先が器用なのと同様に計数もアレルギーなく器用に扱うことができたのだった。
自身がミュージシャン出身で、コスト管理も含むショー制作に携わってきた経験から、マットは真二にコスト管理を任せているようだった。けれどいずれマット自身の気まぐれでショー運営なりショー制作のグループに替わることにもなるだろうと真二は思っていた。
真二のオフは週に二回、土曜日と水曜日だった。水曜日には難波の道頓堀の雑居ビルの五階にあるジャズクラブでギターを弾いた。五十人ほどで一杯になるクラブだった。入り口を入った正面の壁には、これまでクラブを訪れた名の知れたミュージシャンの写真が幾つも無造作に貼られていた。右にカウンターが伸び、向かいに居並ぶボックス席との間を抜けると、ステージと客席が広がっていた。
ステージのグランドピアノには、その流線型に沿ったカウンターテーブルが設えられていた。その特等席に座った客は、時折クラブのオーナーでもあるピアニストが興に入り、ピアノ弦に片腕を伸ばして指で弾くのを目にすることができた。
ステージで演奏するのは、大抵ピアノ、ベース、ドラムのトリオだった。時折ベースとドラムは替わったが、ピアノは必ずオーナー自身が弾いた。金曜日や土曜日にはある程度名の知れたゲストが加わってカルテットになることがあった。サックスやトランペットや真二のギターのときがあった。ヴォーカルが加わるときもあった。
ギャラは出せないとオーナーから言われていた。真二はそれで構わなかった。弾かせてもらえるだけで良かった。いつも裏方としてミュージシャンなどのエンターテイナーたちに接する自分、そして時にゲストの数や層は違えどステージに立つ自分。水曜日になるとその立位置を僅かにスライドさせることが真二には心地よかった。
いつものようにギターを持って出掛けたその週の水曜日に、思いがけない来客があった。二回目の演奏までのインターバルで、真二はカウンターの中のオーナーを前にして、ベースの木島、ドラムの加納とカウンター席でビールを飲んでいた。真二にはこのビールがギャラの代わりだった。
九時が近付いてきたころ、入り口のドアの開く音に視線を向けたオーナーが、意外そうな顔をした。真二が振り向くと、外国人ばかりのグループだった。『ランブル・ビート』のメンバーだった。
「ハーイ、シンジの演奏をまた聴きにきたよ」ダンが顔をほころばせて言った。バーノンとスティーブも軽く手を上げた。
真二は立ち上がって彼らを迎えた。ウェイターの野島と一緒に三人の上着を受け取り、カウンターのオーナーに声を掛けた。
「パークのレストランでジャズを演奏しているメンバーです」
「ウェールカム!」オーナーは両腕を広げて三人に言った。
真二は三人をカウンターの向かいのボックス席に促した。ステージ近くの席は半分ほど空いていたが、一般客に目立たぬように出演者が知人と喋るためには、決まってそのボックス席が使われていた。
「わざわざ来てくれてありがとう」真二は言って三人と一緒に座った。
「ただ純粋にシンジの演奏を聴きたかったんだ」と正面のダンが言った。
「少なくとも僕のギターはそれほどでもない、残念ながら。ノーギャラで弾かせてもらってるんだ」
「いや、シンジのギターは悪くない。『ランブル・ビート』に加わってもらってカルテットにしたいくらいだ」
真二は笑って、「この場所はどうして分かった?」と聞いた。
「あのドラマー、ケイタに聞いた」と隣のバーノンは応えて続けた。
「彼も来たがっていたが、今日は用事があるらしい。来週の水曜日なら行けると言ってたんだが」
「何だか悪かったな」
「気にするな。来れるときに来る。やれるときにやる。それが我々のモットーなんだ」
「そうか。君たち明日はオフか?」
「そうだ。だから今日はゆっくりできる。シンジは明日はパークか?」
「そうだ。けれど演奏の後にまた喋ろう。席はここでいいか?」
三人は顔を見合わせ、はす向かいのスティーブが口を開いた。
「かまわない。レストランでゲストがおれたちをどう見ているのか良く分かる。この距離感が演奏だけしていると分からないから」
そろそろだとカウンター席の木島と加納が合図をしたので、真二は席を立ってステージに向かった。
ピアノの前にすでに座っていたオーナーが真二を呼んだ。
「あの連中のレベルはどうだ?」と彼は聞いた。
オーナーはプロのミュージシャンなら飛び入りで演奏してもらうこともやぶさかでない。けれどそれは店のクオリティを下げないレベルであることが演奏の最低条件だった。この見極めが不十分だと、いずれ客足は遠のき、店が維持できなくなってしまうのだった。
「オーナーが自分で判断してください」
『ランブル・ビート』がそのレベルなのか、ノーギャラで弾かせてもらっている自分が応えるのが片腹痛かった。
「そうか」
オーナーが今日彼らに演奏を促すことはないだろうと真二は思った。
「でも飲み代は少し考えてやってくれませんか」
「分かってるさ」とオーナーは言ったが、怪しいものだった。この客数で出演者にギャラを払って店を維持するには、少しでも手綱を緩めることはできないはずだった。ショーのコスト管理をしている仕事柄からも、真二にはすぐに算盤をはじくことができた。
ステージに立った。一番奥の席から『ランブル・ビート』のメンバーが入れる合いの手が耳に届いてきた。スティーブとダンは正面を向き、壁に背をつけたバーノンは片腕をソファに乗せ、首を回すようにしてこちらを観ていた。身体を揺すり、幸せそうに笑いながら、時折仲間と頭を近付けて何かを語り合い、また頭を離してはこちらを向き、ビールグラスを手にして真二に乾杯をする仕草をした。その様子に気付き、オーナーや木島、加納もいつにも増して幸せそうな笑顔を交わしていた。
演奏が終わって帰ってくると、彼らは拍手で真二たちを迎えた。
彼らは口々に「良かったぞ」と言った。
「ありがとう。プロから言われたらうれしいよ」と真二は三人と一緒に座った。
ウェイターの野島からもらった空のグラスにバーノンがビールを注いだ。
「いつからここで弾いてるんだ?」とダンが聞いた。
「五年前からだ」
「どうしてここで弾いてるんだ?」とスティーブ。
「知人の紹介だ。けれどここで飲むビールがギャラだ。だから君たちのようなプロじゃない」
「シンジはどうしてキーボードも弾けるんだ?」とダン。
「娘のピアノを時折弾いてるんだ」
「娘がいるのか?いくつだ?」
「十六だ」
「高校生か」
「なったばかりだ」
「ここには聞きに来ないのか?」
「酒を飲むところだからな」
「そうか」彼らは不思議そうな顔をした。
「君の音楽を聴きたがらないのか?」とバーノン。
「家で漏れ聞こえてくるギターで十分なんじゃないかな」
「君には奥さんはいるのか?」
「ああ、娘がいるくらいだから」
「娘がいても奥さんがいないことはよくあることだ」とスティーブ。
「まだアメリカほど日本は離婚率が高くないから」
「じゃあ、奥さんは聞きに来ないのか?」とバーノン。
「来ないな」
「奥さんは働いてるのか?」
「ああ」
「何をしてる?」
「翻訳の会社に行ってる。主に製薬会社からの依頼を請け負ってるらしい。以前その英語の資料を見せてもらったことがある。僕には分からない専門用語がいくつも並んでいた」
「英語から日本語か?それとも日本語から英語か?」
「大抵は英語から日本語らしい。英語に訳すにはネイティブじゃないとどうしても難しいと言っていた」
「仕事はいつも遅いのか」
「そうでもない」
「だったらシンジの演奏を聴きにきてもよさそうなものだ。どうして来ない?」とスティーブ。
「どうしてだろう」
三人は呆れたように笑った。つられて真二も笑った。
「シンジが分からなければ誰にも分からない。一体奥さんはシンジを愛しているのか?」とダン。
「さあ、どうだろう」
また皆で笑った。
「けれど娘にピアノをやらせたいと言ったのは彼女だ」
「会ってみたいな。パークに来ることはあるだろう。おれたちの演奏を聴きに来てほしいな」とスティーブ。
「妻か、娘か」
「どちらもだ」
「実は娘は今度の夏休みにパークで働くと言っていた」
「エンターテイメント部でか?」とダン。
「いや、あそこではシーズナルのバリアブルでは無理だ。ある程度経験がいる」パークでは時間給の社員をバリアブル、特に季節の休暇期間に募集された者をシーズナルと呼ぶのだ。
「だから飲食店か物販店になるだろう」
「それは残念だな。でも働いている間にぜひ聴きに来てくれ。奥さんもいつか」
「そうする」
「シンジも同じメンバーでやれたらいいな」とバーノンが言った。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「シンジはプロでやらないのか?」とダン。
「僕のレベルなど掃いて捨てるほど転がっている」
スティーブが口を挟んだ。
「おれたちのレベルだってどこにでもいるさ。そんなことは分かっている。おれはそれでいいと思っている。ずば抜けたレベルで世に名を残すようなミュージシャンだっている。そうなるに越したことはない。けれど、そうなることができないからといって、その道に進まないということでもない。おれはレベルを抜きに音楽をやっているのが幸せなんだ。音楽をやっているから幸せなんだ」
「そう思って、そうできる君が羨ましい。いや、本心でだ」と真二は言った。
「スティーブはかっこつけてやがる。決まったレストランで決まった曲を何度も何度もおれたちは繰り返し垂れ流しているだけだ、いつもはそう言ってるくせに」とダンが冷やかした。
「ダンは違うのか」スティーブが切り返した。
「さあ、どうだろうな。スティーブは独り身だからそう思える。おれは女房を家に置き、こうして転々と暮らしている。おれもシンジのように音楽以外の才能があればなと思う。そうすれば妻と別れて暮らさずにすむ」
「そんなに女房に逃げられるのが怖いのか。音楽以前の問題だ」とスティーブ。
「またそれを言うのか」と辟易してダンは言った。
「僕は今の仕事に才能があるわけじゃない。僕の今の仕事くらい誰でも出来る」と真二。
バーノンが言った。
「そうさ、スティーブの言うようにおれたちはただ幸せなんだろう。音楽をやっていることがな。後世に名を残すようなミュージシャンになれるのは、運を伴った天才の中の天才なんだろう。大抵の人間は取るに足らない。だから取るに足らない人間として納得のできる生き方をしたいだけなんだろう」
「バーノンに家族はいるのか?」と真二は聞いた。
「今は独り身だ」
「今は?」
「離婚した妻との間に娘がいる。娘は妻が育てている。というか再婚した相手と育てていると言ったほうが正確だ」
「じゃあ、あまり子供には会えないな」
「会えないな。顔も忘れてしまうくらいに」
「本当に?」
「うそだ。忘れられない」
「君は正直だ」
「正直だけがおれの取り柄だから。だからさっきも正直に言った。シンジは毎日娘の顔が見られていい」
「君も娘さんに会えたらいいな」と真二は言った。
「娘さんの名前は?」とバーノンが聞いた。
「彩だ」
「奥さんの名前は?」
「圭子だ」
「二人に会いたいものだ」
「会えるだろう」と真二は言った。
彼らはその日最後のセッションを聴いて帰って行った。
真二はウィスキーの入ったグラスに口をつけながら、リビングにある彩の電子ピアノを消音せずに弾いていた。彩が勉強しているときにピアノを弾きたくなったなら、サイレントにしてヘッドフォンで音を聴いた。ギターを弾くにも、大抵はヘッドフォンをしてサイレントギターを弾いた。
このときは彩も圭子も食後にリビングにいてくつろいでいたので、消音しなかった。
彩は今度の夏に、パークの飲食店で働くことになった。真二から『ロンバーズ』や『フィネガンズ』のレストランで演奏している『ランブル・ビート』のことを耳にして興味を抱き、彩は飲食店に希望を出すことにしたのだ。
真二は鍵盤を打つ手を休めて振り返り、どちらもテーブルレストランだから接客やメニューなど覚えることが多くシーズナルのバリアブルでは難しい、店の配属まで希望は通らないだろう、そう彩に言った。それで構わない、と彩は言った。
「ダディの働いているところは見られるかしら」と彩は言った。
「見られるでしょう。そうしたら私に教えてね」と圭子が言った。
「マミーは見たことはないの」
「ないわ」
「ダディと呼ぶのはよしてくれないか」と真二。
「どうして」と二人が言った。
「何だか恥ずかしいんだ」
「どうして。家の中だけよ」
「じゃあ、外で僕を見かけたらどう声を掛ける?」
「パパね」
「じゃあ、パークで僕を呼び出してもらうとき、パパをお願いします、って言うのか?」
「そうね」
「そういうときは、父をお願いします、って言うんだ」
「分かった」
「本当に分かったのか」
「そのくらいできるわ」
「いや、普段から注意してないと急にはでないものだ。僕には想像がつく。彩はきっと、私のダディをお願いします、そう言うだろう」
彩は急に不機嫌そうに真二を睨んだ。
真二はピアノを向いた。そして『時のたつまま』を弾き始めた。
メンバーの入れ替わった『ロックンロール・ショー』をチェックしたいんだ、そう言うマットに従って、真二はジャンパーを羽織ってウェストブロック二階にある事務所を出た。
「待っててください」と真二は言い残し、車を取りに行った。
車にマットを乗せ、パークのオフセットを半周し、パーク外に出た。リハーサルはパーク外のオフサイトビル内のスタジオで行われていたのだ。
「いい天気だ」と肘を窓につけて頬杖つくようにしてマットが呟いた。
「確かに」と真二はいつものように相槌を打つ。天気が悪い日であれば「畜生」と呟くマットに、真二はいつも何も応えないようにしている。
ゲートに到着し、マットからIDカードを受け取り自分の物と合わせて監視員に差し出す。ゲートを出て右に折れるとオフサイト・ビルはすぐだった。
ビルの二階にあるスタジオではリハーサルはすでに始まっていた。『ロックンロール・ショー』は三チームでライン・スケジュールが組まれており、その全員が集まっていた。約半数のシンガーが契約期間を終えて入れ替わっていた。
メイクを落として歌い、踊る彼らの誰が継続で誰が新規なのか、真二は判別ができなかった。ショー・クオリティ・チェックのために訪れているアメリカ人コリオグラファーは振り付けに没頭していて、マットがスタジオに入ってきたことに気付かなかった。
マットは後ろからリハを見つめているショー運営責任者の三村のところに近付いていった。
「新しいメンバーのレベルはどうだ?」とマットは聞いた。
「悪くないですよ」と三村は決まったように応える。 そうか、とマットは満足そうにリハに目を向けた。
マット自身もエンターテイナーのオーディション・ツアーに一部参加して審査に関わってきたのだ。ネガティブな意見は即座に彼を不機嫌にさせるに違いなかった。
ドラキュラやフランケンシュタインの花嫁役の多くをまた黒人が担うことになっているようだったが、キャラクターの面から如何なものか、そう物を言う者は真二を含めて誰もいなかった。ブロードウェイで踊る日本人が極端に少ないのは、言葉の問題を除けば日本人に合うキャラクターが少ないからだと聞く。だのにここではフランケンシュタインは黒人なのだ。
海外オーディションは、毎年秋口にアメリカとオーストラリアの主要都市で行っている。マットはアメリカのツアーに参加した。帰省を兼ね、無理にでもスケジュールを当てているが、陰口以外はやはり誰も何も言わない。来年はロンドンにもツアーを広げる予定だが、果たしてマットは参加するのだろうかと真二は思った。
リハを満足そうに見つめていたマットに、休憩を告げたコリオグラファーが丸めた紙を手にしてマットに近付いてきた。
「ハーイ」と彼はマットと真二に言った。
「グッド・ジョブ」とマット、「ハーイ」と真二は返した。
「ありがとう。でもまだこれからだと思う」とコリオグラファーは言った。
「問題あるのか」
「ない」彼らはいつでも問題ないと言う。そして最後まで自分の非を認めることはない。彼らの文化で非を認めることは、来年の契約が更新されないことに結びつくのだ。
マットはその返答に満足そうに頷いてリハに視線を戻した。コリオグラファーを連れてきたのもマットなのだ。連れてきたと言っても馴染みのプロダクションの紹介に過ぎないのだが、マットはすべてを自分の息のかかったメンバーで揃えることに意味を見いだしている。このパークでは自分がいないとショー製作は成り立たない、その構造を作るのに汲々としているように真二の目には映った。
けれどその比較する対象が存在しないにしても、プロデューサーとしてのマットは能力が高いことには違いなかった。
少なくともパークの雰囲気をいつも新鮮にするためにアトモス・ショー(大道で行う小型ショー)を毎年入れ替え、シーズナルイベントはその年毎に趣向を変えたものを導入し、メガ・ショーがオープンする年にはその立ち上げを整える。そのサイクルの中に翌年のパーク・コンセプトを睨んだプラン作りがオーバーラップする。加えて作り始めてみないと分からないクリエイティブ作業を、ショー・クオリティを保った上で予算内に収めないとならないのだ。多くは自分が引っ張ってきたベンダーに丸投げしてしまうにせよ、よくやっている、とは言えるのだろう・・・
コリオグラファーはマットの隣で同じようにリハに目を向けたまま言った。
「一つだけ認めてほしい。一チームのフラケンシュタインとドラキュラを入れ替えたい」
彼は手に丸めていた紙を広げた。並んでいるキャラクターとメンバーの名前を指さして見せた。
「どうしてだ」とマットが聞いた。
「フランケンシュタインには彼の声質の方が合う。一方のこの男の踊りはよりシャープでドラキュラの方が向いている」
コリオグラファーはオーディションにも参加して、キャラクター別にキャストを自分で決めたはずだが、こういうことは起こり得る。より良いショーにするために努力するのはクリエイターとしては当然のことだ。オーディションで採用を決めたメンバーの中には、直前になって辞退する者がいくらか出ることもある。渡航までに別の仕事が見つかって抜けられなくなった者、日本くんだりまで出稼ぎに行きたくなくなった者・・・そういう辞退者を見込んで確保してあった補欠者の中から再選してオファーする。自然、キャラクターの入れ替えも起こり得る。
「ミムラは見たのか?どう思う?」
マットは三村を向いた。マットは大抵こういう際に三村に意見を聞くのだ。
三村は心得ているので、やはりそれで問題ないと答えた。マットが三村に聞くのは、マットが自分の部下の三村を信頼していることをコリオグラファーに見せておくことを意図しているのだ。こうしておくことでコリオグラファーは三村に一目置くことになり、三村は仕事がしやすくなる。
一方で三村は大抵は肯定的に答えることで、今度はコリオグラファーの仕事を全幅に信頼していると見せることができる。
「良く観ておいて。これから通しで踊らせるから」とコリオグラファー。
このコリオグラファーの物腰に、彼はゲイだろうと真二は改めて思った。
先日『ロックンロール・ショー』のグリーンルームに入っていったときのことを真二は思い出した。彼らは男も女も平気で裸になって着替えていた。男は全員がゲイだったのだ。
しばらくリハーサルを眺めたあと、じゃあ行こう、とマットが言ってビルのスタジオを出た。
「シンジ、リハーサルどうだった?」とマットは聞いた。マットは少なくとも結婚して子供もいる、ストレートだった。
「順調に見えましたね」
「ルーチンのショーだから新鮮味を加えていかないといけない。そうコリオグラファーには注文をつけてるんだが」
「人気のショーですからね」
「クオリティには達しているし、いじりにくいんだよな。けれどアトラクションと違ってショーは生き物だ。生きたエンターテイナーがするものだ。アトラクションは変わってなくてもリピーターのゲストは満足する。ショーはそうはいかない。変わってなければ、なんだ、とゲストは思う」
「マイナー・チェンジですね」
「そうだ。マイナー・チェンジでいい。けれどうまくいっているショーだからコリオグラファーも手を入れるのに悩む」
「僕がやりましょうか」と真二は言った。
マットは足を止め、驚いた顔で真二を見た。
「冗談ですよ」
「本気かと思った。そういうバック・グラウンドがあるのかと。シンジがあれだけ音楽ができるとも知らなかったからな」
「冗談です。ミュージカルの何も知りません」
そのとき、ジャズの調べが耳に届いてきた。曲は『ワルツ・フォー・デビー』だった。『ランブル・ビート』が練習しているのだと分かった。彼らの契約期間中、アップライトピアノ、ドラム、ウッドベースをレンタルしてオフサイト・ビルの小さな一室に運び込み、音楽専用のリハーサルルームに仕立ててあるのだ。
マットは部屋のドアを指さした。
「彼らの演奏はどうだ」
「悪くないですね」
マットはやはり満足そうな顔をした。メガ・ショーでないアトモスショーのメンバーは、オーディション・ツアーを通じて採用したものではない。とは言えアメリカやオーストラリアのプロダクションが紹介する中から、マット自身がピックアップしたものなのだ。
「寄って行こう」
マットに続いて部屋に入った。三人が気付いて笑顔をマットと真二に向け、演奏を止めそうになった。
気にせず続けてくれ、とマットがジェスチャーした。二人で立ったまま、演奏に耳を傾けた。マットは腕組みした片手を頬に持っていき、片足でリズムを取っていた。マットはミュージシャンの演奏を聞く時、椅子に座っていたならば決まって自分の膝をドラム代わりに両手で叩く。前に机があったなら、机をドラム代わりにする。マットは自分が音楽を解すると示したいのだが、今は足でリズムを取るしかないのだ。
演奏を終え、マットは大きな音でゆっくりと拍手した。
「とても良かった」とマット。
三人は笑顔を返した。
「曲調を変えたものも演奏してみたいんですが」とダン。
「『ロンバーズ』の演奏に合っている曲なのか?」
「もちろん」とダンは応えた。
「曲名は?」
「たとえば『フィール・ライク・メイキン・ラブ』」
マットはフーンと唸り、真二を向いた。
「向いていると思うか?」
「本来はギター向きかもしれませんが、彼らが良いと言うのなら大丈夫じゃないですか。アレンジの仕方次第なのでしょうね」
「チェックしてくれるか?」
「僕が?三村に言うべきじゃないですか」
「そうだな。そうしよう」
「日本の曲もやってみたい」とバーノンが言った。
「曲名は?」
「たとえば『卒業写真』とか」
「知ってるか?」またマットは真二を向いた。
「イエス」
「レストランに向いているか?」
「アレンジ次第ですけどきっといいでしょう」とやはり真二は応え、
「今度はピアノ向きかもしれませんね」と付け加えた。
「じゃあ、ミムラと相談して決めてくれ。ライセンスはむろんチェックした上でだ」
僕がですか、そう思いながら真二は頷いた。
部屋を出る間際にバーノンが真二に話しかけてきた。
「娘さんはもうパークで働き始めてるのか?」
「まだだ。来週から飲食店で働き始める」
「『ロンバーズ』じゃないのか?」
「恐らく違う」
「残念だ」
「君たちの演奏を聞きにいかせるよ」
「ああ、ぜひ」
部屋を出てマットが聞いた。
「娘さんパークで働くのか?」
「イエス」
「おれにも会わせてくれ」
「イエス」と真二は応え、
「お子さんは今度はいつ日本に来られるんですか?」と逆に聞いた。
「二カ月後かな」
「会わせてください」
「ああ」とマットは言った。二人で階段を降り、オフサイト・ビルを出た。
学校が夏休みに入り、彩は『メルズ・ドライブイン』で働き始めた。彩は学校の部活には何も入っていなかった。ピアノだけは小学校に入る前からずっと習わせていたが、将来はジャズピアノをやりたいと家でも時間があればピアノに向かうようになっていた。そしてパークから帰ってきても、やはりリビングにあるピアノに向かっていた。
真二は彩と横に並び、ヘッドフォンをしてそれぞれでギターとピアノを弾いた。ときにはヘッドフォンを外して二人で一緒にピアノに向かった。真二はピアノの上に置いたスコッチの水割りに口をつけながら、ダディはお酒臭いわ、そう彩は言いながらピアノを弾いた。いつまで続くかしら、と圭子は言った。圭子は大抵、二人の後ろで仕事の英文のコピーを読んだりノートパソコンに訳文を打ち込んでいたが、ときにはソファにゆったりと背をつけ、ファッション雑誌に目を落としていた。
圭子は本町にある翻訳専門の会社に通っていた。結婚前は真二と同じイベント会社で堪能な英語を生かしていたが、大阪に来てからは主に製薬会社から舞い込む翻訳依頼に携わっていた。
真二には、彩がピアノに夢中になることに圭子は関心を抱いていないように見えた。世の親が女の子供にピアノを与えるのを常識と捉えている程度に、ピアノは大切と考えている風だった。
夕食後だった。ギターを弾いていた彩に頼まれ、真二は横に座ってピアノを教えていた。少し休憩しようと言って、真二はピアノの隣のテーブルに置いたスコッチの水割りに手を伸ばした。
後ろで紅茶を飲みながら雑誌を見ていた圭子が顔を上げて言った。
「イチローや横峯さくらの親みたいね」
「それほどスパルタじゃない。それに野球やゴルフとは違うだろうな」
「どう違うの?」と圭子が聞いた。
「ジャズをやって名声や金を得ることはできない。本人が好きでやるかどうかだけだ」
「それはそれでまた夢がないわね」
「私はそんな夢はいらないわ」と彩が口を挟んだ。
「いや、そういう夢も必要なんだ」と真二は言った。
「ダディの肩を持ってあげたのに何よ」
「そうよ。あなたは彩にどうなって欲しいの?」今度は圭子が言った。
「そうだな、幸せになってもらいたい」真二はスコッチを飲んだ。
「そんなの私も一緒。彩の前でそんな無責任な言い方はよしてね」
「幸せにもいろんな種類があるんだ。彩には彩が幸せと思える人生を送って欲しい。そして一方で、大抵の人間は声には出さなくても名声や金が欲しい。声に出さないのは欲しくないのではなくて手が届くかどうか分からないからだ」
「ダディはどうなの?名声とお金」
「それは欲しい。けれど大半の人と同じようにこれ以上は手が届かない」
「ダディは今、それで幸せなの?幸せな生き方をしているの?」
「幸せだ」
「ダディは本当は音楽だけをやっていたいんじゃないの?」
「生きて行くためには金がいる。だから音楽だけでやれる人はそうする。僕にはそれができないし、今の仕事にも生きがいを見つけている」
そうなの、と彩はつぶやいた。
「けれど、本当に才能を持った人間など世の中にほんの一握りだ。音楽の世界だって同じ。多くの凡人のなかにきらりと光る人がいる。そのきらりと光る人になる必要もない。凡人としてでもその世界だけで生きることができれば、それはそれで幸せなんだろうとも思う」
「彩は今の私たちの生活は裕福だと思う?」圭子が割って入った。
「中の中でしょ。いつもマミーが言ってるように」
「中の中でやっていくことが難しいのよ。彩は今の生活が普通で自分の人生にこれ以下の生活は訪れないと思ってる。けれど上には上があるのと同じように、下には下があるの」
「マミーはどうなの。それでいいの?」
「いいの」
「そう、つまらない。お風呂に入って寝るわ」彩はリビングを出た。
彩の背を見送った後、「夢の無いことを言う」と真二は圭子に言った。
「そもそもあなたがジャズじゃお金も名声も得れないと言うからよ」
「事実だから。音楽はジャズだけじゃないし。けれどどの世界も多くの凡人で成り立っているんだとも言った」
「何かどっちつかずでぐらぐら揺れてる感じよ」
「そうか?」
「あなたはどうしてピアノを彩に教えてるの?」
「親子でデュオをするためだ」
「またはぐらかす。少なくとも彩にはぐらぐら揺れて映る。親がぐらぐら揺れてると子供はどうしたらいいか分からないわ」
「無責任か?」
「そう」
「君がきちんと教育してくれているから大丈夫だ。彩は一般の大学に行っても、芸大や音大に行ってもいい。専門学校でもいい。彼女が生き方を選べる下地だけ作っておいてやりたい」
「理解のある父親を演じることと無責任は紙一重よ」
いつも圭子は同じことを言う。そして耳が痛い。
「そんな僕と君は一緒になってしまった。そして彩をこの世に誕生させてしまった」
「彩を誕生させてしまったことはもうどうしようもないけど、一緒になったことを解消することはできるわよ」
また同じことを言う。
「とにかくあなたがどこで仕事をしているのか見せられるのはいいわ。親は自分の生き方をきちんと見せてあげるのが一番よ」
「僕の仕事そのものを見せる場があるかどうかは分からないさ」
「それでもいい。イメージが沸くもの」
「見せられたとしても、僕が本当に生きがいを感じてやっているように彩の目に映るかどうかは分からない」
「あなたが本当に生きがいを感じていれば、きっとそう見えるはずよ」と圭子は言った。
真二はウェストブロックの事務所を出た。丁度『メルズ』の前でオールディーズを踊るアトモスのメンバーが、ハリウッド・ブルーバードに通ずる扉が開くのを待っているところだった。彼らはピンクのオープンのキャデラックに身体を乗り出すようにし、明るい色合いの開いたスカートをキャデラックのドアに被せるようにして真二に手を振った。一人のポニーテールが風に揺れていた。
真二も軽く手を上げた。扉の脇を通って彼らより先にオンセットに出た。照りつける太陽が瞬時に真二の顔を焼き、思わず顔を伏せれば今度は焼かれたアスファルトから立ちのぼる熱気で咽せそうになった。破壊的な夏の暑さだった。
真二は『メルズ』の前を通り過ぎた。メルズの奥では彩が働いているはずだったが見えなかった。『パークサイド・グリル』を右に折れた。
『アミティ・アイス』の前を通りかかった。吊り下げられた『ジョーズ』の前で写真を撮るための列と同じように、アイスを買うための盛況の列ができていた。その奥のベンチで少女がアイスクリームを食べていた。
こんな日は彩と一緒に歩いていれば一緒にアイスを食べるところだろうかと白日夢のように想った。もう高校生になった彩は自分と二人で歩くことを厭うだろう。そして圭子と二人ならきっとアイスを食べるだろうと。
視線を上げた真二の目に、少女の母親らしい女性が映った。女性は少女を上から覆うようにして語りかけ、髪が横顔を見えなくしていた。ありふれた、自分もかつて経験した幸せそうな親子連れだった。
透かし柄のニットのカーディガンを羽織った女性は、カーキブラウンのキュロットパンツに皮のサンダルを履いていた。正面を向いた女性に視線を定め、真二は立ち尽くしていた。真二は思わず足を止めていた。真二の脇を幾人もゲストが通り過ぎて行った。強い視線に気付いた女性も、真二をじっと見つめ返していた。
真二はベンチに近付いて行った。
「やあ」と真二は言った。
美里は立ち上がり、「久しぶり」と言った。
二人でしばらく立っていた。
「こんなところで会うとは思わなかった」と真二は言った。
「私も」と美里が応えた。
アイスクリームを持ったまま立ち上がった少女が、美里の袖を引いた。
「君の娘さん?」
「そう」美里は少女に目を落とした。
「可愛いね」
「そうでしょ」
「君に似てる」
「そう?」
真二が笑みを向けると少女は美里の後ろに隠れるようにした。
「友達の子供なの」と美里は言った。
「・・・そうか」
少女はカーテンの裾のように美里に纏わりついていた。
「こちらに住んでる友達と来てるの」
「その友達は?」
「今お手洗いに行ってるわ」
「ここの女子トイレはよく混んでるから」
「そう。何とかしてって言っといて」
「ああ、言っておくよ」
「冗談よ」
「僕がその友達に会ったことはあるのか?」
「あるわ」
「そうか」
「うそよ。ないわ」
「そうか」
「困ったような顔ね」
「そんなことはない。困るようなことは何もないさ」
少女は美里の身体を離れ、またベンチに座ってアイスクリームを食べ始めた。
「ギターは弾いてる?」と美里は言った。
「ああ・・・趣味でね」
「結婚してるのね?」
美里は真二の左手薬指の指輪を見ていた。
「子供さんはいるの?」
「娘が一人ね」
「何歳?」
「一六だ」
「そんなに大きいんだ」
美里は焦点の定まらない、遠くを見るような目をした。
「君は?つまり結婚は?」
「どう見える?」
美里の薬指に指輪はなかった。
「分からない。でも君は変わっていないね」
美里はふっと笑った。
「よく言うわ。もうおばちゃんよ。世間の誰もが認めるように」
「そんなことはないさ。少なくとも三〇代には見える」
「あなたも変わらないわ」
「いや、僕はあちこち白髪だ」
「私も染めてるのよ」
「そうか」
「そして私は出戻りなの」
美里は真二の目を見たが、真二は視線を外した。
「あなたはここで働いてるのね?」
「そうだ。エンターテイメント部」
「音楽するの?」
「音楽をする人を含めたエンターテイナーのバックアップ。つまり裏方だ」
コスト管理だとは言わなかった。
「偉いの?」
「僕が偉く見えるか?」
「分からないわ」
「偉くないだろうな」
「友達が帰ってきたわ」美里は目の焦点を真二から外していた。
じゃあ、と真二は美里に言い、振り返って美里の友達に会釈してその場を離れた。
誰なの?と美里の友達の声を背中で聞いた。
ゲストの往来の中を歩いた。美里の顔が真二の頭にこびりついて離れなかった。風化して粉々に砕け、砂になっていたはずの記憶の底のものが、形を伴ってもたげてきた。
後ろから誰かに声を掛けられていることに気付かなかった。
「どうしたんですか。ぼうっとして。さっき話されていた人は知り合いですか?」
啓太だった。
「ああ。昔のね」
「奥さんかと最初思いましたけど、小さな子供を連れてたでしょ。真二さんの子供さんは高校生でしたものね」
頷く真二に、「曰くありそうですね」と啓太は言った。
「何もないさ」
「それはそうと、娘さんに会わせてくださいよ。『メルズ』で働いてるんでしょ」
「そのうち会えるさ」
「本当に会わせてくださいよ。真二さんをお父さんと呼ぶことにはならないと思いますから。いや、呼ぶことになったとしてもそのときは実の親のように大切にしますから」
「娘を幾つだと思ってる?」
「愛に年齢は関係ありません。僕は気にしませんから」
「君が気にしなくても彩が気にする」
「そうはっきり言われると勇気が沸いてきました。やっぱり真二さんは人をモチベートするのがうまい」
真二は苦笑した。美里に自分は偉くないと言ったが、その言葉通りに自分に威厳はないと確信できた。
美里と顔を合わさなくなってどれほど経つかを考えた。あのときから三年後に彩が生まれたことを考えると、彩の年齢に三年を足せばいい。一九年になる・・・
真二が美里と出会ったのは二〇歳のころだった。真二がギターを弾いていた新宿のジャズクラブに、美里はゲストの一人としてよく聴きにきていた。OL風の落ち着いた出で立ちで、時には友人らしき女性と二人で、時には一人で来ていた。
挨拶程度で始まり、そのうちメンバーは演奏の合間に彼女の席の回りに腰掛け、一言二言を交わすようになった。よくあることだった。
美里は大手町にある企業の受付をしていると言った。美里と一緒に来ている友人もその仲間だった。
「花形だね」と誰かが言った。
「何も出来ない人がする仕事よ」と美里は言った。
「俺たちは音楽しかできないんだ」と誰かが応えた。
「いえ、あなたたちには自分の世界がある」
「自分の人生はあっても自分の世界はまだないんだ」と和喜が言った。
「かっこいいね」と美里の友人が言った。
「どの楽器が好きなの?」と真二は二人に聞いた。
「ピアノ」と美里は応えた。
ピアニストの和喜は嬉しそうな笑顔を見せた。メンバーの中で和喜と真二は年齢が近かった。ベースとドラムは二人と一回り違った。けれどみんな揃って独身だった。
有名なピアニストだったら誰が好きなのか。実際の演奏を聞いたことがあるのかと和喜は美里に聞いた。
楽しそうにピアニストの名前を挙げていく美里の横顔を見てるうち、真二も何だか楽しくなった。それはよくあることではなかった。メンバーの輪の中心に入った美里は、キャンドルのように自らが明かりを放っているように真二には見えた。
美里の前に、メンバーがそれぞれ繰り出してみせる話題は目まぐるしく変わった。ピアノを好きだという美里は、やはり和喜に興味を持っているそぶりだった。順番が巡ってきて、真二はアメリカで生活していたことを口にした。
「留学してたの?」もちろん音楽を勉強していたものと思い込み、美里は興味深げに聞いてきた。
「高校を出たあと、ニューヨークに行ったんだ。日本食レストランでアルバイトをして、語学学校に通った。ほとんど金は余らなかった。少し余ったお金はすべてジャズクラブに使った」
「ジャズクラブではギターを弾いていなかったの?」
「弾けやしない。高校でちょっとギターをいじっただけの素人ができるレベルじゃないんだ」
「ヴィレッジ・バンガード?ブルー・ノート?」
「それにヴィレッジ・ゲート、スイート・ベイジル。どれもこれもそうそうたるミュージシャンが集っていた」
「どのくらいいたの?」
「一年くらい」
「英語は喋れるようになったの?」
「簡単なものならば。そしてレストランの厨房で飛び交うものならば」
クラブでのメンバーを交えた美里との会話は、レストランやバーでの二人きりのものに変わっていった。これまでこういうことはよくあった。つまりクラブに客で来ていた女性と特別懇意になるということは。けれど美里は和喜と近しくなることだろうと真二は当初思っていた。
その日は演奏の前に落ち合った。美里のおごりで、回転ずしとビールだった。食事をしてから別れ、美里は客としてクラブに入ることになっていた。
カウンターに並んで座り、ビールに口をつけ、中とろと卵といくらの皿を取った。それぞれ一貫づつを二人で食べた。
「キャバレーの同伴出勤みたいだね」と美里が言った。
「違うね」
「どこが違うの?」
「普通はホステスさんがおごられる。ちゃんとしたすし屋に入る」
美里が笑った。
「けれど僕たちはキャバレーの客層に比べて若い。だから齢相応のものを食べる」
「その齢になればあなたがおごってくれて、ちゃんとしたおすし屋に入れるのかしら?」
「さあ、どうだろう。そういう相手がいいか?」
「さあ、どうでしょう」
「僕はどうなっていくんだろう。僕には才能があるんだろうか」まぐろの新鮮な赤さが目の前を通り過ぎていった。
「素人の私に聞くの?」
「プロなら誰だって演奏は上手だ。それは日本人が箸を使えるのが当然のようなものだ。けれど非凡かどうかは、クリエイティビティなんだと思う。それが僕にあるのか」
「どのプロの世界でも、ほんの一握りの非凡な人と、大半の凡人で成り立っているものでしょ」
「そうなんだろう。だけど凡人の方だとちゃんとしたすし屋には入れないかもしれない」
「ちゃんとしたすし屋に入れなくてもいいんじゃない」
「そう言ってくれると安心する」
「私は離れていくかもしれないけど」
「何だよ、それは」と真二はうなぎの皿を取って、一貫を口に放り込んだ。
「大丈夫。あなたには才能がある。私には分かる」と美里はもう一つのうなぎに箸を伸ばして口に運んだ。
「そう言ってくれても安心する」と真二はビールを飲んだ。
「アメリカから帰って来てすぐにクラブで弾き始めたの?」と美里は聞いた。
「グランドキャバレーにバンドマンとして入った」
「ジャズ?」
真二は喋る前に自分で笑った。
「毎日入れ替わりのショータイムがあって、どさ回りの歌手が訪れる。名前を知ってるような人はいない。殆どは演歌だ。まれにシャンソン、そしてほんのまれに軍歌」
「軍歌?うそでしょ」
「白い詰め襟の軍服、腰にはサーベルだ」
「うそ?」
「本当だ。キャバレーは舞台を囲むように客席が並んでいる。ちょうど古代ローマの半円形の劇場をなだらかにしたように。ステージの前には広めにフロアーを取ってある。客席から手をつないで降りて来たホステスと客がジルバを踊るためだ。ショータイムになると演奏する僕たちの立っているステージの下からもう一つのステージがそのフロアーに迫り出す。べろが出てくるようにだ。照明が落ちたそのステージに歌手が現れる。歌手はスポットライトに包まれる」
「だけど演歌かシャンソンか軍歌なのね」
「そうさ」
「だから辞めたの?」
「確かにバンドマンのメンバーは取っつきにくかったね。年齢も離れていたし」
「だから?」
「彼らが僕に言ったんだ。ここでいつまでもこうして演奏してちゃだめだ、そう言って背を押してくれた」
「じゃあいい人たちね」
新大久保にある真二のアパートの部屋を美里が訪れてくるようになった。それはこれまでにはないことだった。真二がクラブで出会った女性の部屋に転がり込むことはあっても、自分のみすぼらしい部屋にあげることはなかったのだ。もっとも美里は両親、妹と四人で暮らしていたから、真二が美里の家に転がり込むことはできなかった。
一方で真二は内心、美里は和喜とも付き合っているかもしれないと勘ぐっていた。これまでもそういうことがあったのだ。けれど和喜にそれを確かめることはしなかった。それでいいと思っていた。いつもと同じように、時間の経過と共に、和喜にとっても自分にとっても泡のように消え入ってしまう記憶になるはずだと思っていた。
古びた二階建ての木造で、外壁はモルタル作りの安アパートだった。玄関で各自はスリッパに履き替える必要があった。真っすぐに伸びる廊下の左右に部屋が並んでおり、真二の部屋はその右奥の畳部屋だった。トイレは共同、風呂なしだった。窓は一応南を向いてはいたが、擦り合うように建っている隣のアパートのために陽は射し込まず、窓を開けると視界に入ってくるのは手をつける近さのブロック塀だった。
その湿った部屋で、美里の実父はジャズピアニストだったと聞いた。美里の話はことさら甘い感傷に塗されて聞こえたが、努めて同情を寄せる表情を真二は返した。
実父が出て行ったのは美里が物心つく頃だったという。好きなピアノを弾いてさえいればいい人で、母親がパートに出ることで何とか家計は成り立っていた。いつも部屋にはジャズが流れていて、時折彼はレコードを買ってきて、そのたび流れる曲は変わっていった。
けれど口喧嘩の耐えない日はなかったのだ。軽快なメロディーに怒号はそぐわなかった。その日常だった不釣合いがある日ぷつりと途絶えた。母はレコードの一つを取り上げて父親に投げ付け、父親は家を出て行ったのだ。
真二は壁に背をつけて胡坐をかき、アンプに繋がれていないエレキギターをつま弾いていた。壁の薄いこのアパートでは仕方なかった。
「母は再婚した。私はその義理の父親と母に育てられたの」窓のある壁の前で、美里は立てた両膝を抱えるようにして座っていた。
「新しいお父さんはどんな人?」真二はギターから目を離さずに聞いた。
「いい人。きちんと家に帰ってくる人。給料を毎月きちんと家に持って帰る人。そして母を捨てない人」
「そう。良かった」
「やがて私には妹ができたわ。母はそれで落ち着いた」
「それまでは?」
「そうね。家から音楽が無くなっていた。ピアノをひどく嫌っていた。ピアノだけでなくジャズだけでなく音楽すべてを毛嫌いしているようだった」
「音楽は戻って来た?」
「音楽をかけることくらいはね」
「君のママは器量がいいに違いない」
「どうして分かるの?」
「君が生まれた。そしてこぶ付きですぐにいい人と結婚できた」
「すぐにじゃないわ。四年後よ。音の無い四年」
「だけど今から思い返せばそんなに長くなかったかもしれない」
「どうしてあなたがそう言えるの」
「じゃあ長かった?」
「長いわ。だから私に音楽が戻ってきたのに楽器は何もできない」
「それは残念だ。ところでお母さんのことを君はどう呼んでるんだ?」
「なぜ?なぜそんなことを聞くの?」
「ただ気になった」
「ママよ」
「ママか・・・良かった」
「どうして?」
「なんとなく」
「馬鹿みたい」
「君の本当のお父さんは今どこにいるんだ?」
「大阪らしいわ」
「大阪でピアノを弾いているのか?」
「多分ね」
「会っていない?」
「あれから全く会っていないわ」
「そう・・・君のお母さんは僕を毛嫌いするだろうね」と何気なく真二は言った。
美里は何も応えなかった。
二年を経て突然美里は真二を離れていった。
その日、陽の射さない部屋で静かにギターをつまびき、美里がそろそろ帰ると言うと真二は洗面器を抱えて一緒にアパートを出た。駅方面に伸びる道に差しかかったところで、真二は銭湯に向かうため美里と別れた。
「こんな寒い日に美里も一緒に銭湯に行けば、まさに『神田川』の世界だ」
「家にお風呂がなければそうするけれど」と美里は言った。
真二は何だか幸せだった。幸せごっこをしている自分が幸せだった。そして真二がそうであるように、美里は幸せなものと思っていた。
それ以来、美里とは連絡がつかなくなった。これまで美里は母親に真二がジャズミュージシャンだと知らせてはいなかった。だから電話口に美里の母親が出るたび、真二はサラリーマンになったつもりで喋ったものだった。美里から音沙汰が無くなってから掛けた電話には、母親は険を含んだ丁重さで、美里はいないと言った。言付けを頼んでおいたが、美里から連絡が入ることはなかった。それでも以前聞いていた職場にまで電話を入れたのは、それがこれまで関係した女性たちと同じように、単に必要なプロセスだったからだ。
美里は取引先からの電話を装う応対をした。そして折り返し電話すると言った。アパートに電話してくれと真二は頼んだ。美里の声は慇懃で冷たかった。受話器を置いた美里の姿が目に浮かんだ。その夜、美里は電話してきた。理由を幾度か聞いたのは、美里の返答の如何に関わらず、ただ聞くというプロセスが必要だったのだ。
他に好きな人がいるの、と美里は言った。相手を聞いた。和喜かと聞いた。美里は応えた。どうして?違うわ、聞いてもあなたの知らない人、会社の人よ・・・
さらに追求し、君の働く受付まで行く、と真二は告げた。美里は答えた。あなたが空しくなるだけだからやめて・・・真二は自分が熱くなっているのではないことが分かっていた。
結婚するのか、と真二は聞いた。そのつもり、と美里は時間を置いて応えた。真二はようやく受話器を置いた。
真二はしばらく自分のこれまでの鈍感さに呆然とする日々を過ごしてみた。美里の相手のことを想像し、その相手が本当は自分が知る人間ではないかと疑心暗鬼になってみた。次に、なぜ美里は自分を離れてその男を選んだかを考えた。ターニングポイントはどこか、いつなのか、記憶を何度も辿ってみた。そして、美里は好きな相手が出来たから自分から離れていったのではない、その結論に帰着しては、打ち消してもみた。
真二は毎日クラブで演奏することを辞めた。音楽イベント会社に就職してみたのだ。英語が喋れることと音楽への造詣が合格の理由だった。その会社で同僚となった圭子と付き合い始めてみた。真二は週に一度だけ、日曜日に以前のジャズクラブでギターを弾くようになった。ノーギャラだった。ノーギャラでいいと真二はクラブのオーナーに頼んだのだ。圭子はよく聞きにくるようになった。圭子はジャズに詳しくはなかった。しみったれた打ち明け話もなかった。
以前のメンバーのうち、和喜だけはクラブに残っていた。気をきかせた和喜はクラブに置いてある写真アルバムを取り出してきて、圭子に渡した。クラブで演奏したミュージシャンが撮り貯めてあった。演奏中のシーン、演奏後にファンと一緒に撮った写真がふんだんにあった。
「あなたたちの写真はどこ?」
「探してみて」
そう和喜は言い残し、二人でステージに向かった。
演奏を終え、真二が和喜と圭子のところに戻ったとき、圭子はテーブルにアルバムを広げたままだった。
そのページには真二の以前のメンバーの演奏シーン、演奏後に客と一緒に撮った写真が押し花のように残っていた。
覗き込む真二の目に、美里の姿が飛び込んできた。どうしてだか胸が締め付けられるようになった。何枚かに美里がメンバーに囲まれて微笑む姿があった。
「これは誰?」と圭子が指をさして聞いた。
「僕らのメンバーのファンだった」と真二は写真に目を落としたまま言った。
「随分と親しそう」と圭子は写真を見つめたまま言った。
「ここにも、ここにも出てくるわ」
「特に僕の親しい人だった」横から和喜が分け入って続けた。
「ピアノの好きな人だった。だからいつも僕のピアノを聞きに来てくれた」
「そう。それだけ?」圭子は急に笑顔を向けた。
「さあ、どうだろうね」和喜は応えた。
「今は来ないの?・・・いえ、ごめんなさい」
「いまは来ない。よくあることさ」
「そう」圭子はアルバムを閉じた。
その日以来、圭子はクラブに来ようとはしなくなった。それまでのように真二のギターを聴こうとしなくなった。けれど圭子が真二に興味がなくなったわけではないようだった。圭子は真二と結婚して、やがて彩を生んだのだから。
美里に最初に出会った齢から倍の時間を経て再会することは、記憶に覆いかぶさっていたベールの上の埃と砂を払ってみるような作業だった。
ところがベールの下の記憶はきれぎれに、通勤途中の電車や車の中で蘇ってきた。吊り革に捕まり車窓からの朝の景色に目を向けているときに、夜の車窓に映る自分の姿に何ともなしに目を向けているときに。あるいはハンドルを握って信号を待っているときに、夜に前を走る車のバックライトを見つめているときに。
けれど色彩を伴い始めた記憶を追うのは、美術館のショーケースの中を見て回るようなものでもあった。巧妙に施されたライティングは、当時の記憶に人工的な輝きを与えてはいたが、手に取って愛でることはできないものだった。久しい時を経て訪ねた懐かしい街が、激しく移り変わっているのを目にしなくて済むように、思い出は思い出のままそっと留めておくにしくはなかった。だからその必要はないのかもしれなかったが、真二はもう一度ベールをきちんと被せることにした。そうすることは容易だと分かっていた。そして確実に、記憶は胸の奥に押し戻されつつあった。
夕食を兼ねて彩と『ランブル・ビート』を聴きにいった。圭子も誘ったが来なかった。真二も彩も仕事の後に寄ることになっていた。夕食のためだけにパークに入るんじゃつまらない、父親と娘、水入らずで楽しんできて、と圭子は言った。
真二は『ロンバーズ』の前で六時に彩と待ち合わせした。盆は過ぎた平日だったが、まだパークの混雑は落ち着いていなかったので席の予約をしておいた。駆け寄ってくる彩が見えた。夏の西日はまだ我慢強くカリフォルニアの町並みに留まっていた。
店に入ると、顔見知りのマネージャーが席に案内してくれた。黒のタキシードに蝶ネクタイをしていた。
「娘なんだ」と彼に告げた。
「誰も援助交際だなんて思ってませんよ」それから彼は彩を向いて、
「いらっしゃい、お嬢さん」と言った。
「こんにちは。いつも父がお世話になってます」と彩が言った。
ラグーンに面した席だった。ステージからほどよく離れていた。
「ここでいいですか?」とマネージャーが聞いた。
「ありがとう」と真二は言って椅子に座った。彩がマネージャーが引いた向かいの椅子に腰を下ろすのを見た。
「やがて外も暗くなってきます。対岸の明かりがとてもきれいですよ」
「そんなにロマンチックでなくていいんだ。援交じゃないから」
マネージャーは笑顔で、
「メニューはお電話でお聞きしたコースでいいですね」
真二は頷き、グラスワインを頼んだ。彩もワインを飲むと言ったが、だめだと真二は妨げた。じゃあ、オレンジジュースをくださいと彩は言った。マネージャーは笑い、ごゆっくり、と席を離れた。
「ワインくらいいいじゃない」と彩が言った。
「彩はいくつだ」
「年齢に関係なく飲む人は飲むわ」
「僕の前では飲まないでくれ」
「ダディの前でなければいいの?」
「ママの前でもやめてくれ」
「親の前でなければいいの?」
「そうだ」
彩は呆れた顔をして窓の外に目を向けた。ウッドデッキの下にラグーンが覗いている。
「いい席ね」大人ぶって彩は言った。
「カリフォルニアの海岸の夕べは本当にこんな感じなの?」
「行ったことはないんだ。東だけだ」
「そうだっけ」
「そうだ」
「『メルズ』が見えるね。ネオンが灯ったらきれいだろうね。援交ってさっき言ってたけど、ダディたちはいつもそんなことばっかり言ってるんだ」
真二は苦笑した。
「父親と二人で食事する。彩の年頃の女の子なら、父親と一緒に行動さえしたがらないだろう?」
「そうなの?」
「それは彩が一番知っているだろう」
「そうかもね」
ワインとジュース、オードブルが運ばれてきた。マネージャーがメニューを説明したが分からなかった。二人で乾杯をして、ナイフとフォークを手にして食べ始めた。
「どうして彩はそうじゃないんだ」
「そうじゃない方がいい?」
「不思議なだけだ」
「私は結局ダディが心配なのよ。見ていないとどこに行ってしまうか分からない。マミーの代わりに見張ってるの」
真二はまじまじと彩を見た。彩はフォークを持ったまま窓外にまた目を向けた。そんな風に彩が自分を見ているとは知らなかった。
「世の父親でこれほど安心して見ていられる者はそういない」
「そうかな」
「僕はそんなに信用がないか」
「信用がないとかそんなんじゃない」
「じゃあ何だ」
「どこか無理してそう。いつか糸の切れた凧のようにいなくなってしまいそう」
「ママがそう言ってるのか?」
「言ってないわ」
「彩はどうしてそんなにいい娘なんだ。彩くらいの年齢なら、親に反抗するのはもちろん、グレている方が普通かもしれないぞ」
「そうして欲しい?」
「いや、不思議なんだ」
「私だって影で何をしているかしれないもん」
「そうなのか?」
「さあ、どうかな」
真二が続けて何かを言いかけたところにスープが運ばれてきた。
カボチャのスープを一口啜って、おいしいと彩は言った。大人ぶっていた。
「このあと何が出てくるの?」
「内緒だ」
「知らないんだ」
真二は笑った。
「ご名答。シェフのお薦めコース。魚料理、そして肉料理と続く。でも何かは知らない。聞いてもおそらく分からない」
「ダディは正直ね」
「でもきっとおいしい。この店のシェフは元々ヒルトンで腕を振るっていたんだ」
「そうなんだ。そんな人がパークで働いてるのね」
「彩もパークで働いてみて分かるだろう。こうしてゲストにサーブするのが好きな人種の集合体だ。僕らエンターテイメント部はその最たるものだ」
「ダディもそうなの」
「ああ、舞台に出る人を影で世話する裏方だけどな」
そのときに『ランブル・ビート』のメンバーがステージに現れた。
「ダディがお世話する人たちね」と彩が言った。
バーノンが真二たちに気付いて手を振った。真二も軽く手を上げた。ダンとスティーブも会釈した。彩が小さく頭を下げた。
改めて聴いてみると、スティーブがドラムをブラシで撫でるように叩く曲が目立つことに気付いた。レストランでなければ思い切りスティックで叩きたいことだろうと真二は思った。けれど彼らの演奏は悪くなかった。二杯目のワインを飲みながら聴き入った。
最後はジャズにアレンジした『卒業写真』だった。彼らの演奏は三村と一緒に前もって聴いていた。日本人に馴染み深く、レストランで演奏するには最適だった。スティーブがブラシで叩くドラムはやはり悪くなかった。
演奏が終わり、ゲストの拍手に送られて彼らはステージを降りた。途中、彼らは彩と真二に手を振った。
「最後の曲は聴いたことがあるわ」と彩が言った。
「そうだろう。ユーミンの曲だ。『卒業写真』」
「やっぱりそうなんだ。どんな歌詞?覚えてる?ダディの時代の曲?」
「そうだ。確か・・・」
「ダディもピアノで弾ける?」
「弾けるさ」
「じゃあ、弾いて」
「そうだな。じゃあ今からそこのピアノで弾いてくる」
「うそでしょ」
「うそだ」
「なーんだ」
「当たり前だ」
「人をサーブするのがダディの仕事でしょ」
「僕は裏方なんだ」
「表方にはならないの?」
「ならないし、なれない。そしてパークの性格から外国人でないといけない」
「ダディが水曜日にジャズクラブで弾くのはどうなるの?」
「ノーギャラだ。弾かせてもらってるんだ」
「今度聴きに行ってもいい?」
「お酒を飲むところだからな」
「じゃあ、マミーと一緒なら?」
「そうだな」
「気のない返事。マミーはどうしてダディの演奏を聴きに行かないの?」
「さて、何でだろう」
「マミーに直接聞いても埒が明かないし」
食事を終えて、二階で休憩している『ランブル・ビート』を訪ねた。
個室に入ると、ハーイ、と彼らは椅子から立ち上がって真二たちを迎えた。彩は英語で挨拶した。幼児の頃から英会話を習わせていたので、外国人と喋ることに気後れする風は彩になかった。世の大抵の親と同じように、娘が英会話学校とピアノ教室に通うことを圭子が強く望んだのだった。
長方形の部屋にぴったりはめ込むように同形の机が伸びていて、狭苦しかった。
「ピアノをやってるんだって?」とバーノンが聞いた。
「イエス」と彩。
「ジャズ?」
「以前はクラシック。今はジャズ」
「誰に習ってるの?」
「今は父です」
「ダディを尊敬してるんだね。ピアノだったらダンも習えられるけれど」
なあ、とバーノンはダンを向いた。
ああ、とダンは応えた。
「実際に教えていたこともあるんだ」とダンは言った。
「じゃあ、教えて」と彩は言った。
「無理を言うんじゃない。彼らはプロだ。生活の中で彩に割り当てられる時間はないんだ」と真二は口を挟んだ。
「分かってるわ」と彩はしおらしく応えた。
バーノンが入り口近くの椅子を促し、真二たちは座った。
「コーヒー飲むか?飲むだろ?」スティーブは聞きながら、壁際のワゴンのところに行って、ポットのコーヒーを紙コップに注いだ。かきまぜ棒を挿し、携帯用の砂糖とミルクを手に取り戻ってきて、真二と彩の前に置いた。
コーヒーは食事の最後で飲んだばかりだったが、真二は飲んだ。彩も口をつけた。
「今日の俺たちの演奏はどうだった?」ダンが聞いた。
「悪くなかった」と彩が応えた。
真二は彩の頭を軽く小突いた。
「もっと言い方があるだろう」
真二はダンたちを向いて言った。
「彼女にとっては最高の褒め言葉なんだ」
彩に「そうだよな」と言うと、
「どうかな」と彩が応えた。
皆が笑った。
「楽器はやっぱりピアノが一番好きなの?」とスティーブが聞いた。
「リズムセクションも大好き。ドラムもベースも・・・そう応えれば父は私の頭を小突かないの」
また皆で笑った。
「でも本当にドラムもベースも好きなの」と彩は言った。
「君のダディのギターはどうなの?悪くない?」とバーノン。
「ゲストの前で演奏するダディを観たことがないの」彩は真二のことをいつものようにダディと言った。
「どうして?」
「お酒を飲むようなところでしか演奏しないから」
「それは残念だね。聴きたいだろうね」
「観たいわ」
「じゃあ、俺たちと一緒にダディの演奏を観に行こう」
「本当に?」
「なあ」とバーノンはダンとスティーブを見た。
「オーケイ」と二人は応えた。
「いいだろ」とバーノンが真二に聞いた。
「君たちが一緒だと安心できない」
「分かってる。演奏中だけさ。シンジはアヤと来る。アヤは俺たちとシンジの演奏を聴く。アヤはシンジと家に帰る」
「言ってみただけだ」と今度は真二が笑って言った。
部屋を出て階段を降りながら彩にメンバーの印象を聞いた。
「みんなダディと同じくらいの年齢かな?」
「もうちょっと若いと思う。けれど彩の倍くらいは生きている」
「あのピアニストのダンが頭を剃ってるのはなぜ?」
「ボールドなんだ」
「ベースのバーノンは胸毛がポロシャツの間から出てるし手の甲もけむくじゃらね。どちらもブロンドだけど」
「そんなことばかりが気になるんだな」
「あの毛を見たらやっぱり肉食なんだなと思うわ。毛むくじゃらの獣を食べるから彼ら自身もけむくじゃらになる。日本人のように草木を食べる人種じゃなくてね」
階段を下りて出口に向かった。テーブルに案内されるゲストのカップルとすれ違った。
「スティーブはどうだ」と真二は聞いた。
「学校の先生に似てる人がいるの」
「誰だ」
「一番若くて人気のある先生。言ってもダディは知らないわ」
「そうか。彩はスティーブに興味があるのか?ピアニストのダンに一番興味があるのかと思った」
「興味の種類が違うの」と彩は言った。
『ロンバーズ』を出た。埠頭を歩いて通りに出た。ラグーンから吹いてくるのが本物のカリフォルニアの夜の風のようだった。
「スティーブのようなタイプには気をつけた方がいいな」
「どういう意味?」
「あの手のミュージシャンは危険なんだ」
「彼をよく知ってるの?」
「知らない」
「昔のダディを重ねてるんじゃないの?」
「馬鹿を言う」
「人を見かけで判断するのはダディらしくないわ」
「僕はいつでも見かけで判断するんだ」
「そうなの?」
「大半はな。彩より長く生きている分、それだけ人間を見ているから」
「過信だわ」と彩は言った。
ウェストブロックのオフィスに外線がかかってきたのは、毎週行われるマットとの定例ミーティングが丁度終わったときだった。マットの部屋から出てデスクに戻りかけていた真二は、高橋正美に声を掛けられた。
「女の方から電話ですよ」
「そう。誰だろう」
「席で取られます?」
「ああ」真二は立ったまま受話器を取り上げた。真二のデスクはパーティションで区切られている。マットはアメリカのオフィスに近い個室の連なるオフィスイメージを望んでいたが、スペースが許さなかった。だから、一部管理者だけでも個室でなくともパーティションで区切ることになったのだ。
このときばかりは区切られていて幸いだった。記憶の奥に押し戻されたはずの相手の声は、真二に動揺をもたらしていた。
「仕事中に突然ごめんなさい」
「どうしたんだ?」と真二は努めて平静に言って、椅子に座った。
「迷惑だった?」
「いや、驚いたんだ。この間はパークを楽しめたか?」
「ええ、十分」
「まだ大阪に?」
「そうなの」
「長い滞在だね」
「実はお願いがあって」
「僕にできることであれば。ところが僕にできることはたかが知れている」
「父を知らない?」
戸惑いで真二は黙った。
「私の実の父よ。大阪でピアニストしてるってずっと昔に言ったことあるわよね。今もピアノを弾いてるとすればあなたがもしかすれば知っているかもしれないかと思って・・・」
パーティションに貼られたショーのスケジュール表に、真二は意味も無く人差し指をなぞらせていた。
「残念ながら・・・」
「そう・・・」美里の落胆の声がした。
以前・・・ずっと以前、クラブのオーナーに尋ねたことがあった。美里の父親の名字を言ったが、知らないと言っていた。
「僕が知るはずもない。長年大阪に住んでいるミュージシャンにでも聞けば何か分かるかもしれないが、少なくとも尋ねたことはない」
「そう・・・」
「君の父親がピアニストだったことも、僕は今聞いて何とか思い出すことができたくらいだ。申し訳ないが」
「そう・・・じゃあ探してくれない?」と美里は言った。
「ギターを弾かせてもらっているクラブのオーナーは大阪にもう長く住んでいる。君の父親と時代が重なっていないかもしれないが、もしこの狭い業界で彼でも知らないとなると、分からないかもしれない」
「紹介しれくれる?僕にできることであれば、ってさっき言ってくれたものね」
美里の軽い詰問口調は、急にかつて美里と過ごした若い時期を彷彿とさせた。けれど、過去の美里に押し付けがましさは似つかわしくなかった。時が経つにつれ、研磨されてかどが取れ、真実の過去はいつしか美しい宝石に生まれ変わっているのかもしれないと真二は訝しんだ。
とにかく美里は今になって自分の前に現れた。再会が偶然だったにしろ、その偶然の後にまた自分に連絡をつけてきた。美里はただ、記憶のショーケースの間を歩いて楽しんでいるのに違いない。
「今どこに滞在してるんだ?」と真二は言った。
美里は梅田界隈のホテルの名を告げ、今日会えないかと言った。
「今日は仕事が遅くなると思う」
「構わないわ」
「君が構わなくても僕は構う」
「ごめんなさい。あなたの家族にご迷惑だものね」
その通りだ。自分にはもう新しい自分の生活があるのだ・・・
けれど「構わない」と真二は言った。
九時に会うことにして電話を置いた。遅くなると圭子にはメールを入れておいた。待ち合わせの場所は難波にした。真二はそのまま自分が演奏するジャズクラブに美里を連れて行くつもりだった。
ショーケースを見たいのなら見て廻ればいい。自ら色あせてしまった過去を見たいなら好きにすればいい。その過去が打ち消されていく代わりに訪れる現実を目にしたいなら好きにすればいい。そして美里は直接オーナーに大阪在住のピアニストについて聞けばいい。木島や加納も何か知っているかもしれない。今日はゲストミュージシャンもいないはずだ。相談するのに最もいい日に違いないのだ・・・
地下鉄御堂筋線難波駅の最後尾の改札出口を出たところで待ち合わせをした。すでに美里は来ていた。
改札口から流れ出て来る乗降客を眺めていた様子の美里が真二に気付き、手を振った。美里はジーンズのパンツの上に、腰のところで絞られた黒地に水玉のブラウスを着ていた。キーをモチーフにしたペンダントが胸元で揺れていた。
「待った?」と真二は聞いた。
「来たばかり。いえ、本当は早く着いたから地下街を歩いてた」と美里は応えた。
美里を促して歩き始めた。
「おすし屋があった。東京でよくおすしを食べたわね」
「そうだったかな」そっけなく真二は応えた。
「どこに行くの?」
「僕が週に一回演奏しているクラブだ」
「そう」美里は思案するような表情を見せた。
「いいの?」
「何が?」美里が問いたいことは分かっていた。
「あなたの仲間たちのところに私が行っても」
「ああ。電話で言ったようにオーナーはピアニストでね。きっかけ程度は掴めるかもしれない」
「ありがとう」
「どういたしまして」
地下を出て、夜の御堂筋に出た。
賑わっている立ち食いラーメン屋の横を過ぎた。
「これってトンコツラーメン?」と美里が聞いた。
真二は頷いた。
「昔よく新宿でトンコツラーメンを食べた。それから一緒にクラブに行った」
「そうだったかな」よく覚えていた。
新宿通りから靖国通りに抜ける間に二軒あった。一つは熊本ラーメン、もう一つが博多ラーメン。大抵は美里が勘定を払った。店を決めることが真二の担当だと美里は言ったものだった。
「懐かしくなって新宿のラーメン店に入ってみたことがあるわ」
「変わってなかったか?」
「油っこくて塩辛かった」
「店の味が変わってしまったのかな」独り言のように真二は言った。
「いえ、私の味覚が変わってたのよ。どうしてこんなに塩辛いものが好きだったんだろう。若いときに好きだったこんな油っこくて味の強いものが、今度はもうただ暴力のように思えた」
「何かおかしい?」美里が言った。真二は自分が笑っているのに気が付いた。
「暴力っていうのがね。僕たちは齢を取ったということなんだろう」
「今見た店は暴力的な味がするのかしら」
「後で試してみればいい」
「止めておくわ」
「どうしてだ」
「太るもの」
「ミー・トゥーだ」
「一時の誘惑に負けてしまうと、元に戻ろうとするときにはその何倍もの努力を必要とするもの」
「僕も食べようと言われたらどうしようと思った」美里が笑った。
「今まで仕事だったんでしょ。お腹はすいてないの?」お腹はすいてないの?・・・その柔らかい言葉遣いに、記憶の奥に引きずり込まれる気がした。
「サンドイッチをかじった。遅くなるときは大抵そうする」
「晩ごはんいらないって奥さんには連絡してあるの?」
「メールしてある」
「便利な時代になったわね」
「本当にそうだと思う」
道頓堀のネオンの下を、人の往来に流されるように歩き、雑居ビルのエレベーターに乗った。
エレベーターの側面はガラス張りだった。美里は緊張したように向かいのネオンが見ていた。五階で降りた。
エレベーターが開くと同時に、
「いらっしゃいませ」とウェイターの野島の声がした。
足を踏み入れると、「何だ。真二さんか」と野島は言った。カウンター席にいたベースの木島、ドラムの加納が身体を回し、そのテーブルの奥に立っていたオーナーが、軽く手を上げた。客はステージ前にちらほらと見えた。
「今日は出番じゃないのにどうした」そう言ったオーナーが美里に気付いた。
「いらっしゃい。初めまして」
オーナーは視線を真二に戻し、
「奥さんか。今まで一度も連れて来なかったのに、どうしたんだ」
木島と加納も同じような顔をした。
「違いますよ。昔の知り合いです。皆さんにお願いしたいことがあって」
立ったまま真二は美里を紹介した。美里は笑顔で挨拶をした。
「まずは席に座って」オーナーの言葉で木島と加納はカーテンを分けるように席を空け、真二と美里は二人の間に座った。
「ビールでいいかい?」とオーナーが聞いた。
「僕はそれでいいです」
「真二のは分かってるさ。彼女に聞いてるんだ」
「私もそれでいいです」と美里は言った。
「今日は演奏してもらわないからお代はいただきますよ」オーナーはそう言ってビールと突き出しのピーナッツを真二たちの前に置いた。
「本当ですか」と真二。
「当たり前だ」とオーナー。
「私が払います」と美里が口を挟んだ。
「冗談ですよ。仮にもらうにしても真二からもらいますよ。絶対に」とオーナー。
「最近になって真二は知り合いをちょくちょく連れて来る。こちらはサービスし続けなんですよ」オーナーは美里に言った。
「ところでお願いって?」と木島が横から言った。
「そうそう。そうだった」とオーナー。
「人探し。彼女の父親です。ピアニストで大阪にいるはずの」と真二は言った。
しばらく沈黙したあと、
「まあ、ビールでも飲んで」とオーナーは促した。
美里はビールに口をつけた。
「お父さんの名前は何ですか?」
「黒岩です。黒岩武」
「くろいわ、くろいわたけし」と中空を見つめたオーナーは、がらくた箱から手探りで捜し物をするように繰り返し、真二を見た。
「以前、くろいわって知らないかって聞かなかったか?」
「さあ、勘違いでしょう」と真二は平然と応えてビールを飲んだ。
オーナーは首をかしげてから美里に向き直った。
「お母さんには聞けないの?」
「母は亡くなりました」
真二ははっと息を飲み、
「知らなかった」
「言わなかったものね」と美里は真二に言った。
「いつだ?」
「三カ月ほど前に」
「ご病気か何か?」とオーナーが聞いた。
美里はオーナーを見た。
「心臓をずっと患ってました」
「ずっと?」記憶の中に病弱な美里の母親を真二は見出すことができなかった。
「大変だっただろうね」とオーナーが言った。自分と知り合ったときからずっとだったのだろうか、どうして一言もそのことを自分に告げなかったのかと胸が締め付けられる思いがした。
「義理の父が面倒をよく見てくれましたから」
「そう、他に親戚の方は?」
「祖父母も亡くなってます」
美里は自分で喋り始めた。
「母が病気になって亡くなってしまうと、自分の寿命も母に重ねるようになって。やり残したことを片付けておかないといけないと。思い始めると日に日にその気持ちが強くなって」
オーナーが言った。
「それで実のお父さんですか。今すぐには思いつかないけど、知り合いに当たって見ますよ。いつまでこちらに滞在する予定?」
「見つかるまで」
皆が驚いた声をあげた。
「すぐに見つからなければウィークリーマンションか何かに移ります」
「じゃあ頑張りますよ。君らも伝手を当たってくれよ」オーナーは木島と加納に言い、
「そろそろ出番だから。ちょっと演奏の前にトイレに行ってきますね。真二もギター持って来てれば参加できたのに残念だ。まあ今日でなくてもまた聴けるけどね」
「彼のは今度聴かせてもらいます」と美里が言った。
「演奏の後にまた喋りましょう。忘れない内にお父さんの名前を漢字で、あと年齢その他手掛かりになるものを書いておいて」
オーナーはカウンターの前を離れた。
真二の隣にいた木島が身体を乗り出すようにして聞いた。
「やっぱりピアノが一番好きなんですか?」
「ベースも好きです」
「本当に?」
「ドラムも好きです」
「そうなの?」同じように身体を乗り出すようにした加納に、
「ベースやドラムのいい演奏は、きちんとカツオでダシをとったみそ汁のようなもの。粉末のだしじゃなくて」と美里は言った。
二人が笑った。
「いい表現ですね」と加納が言った。
「でしょう」美里は真二を向いた。それはかつて、新宿のクラブでよく美里が口にした言葉だった。美里が演奏仲間の間で談笑する姿は、真二の記憶をかつての新宿のクラブに引き戻した。こうしてすぐに美里は仲間に溶け込み、そしてその中心になったのだった・・・
トイレから戻って来たオーナーが、ステージに木島と加納を促した。真二は彼らのステージに向かう背を見つめた。かつて、あの中に若い自分の姿があり、その背を美里は見ていたはずだった。
「マミーも『ランブル・ビート』聴きに行かない」
鍵盤から指を離した彩は振り返って言った。サイレントギターを弾いていた真二もヘッドフォンを外した。彩は『ランブル・ビート』を気に入った風だった。レッスン以外で外国人と英語で喋ることも、彼女の興味をかき立てているようだった。
彩はパソコンから目を上げた圭子にメンバーの容貌を説明し始めた。
「ピアノのダンは頭を剃ってる。ボールドなのよね」と彩は真二に同意を求めた。
「ああ、恐らくそうだろう」
「外国人のひとは、禿げてくると頭を剃ってしまう人が多いね。どうしてかしら」と彩は不思議そうに言った。
「日本人みたいに必死に頑張ってバーコードで残すよりもいいんじゃない」と圭子が言った。
「外国人は彫りが深いから髪がなくてもおかしくないんだろう」と真二。
「日本人はおかしいの?」と彩。
「日本人だとどうしてもお坊さんに見えてしまうのかもね」と圭子。
「ダディは髪が無くなってきたらどうするの?」と彩。
「剃りたいね。だけどやっぱり坊さんに見えるだろうな」
「お坊さんに見えてもいいんじゃない」と彩。
「じゃあそうしよう」
「マミーも『ランブル・ビート』聴きに行こうよ」
「そうね」と圭子。
「ダディもマミーと一緒に聴きたいでしょ」
「そうだな」と真二。
「ねえ、マミーそうしましょう。そしてね、『ランブル・ビート』の人たちはダディのギターを聴きにダディのクラブへも足を運んでくれたのよ」
「そうなの?」と圭子は真二を見つめた。
「言わなかったか?」
「言ってないわ」
「とにかく、私と一緒に彼らが行ってくれると言ったわ。マミーもどう?」
「そうね」
「何か気のない返事。マミーはどうしてダディの演奏を聴きたいと思わないの?」
「いつも家で聴いてるわ」
「それでいいの?」
「それでいいの」
「変なの」
「あなたも結婚して夫婦になれば分かる」
「私は結婚して夫婦になってもマミーの気持ちは分からないと思う」
「まあいいじゃないか」と真二は言った。
「行ってもいいわよね」と彩は圭子に言った。
「お酒を飲むところよ」
「だから彼らに付いて行ってもらうのよ。もちろん行き帰りはダディと一緒よ」
「だめよ」と圭子。
「どうして」
「どうしてもよ。さっきも行ったでしょ。お酒を飲むところよ。あなたはまだ高校生よ」
「ダディもいるのよ。ダンたちもいる」
「ダンって誰?『ランブル・ビート』って何?どこの馬の骨とも分からないそんな連中と一緒だからと言ってもね」
「マミーはおかしいわ。どうしてそんなにむきになるの。ダディの演奏を聴きたいと言ってるだけなのに」
「だめなものはだめね」
「信じられないわ」
彩は憤然と立ち上がりリビングを出て行った。
「どうしてあんなにヒステリックになるのかしら」と圭子は言った。
「ヒステリックなのは君の方に見える」
「私のどこがヒステリックなのよ」と怒気を含んだ声で圭子が言った。
「だったらどうしてなんだ」
「あなたには関係ないわ」
「どこが関係ないんだ。僕の演奏のことだ」
「黙ってて」
「僕がついているのに」真二は強い口調では言わなかった。クラブで美里とはち会うことがあるかもしれないとも考えていた。でもそれがどうしたと言うのだ。今、自分は美里と何かがあるわけではないのだ・・・
「あなたの遺伝子ばかり」圭子がつぶやいた。
「何か言ったか」真二は聞き直した。
「あの子の中のどこにあるの?私の遺伝子は?」
「馬鹿を言う」
「馬鹿なことじゃない。あなたには分からない」
「馬鹿・・・」
圭子は両手で耳をふさぐ仕草をした。




